September 24, 2009

内心と行動の一致・不一致について思うこと

意思と表示について。

心の中で思っているだけでは、外の人にはわからない。
口に出すとか、文章にするとか、表情で表すとか、何らかの形で表に現れなければその人の中で何が起こっているのかはわからない。
もっというと、実は表わされたところで、実際その人の内面でその表示と同じ思いがあるとは限らない。顔で笑って心で泣いているのかもしれないし、笑顔で悪意を持っている人も、そっけなくても好意を持っている人も、いるわけである。

極論すれば、心の中で何を思っていても、外に出るのが他者にいい影響を及ぼすものであれば問題ない、ということもできる。

人に優しくしなさい、というのは、優しい気持ちを抱かなくても、優しいと思われる行動によって達成される。泣いている人にハンカチを差し出すのは、優しい気持ちでなくてもできる。でもその行動を見た人は、この人は優しい、と思う。もしかしたらこの人がその場にいた誰かの高評価を得る目的でそのような行動をとったのだとしても、外からはわからない。


わからないけれど、他者を欺いていると思う。不当に高い評価を得たままになってしまう。これがフェアじゃないと思う。

自分の内面と、それについての他者からの理解が一致するということは、安らかなことだと思う。正直であるということ。
ハンカチを差し出したのが、優しさとは違った義務感のようなものであったとしたら、この人は義務感からハンカチを差し出したのだと理解されたい、ということ。


例えば、誰かが悲しんでいるとき、私も悲しくなれればいいのに、と思う。
一緒に悲しくなって、泣いたり怒ったり、できればいいのにと思う。自分の内面も悲しければ、堂々と行動でも悲しがることができる。悲しい気持ちに嘘偽りがなければ、この人も悲しんでくれている、という評価だって後ろめたくない。
ところが残念ながら、私にはその能力が無い。イマジネーションが足りない。その人になりきれない。大抵、その人が悲しんでいることが悲しい、という軽微な悲しみしかやってこない。あとは困惑。

その人が求めているのが、何かの解決策であれば、一生懸命考えてあげることもできる。
しかしほとんどの場合、求めているのは、一緒に悲しんでほしい、悲しみにつきあってほしい、ということである。
私は想像力を振り絞って、何か言葉を探す。

そういうときに、割り切って、悲しくはないんだけれども、とても悲しいという表現をしてもいい、と考えられないだろうか、と思う。内面の事実とは違う評価を受けても構わないと開き直れたらどうだろうと。
それが彼彼女が望んでいることなのだから、私がそこを納得すれば、ベストな結果になるのではないかと。その人にとってはそれが真実になるのだから、いいではないかと。優しい嘘というやつだ。

多分、役者も同じことをしていると思う。芸術のために嘘を高度に高めた技だと思う。そしてその嘘を、皆が知っているという前提でやっている。
嘘も方便なのである。目的が正当であれば、よいのではないか。


頭ではそう思っていても、なかなか。
正当かどうかなんて、誰にわかる?何かのきっかけで私の本心を知って、その人は傷つくんじゃないか?
嘘は所詮、嘘。
嘘ですと断った上でなければ許されないものなのではないか。

嘘は負債のようなもので、負えば負うほど管理が難しい。帳尻を合わせるのに四苦八苦。
大人なんだから、いくらかの負債は必要なのだろうし、それを管理する能力くらい身につけなければならないのかもしれないが。

そんな自分の負担も考えて、結局私は悲しむ人の前でおろおろするしかない。


くるりの「ホームラン」という歌に、こんな歌詞がある。

「誰かの不幸せに 僕の涙はいらないから」



そんなわけで、私は今日も案外正直に生きている。

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