December 22, 2010

ボーダー

いつの頃からか、寝間着はボーダーという思い込みというか好みというかそういうものが自分の中でできてるなと気付く。
多分それは、普段外で着る服でボーダー柄を着ないことが関係してるんだろうなと思う。

ボーダーをさらりと着ることが出来る人に憧れた。
高校生の頃雑誌を読んでて、ロハスな感じの落ち着いたボーダー柄をはなちゃんとかがふわっと着てるのいいなあと思っていた。はなちゃんとか、ほんと前からロハスーな感じだなー。ベリーショートなのにかっこいいというより大人っぽくてやさしくて。オルビス。


ボーダーは人を選ぶのです。
はなちゃん的ボーダーにせよ、カエラさん的ボーダーにせよ。
誰が着てももちろんいいけれど、ちょっと諸刃の剣的要素が。線の太さや間隔や色や襟ぐりとか袖の長さとか、間違えるととてもオールドファッション。そういや今ミスド100円だね。

そういう経緯があって、無難に生きているのでほとんど外ではボーダー柄を着用しない。
その反動なんだろうなと思う。
ちなみに靴下もボーダーばっかり。


ボーダーって見ると眠くなる感じするよね。

ボーダーのズボンにボーダーのルームソックス履いてると、囚人のようです。

December 15, 2010

時間のないころのゆめ

最近、ホットソイココアラテ的なものをよく飲んでいる。おいしい。
豆乳をレンジで2分あたためて、ココアひとさじ入れるとできる。

そういえば、子どもの頃は飲み物をゆっくり飲むということができなかったような気がする。
大人たちがゆっくり、一口ずつコーヒーを飲んでは何かしゃべって、ときどき思い出したようにまた一口飲んだりしているのを傍で見ていて、どういう風にすればああいう飲み方ができるのか不思議だった。
飲み物というものは、のどが渇いていたり、おいしかったりして、最初にごくごく飲んでしまうのだった。

今ではもちろん、ゆっくり飲むこともできるし、急いで飲むこともできる。喫茶店で長居したいがためにコーヒー一杯で場を持たせるということもできるし、もう店を出るからってジュースを干すこともできる。大人になると、そういうことはうまくなるなと思う。

つまりは、飲み物が主役じゃなくて、脇役というかおまけというか口実になったんだなと思う。誰かとおしゃべりをするために、とか、小説を読むために、とか、そういうののついでに飲み物があるとなんだか様になるというか。
でも、結局夢中でおしゃべりをしたり小説を読んでしまうときというのは、飲み物を飲んでないなと思う。
子どもの頃って、飲み物が目の前にあると、飲み物に集中してしまってたんだろうな。

もしかしたら、大人が飲む飲み物は、場を持たせるために選択されているのではないか。わざと、ごくごくとは飲めないものだったり、飲んでしまうと勿体ないものだったり。コーヒーとかお酒とか。


最近昔のブログを読み返していて、ああこういうこと考えてたな、とか、感慨にふけったりしたのだけど、とにかく時間の流れの感覚が大分変わってきたなと思う。変わってきたというより戻ってきた。沖縄にいたころに。
たとえば、沖縄に帰ってきて少し経った頃のエントリ「時は金か」にこう書いてあった。

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時間って、つぶすものなの?って思っていた。時間を有効に活用する、とかも、時間に有効も無効もあるかい、なんて思ってはいないけど、なんか大人って大変だねと思っていた。
子 供の時は、目の前にはやることが沢山あったし、時間は潤沢にあったから糸目をつけずにつかっていた。学校で授業受けて、遊んで、目の前の宿題とかやって、夕方になったらご飯食べて、また好きなことして、寝て、っていうのを繰り返して、マネジメントなんて考えもせず、ただすくすくと、それでものんびり成長してたよなあと。でもそんな子供時代にも、余所の子はもしかするとタイムマネジメントを叩き込まれて育ったのかもしれない。

で、マネジメントマネジメントって言われると、そういう自然児には適応の限界があるんだよーという話。
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で、自然児は自然に戻った。

沖縄には沖縄の時間が流れていて、それはまぎれもなく私の体内に元々流れる時間と同じ速さだった。でも、東京で速めた時計をまた沖縄の速さに戻すのには時間がかかった。時差ボケの二年間。
でもこの二年間って、「時間のないころのゆめ」をもう一度見ることができた、うれしい二年間だったのかもしれない。
ちなみに、「時間のないころのゆめ」というのは、宮沢賢治の「雲の信号」という詩に出てくるフレーズ。

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  雲の信号
               
あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
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※参考:宮沢賢治の詩の世界:詩碑「雲の信号」
参考エントリ(trace of)

