September 26, 2009

寂しさについて

昨晩、久々にTelefon Tel Avivを聴いたら、なんというか、まあ有り体に言うと、病んでいて。
東京にいた最後の二年間くらい、つまり2006年の夏から2008年夏くらいまで、これを好んで聴いていたというのは、今とはかなり違った精神状態だったのだろうと思うわけで。
どういう曲かというと、こういう曲である。



これを聴きながら、夜のお台場(テレコムセンター付近。人通りはほぼ無い。)を散歩していたのだけど。あと通勤中も聴いていた。朝から。

こういう曲つまり東京に住んでいた時聴いていた曲から想起される思い出というものが、悉く「寂しい」という感情を伴っていることに気が付いた。
それは過去のものだからというのではなくて、東京で生活していた間ずっと、常に、寂しかったのだということ。友人といても、サークルで騒いでいても、恋人といても、そうだったのだということ。

そしてその寂しさを、私は好きだったということ。自分の内側にずっとあった、帰るべき場所とでも言おうか、そういうもの。人は誰しもひとりである、という基本に戻るというか。

音楽を聴くときは大抵一人だから、そういう記憶が多いのもあるかもしれない。
真冬に銀座の街を歩いてバイトに向かうとき、とか、同じく真冬に銀座に呼び出されて待たされた間散策したときとか、早朝に大学へ向かう道、とか、台場でフジテレビのスタジオを見ながら散策した道とか、平日の真昼にがらがらのゆりかもめに乗っていたとき、とか、秋の夜に窓を開けて寝っ転がっていたとき、とか、千葉のだだっ広い公園で芝生と空ばかり眺めてぼーっとしていたときとか。
思えばよくぼんやりしていた。

寂しさは、親しいものだった。憧れてさえいた。誰しも、そうなのかもしれない。本能的なものかもしれない。一人は冷静になれる。自分が自分を支えている肉体であることを確認できる。
「僕の地球を守って」という古い漫画があるけれど(ちなみに名作)、一巻の最初に、主人公の女の子が月を見上げて、なぜか、帰りたい、と思うシーンがある。彼女は結局後の展開で、月に関係のあることがわかるのだけれども。
しかし夜空を見ていると、同じように、帰りたい、と思う。漫画に影響されているのでは全然ないと思うが、寂しさと、空に思いを馳せる気持ちが混ざってそうなるのだろうか。


少し前に糸井氏が、さびしさってのは贅沢な感情だ、と書いていた。全部含まれているから、と。
確かにそうもいえるかもしれぬ。楽しさや嬉しさや悲しさなんかを経ての寂しさなのかもしれぬ。それが以前はあって、今はないというような。ある状態に焦がれる状態というか。
「いきの構造」という本は「いき(粋)」について仔細に分析したとても面白い本だが、その「いき」の構成要素としての「渋味」についてこんな記述がある。
「渋味は甘味の否定には相違ないが、その否定は忘却とともに回想を可能とする否定である。逆説のようであるが、渋味には艶がある。」
寂しさにも、それが言えるのかも知れぬ。

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