September 21, 2009

責任について

折角なので、もう少し筆を進めてみようと思う。

先のエントリでは、責任をこう定義した。
「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」

日本語の普段の用法とは若干異なると思う。私のした定義の方が狭い。
責任というのは、一つに、責任をとる、とか使われる場合がある。具体的に何か代償を払うことである。つまり私の定義した、「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」ということ。
もう一つ、責任を感じる、とか、責任感、とか使われる場合の「責任」は、また違った意味合いを持つものであろうと思う。これは、具体的に責任をとるということではないが、考えたり行動したりする上で重視する、とか、制約を課するとか、そういう意味であろうと思う。心の中のこと、あり方のこと、内面的なことである。

前者の「責任」について。
Aさんが「責任をとる」、という場合。Aさんはどういうことになるのか。
会社でのミスだった場合、上司や同僚に謝る、とか、取引先に謝るとか、そういうことになる。その人のせい、という、対外的評価にさらされることになる。そしてそれに応じた対応をする。残業したり休日出勤をしたりするかもしれない。悪くすると降格、辞職とかになるかもしれない。
法的に、損害賠償責任がある、と言われた場合、これは賠償をする責任を負う。つまりお金を払わなくてはならないということになる。
刑事責任がある、という場合には、自分の犯した犯罪につき、刑罰を受けなくてはならなくなる。
ケースバイだが、まあそういうものだろうと思う。つまり、前エントリで定義したようなことだ。不利益を被ったり、償ったりすること。

そして、後者の場合について。
Aさんは責任感がある、とか、そのことについて責任を感じています、とか。
これは、~しなくてはならない、とか、~はわたしのせいだ、とか、内面的に(心の中で)思うことだろうと思う。
そう思うことによって、行動につながることもある。この仕事が終わるまでは帰れない、なぜなら顧客に迷惑がかかるから、なんてのは内面の責任感により仕事を続けるという行動につながっている。
子供が悪いことをしたのは親である私の責任だ、申し訳ない、なんてのは、内面で責任を感じたことにより謝るという行動につながっている。で、別に行動につながらない場合もある、勿論。
もといた会社の先輩はよく言っていた。「責任感なんて僕は大嫌いなんだ。責任感なんていうのは人をうまく使って、しばりつけるための都合のいい言葉に過ぎないからさ。」

近所のサイトに、こういう言葉があった。

「思う」だけでは他者にとっては無いのと変わらないと、基本的なスタンスとしては僕は思っている。責任にせよ誠実さにせよ優しさにせよね。責任感の強さの度合いが「責任のまっとう具合」に加味されはしないし、加味されるべきではないと思う。

多分、彼の言っている「責任」は、後者の方の意味、つまり、責任感とか、責任を感じている、とかの心の話を前提にしている、と思う。それか、もしかすると、責任感を感じているだけでは、責任をとったということにはならない、と言っているのかもしれない。

で、責任感を外部的に評価するという話であれば、それは外部的に表示されないと評価のしようがないので、上記引用はわかる。ただ、物事として捉える場合には、内面の部分も含めるべきだろうと思う。他者にとっては無いのと変わらなくても、本人にとってはあるからだ。責任感のあるなしは、外側からだけでは決められない。
で、前述のように、責任感があるだけでは責任をとったことにはならないのは勿論だと思う。私は「責任をとる」ことと、内面の問題に、定義を分けたが、そういう言い方もできると思う。

内面の意思と表示の間の問題というものについて、法学でも民法の初期に学ぶのであるが(主に。他の憲法や法律でも学ぶけど)、その話はまた今度。

で、私は前エントリで、「責任というのは、何かの物事から生じる不利益を被ることである。償うことである。」と定義した。これは外面的な話である。具体的にどうなるの、っていう話である。
これに内面的な、つまり~しなきゃとか、気に病むとか、そういう心の中の話を組み込まなかったのは、前エントリ内での文脈もあるが、それはあんまり問題にならないからである。具体的にどうなるの、っていうのが結局実害だからである。いざ責任をとらなければならないとなったときに、問題になるのはそこが主だからである。

私は責任というものについて、割にパッケージ化された考えを持っていて。それは以前に考えたことがあるからなのだが、それは少し前まで、責任というものを怖がっていたからである。
責任をとらなければならない、とか、責任ある地位、とか、そういうものが怖かったのである。
そこで、なぜ怖いのかを考えてみたわけなのである。考えることは大事である。考えれば大抵のことはわかるのだ。
出た答えは、責任というものがどういうものかということを明確に認識していなかったから、である。簡単ー。お化けと一緒である。わからんものは怖いのである。
で、責任を負うと、要するに、こうこうこうなるわけね、とわかってからは、怖くなくなった。責任の範囲は事前にまあだいたいわかるだろう。最悪辞職、とか、よくて社長に怒られる、とか。それをする覚悟ができていればいいわけだ。できなきゃやらなければいい。それだけだ。

私見。

※追記(090921.PM3)
補足。大体同じようなことが書いてあったが、辞書を一応参照することにする。
上記の文章中では、「責任」と、「責任をとる」「責任感」のそれぞれの定義が混乱して記載されているふしがあったため。

引用:goo辞書
(1)自分が引き受けて行わなければならない任務。義務。
   「―を果たす」「保護者としての―」
(2)自分がかかわった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償い。
   「―をとって辞職する」「だれの―でもない」「―の所在」「―転嫁」
(3)〔法〕 法律上の不利益または制裁を負わされること。狭義では、違法な行為をした者に対する法的な制裁。民事責任と刑事責任とがある。

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