今は、沖縄に戻った頃のように時間を無為に過ごすことに罪悪感もなくなったし、焦りもなくなった。文字通り時間を糸目をつけずに使っている。家族と他愛ない会話もする。買い物にも付き合う。テレビとかもそんなに見たくなくても見ちゃう。時間がかかっても歩く。つまり、時間がもったいない、って思わなくなった。今書いてて思ったけど、時間がもったいないって、結構自己中な考え方だなと。自分のためにフルに有効に使いたい、ってことだよなって。
時間はもちろん有限だけれど、それを切り詰めると人生がきゅうきゅうとしてきて、人生的に何かがマイナスになりそうで、結局とんとんなのかもなと思う。人生を効率的に使おうとすればするほど、その分何かが減ってるような気がする。


ああ、もう大丈夫だなと思える今日この頃。

December 9, 2010

くるりのこと。

僕は今、語ろうと思う。
くるりのことでも。

このブログでも何度かというか何度も、ツイートの方でも何度も、くるり絶賛だったわけだけど、つい最近くるりの特集があった。NHKで「SONGS」という番組があってそれにくるりが出ていたのである。まあ30分番組なんだけど。

リビングで見ていたので、家族もいて、家族からはくるりのよさがわからないなー的空気が発せられていたので、よさを伝えてみようかとも思ったけれど、やっぱりやめた。言葉にすると、石になります。そのとおりだ。


くるりというのは、大ファンだ、と言うのに不向きなバンドである。よくわからないけど、そんな気がする。
くるりを好きだと言う人たちは、何気なく好きなことが多いような気がする。
でもよくよく考えてみると実は根深いところで、性格レベルで浸透しているようなところがある。
例えば東京事変なら、例えばイエモンなら、例えばナンバーガールなら、例えばハイスタなら、それはすごく意識的な自覚的な、コミットの仕方がある気がする。意識的にこのスタンスが、この世界観がとてつもなくツボなのだということが言えるような気がする。言葉にしやすいというか。このバンドのこういうところがすごく格好いい!という風に。そして傍目にもそれを好きだということのイメージが持ちやすい、良くも悪くも。この人はイエモンが好きなタイプなんだなあっていう。
でもくるりはそこらへんのインパクトがすごく薄いような気がする。

くるりというのは語るのに不向きなバンドである。
彼らの新しいアルバムは、「言葉にならない、笑顔を見せてくれよ」というタイトルなのだけど、本当に彼らの音楽のよさというのは言葉にしにくい。し、言葉にできない何かを楽曲に盛り込むのが本当にうまいと思う。そういうものを大事にしていることがよくわかる。

だから、聴けばわかるさということでもない。いや、聴いた方が早いんだけど、聴いてもすぐにはわからないこともたくさんある。私も多分わかっていないことがたくさんある。
でもなんだかその空気感が好きで。流れる時間の早さがしっくり来て。音の一つ一つが耳にしみこむ。
そして、巧いとは言いがたい、時々裏返ったり少し頼りなかったりする、でも素直な声が心に直接ふれる。巧く歌おうとしないところが、余計にその歌詞のシンプルさに似合う。
詞もいいのだけど、岸田繁は本当に深遠な真理を理解し確信して書いているわけではない、と思う。ただ、言葉にできない何かを、言葉と行間で(むしろ行間で)なんとなく汲み取って、あとは音楽でその感覚を表現しているように思える。
くるりのすごいところは、そこだ(私見)。言葉にできない何かを、音楽と言葉と言葉じゃないもので表現している。言葉の違った使い方。村上春樹の短編集「神の子供たちはみな踊る」の中の「かえるくん、地球を救う」での、かえるくんの言葉をなんとなく思い出す。
「ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」
ついでに「あしか祭り」からも。
「真の意味は、つまり我々のアイデンティティーとしてのあしか性を確認する作業はこの行為の連続性の中にこそあるのです。祭りとはあくまでその追認行為にすぎないわけです。」


飽きが来ないのもいいな、そういえば。本当にいろんな曲がある。アルバムごとに変わる。けどアルバムの中でも結構いろいろ。
たとえば「THE WORLD IS MINE」とかには、「WORLD'S END SUPERNOVA」も入ってるし「男の子と女の子」も入ってるし、「GO BACK TO CHINA」も入ってる。

これまでにもチャレンジングで格好いいバンドはたくさんあったと思うしそれはそれでいいのだけど、それを見ながら焦りもせず(いやわかんないけど)自分の世界観を表現し続けてきたのは本当にすごいなと思う。何かから影響を受けるということは大いにあれど、結局くるりの音楽になっている。だから多分、私は飽きもせずギャップに驚きもせず、くるりを聴き続けていられる。

結局くるりのよさを、伝えることはできなかったと思う。でも、くるりをいいと思っている人の共感を、もしかしたら得ることができるかもしれない。
そういう類の文章というのはある。

