September 30, 2009

定義について

あるところで、定義の話をしていて思ったんだけど、あと、twitterに昨日何気なくつぶやいたんだけど、定義というものは、「一般的に統一されている側面」と、「個々人によって違う側面」とがあるんじゃないかと。
定義っていうものの意味の範囲が私は他と比べてどうやら広い。

なんでも定義。それを説明しようとしてたら定義。

もしアイスクリームを定義しようとしたら、レシピから定義する方法もあるだろうし、味とか温度とかでもあるだろうし、業界とかサプライチェーンとかでもあるだろうし、思い出とか好みでもあるだろうし、もう何でもありみたいな感じだ。ちょっと言い過ぎた。

大抵は、定義といったら、
「一般的に統一されている側面」のことだろうと思う。みんなに通じるというか。
でも、
「個々人によって違う側面」というのもあるだろうと思うわけで。個人的な。その人だけの「アイスクリーム」ってあると思うのだ。その人の定義する「アイスクリーム」。よく、野球選手とかに、あなたにとって「野球」とは?みたいな質問するけど、そういう。そこで彼は定義するわけだ、自分にとっての「野球」を。


で、セカイカメラの出現によって、その個人の中にあった個人的な「定義」が、セカイにすべり込むんじゃないかって、思ったり思わなかったりした、昨夜。セカイカメラってのは、私の理解では、iPhoneのアプリで、iPhoneを通して場所にタグを付けられて、iPhoneを通してそのタグを皆が見られる、つまり普通の視界に漫画の吹き出しみたいのがくっついてて、いろんな人の感想だとか情報だとかが見られるというもの。ここ数日の私の理解では。

で、定義の話なのだが、そういう「定義」ってみんなある程度は同じものを持ってるんだけれども、そういうのっていつ形成されたのかなと思って。いつわかったのかなと。「好き」っていう感情は、どうやってその感情が「好き」だと知ったのかしらと。
今日おじゃる丸がやってて、見てたら、小鬼のキスケが、「恋」について教えてもらうんだけれども、最初「ドキドキするものだ」と教えてもらい、ドキドキしたので、これが「恋」かなーと思って聞きに行ったら、それは違う、恋は「もじもじするものだ」、と言われ。で、ドキドキももじもじもしたのだけどそれも恋ではなくて、次は「その人に会えないといらいらするものだ」と。で、その要件も満たしたが恋じゃなくて。わからない、という内容で。
私たちはキスケみたいなことにはならない。なぜかならない。それで、なんでだろうと。いつそれを「恋」だと知るのだろうと。誰にも教えてもらってないのに。
これがみかんだよ、とかいうのはわかる。指し示して教えてくれるから、みかんとその物体が結びつく。でも、これが恋だよとは、教えてもらってない。む、漫画とかかなあ。そんな気がしてきた。生まれてきたときには全部名前がついていて、それを表現したものがあふれていて、私たちは難なく定義を手に入れているのか。

最近、江國香織の「都の子」を読み返す機会があって。彼女は「泣いた赤おに」を読んだ時に、切ないという感情を理解した、らしい。
そういう記憶、いいなあと思う。

でも、色弱の先輩の話を思い出す。
彼は小さい頃に、色盲、色弱のテストのための絵を見せられた。クラス全員が、この絵の中の線をなぞって、と言われ、できたのに、彼はできなかった。最初はふざけてるのかと思われた、と言っていた。その絵は、赤い地に緑の線が斜めに一本引かれた絵だった、らしい。赤と緑の区別がつきにくいから、彼はなぞれなかった。
それは、「赤」と「緑」の違い、つまり定義がはっきりしていなかったということだ。「赤」がどういう色で「緑」がどういう色だ、ということを認識していなかったということ。
多分、私とて、そういうものはあるのだろう。言葉として違うことは知っているけど、ちゃんとした違いはわからないというか。
手に入りにくい定義もある。

でも、基本的には、それぞれ自分なりに世界を知覚して、それでいいじゃない、と思う。
定義は必要な時に必要な分でやればいい。時効の援用権者の定義とかね。くそー定義ばっかりだぜ。

No comments:

Post a Comment