December 6, 2010

最近、一連の大きな大きな出来事があって、まだ収拾ついていないのだけれど。とにかく。
何か記事を書こうとすると、それが心の真ん中に、生活の真ん中に居座っているので、どうしてもそれを無視して何か書くというのに違和感があって。

まだその感覚をちゃんと表現することが出来ない気がしている。迂闊に言葉にしてしまうと、後悔する気がする。言葉にするというのは本当に、切り捨ててしまうことかもしれない。けど、書いてしまう。


すごく大切な人を見つけた。

誇張じゃなく、人生の見え方が、世界の見え方が変わった。息がしやすくなった気がする。
自然になじむ。気持ちが伝わる。言葉が通じる。

諦めが悪くて、頑固にこうやって生きてきてよかったなと思う(こうする以外の方法で生きてこられたかは疑問だけど)。逃げたり、ぶつかったり、悲しい思いをしたり、でもどうにかこうにかやってきてよかった。
こんな風に生き方が全て報われるということがあるのだなと思う。

神様はいるな、と思った。

キャラじゃないけど、今回はとにかく。ご報告まで。

November 30, 2010

to i

ゆらゆら帝国聴きながら、ゆらゆらしている夜1時。

ひとりぼっちの人工衛星、人工衛星つながりで相対性理論。やめちゃいな。チャイナ。
反応反射音速光速。ピンポン読みたいなー。
OTOGI NATIONからのSTROBOLIGHTS。2愛。
今、愛の灯のライト。It's all right.
Apple ate apple?
忘れられない一日になります。
ノルウェイの色はクリスマスの色。
Joy to the world.

インターネットは心の世界だ、本当だ。

結局そこにはiがあるわけで。

November 26, 2010

ファッション誌を買う

追記:2010.11.28 リンクしました広告など。

iPhoneから。3時だよ。

久々に雑誌を買った。最後に雑誌を買った記憶は「F1速報」だった。
その前は多分「週刊ダイヤモンド」とかじゃないかな。「日経トレンディ」かな。いやだな。

元々雑誌を定期的に買うというのが苦手な方だと思う。というか、定期的にっていうのが苦手なのかもしれない。ドラマも、だから1クール見通すなんて稀で、大河なんていふべきにもあらず。見通したドラマとか今まで生きてきた中であったかな。家族は意外とちゃんと観ていて、妹はこの前の「ゲゲゲの女房」ちゃんと観てたし、父もまた大河とかちゃんと観てる。

で、今日はファッション誌を買った。
ファッション誌は素敵だ。見てて楽しい。好きなモデルさんなんかいると、見とれることができるし、それでなくても女の子って楽しい!という気分になる。可愛いアクセサリー、可愛いモデルさん、可愛い服。
昔はEMIの細っこさとか、アリスのアンニュイな感じとか、SHIHOのあまりにバランスのとれたスタイルとか笑顔とか、に憧れたりした。アリスは好きだったな。
久々にアリス見たら「mini」買いたくなってきたよ。

今日は「SPUR」。
全然着れない服ばっかりだけど、そういう気分。ファッション誌を読むのは格好の参考にするためだけじゃないからな。私、テレ東系列のBSとかでやってる「ファッション通信」結構好きです。シャネルのコレクションとかめっちゃ可愛いです。
参考:2010 Fall-winter Haute Couture CHANEL-Look
同ページの「SHOW」ってので映像でショーが見れる。ライオンでかい。かっこいい。他のシーズンのコレクションも見れます。


そういう雑誌は、気分がリュクスな感じになるのです。
広告ですら格好いい。ちなみに今のルイヴィトンの広告好きです。
それにしてもスカーレットヨハンソンはなんであんないいんだ。D&Gの香水の広告とか。
シャネルの広告もアメリのひとだ!きれい。
編集もすごい。マークジェイコブスのリゾートコレクションなんて本当に絵本の中から 脱け出したみたい。
ジュエリーもすごい、なんだかんだシャネルは凄い。
クリスマス特集はすごく素敵。

映画とかは、ソフィアコッポラの「SOMEWHERE」とかクリントイーストウッドの「ヒア アフター」はマットデイモンでもあってみたい。
音楽はKIMONOS聴きたい。
artは森美術館でやる「小谷元彦展 幽体の知覚」、ていうかこのページのやつ全部行きたい。
人だけ並べると、大友良英、三宅一生、高木正勝、宮島達男。

立ち読みでもどぞ。

と、このようにアートごころが刺激されてたのしくなってくるのです。雑誌はお手軽アートなのです。
BGMは、相対性理論で「小学館」

November 19, 2010

結構年下の子に、「大人ですねー」って言われて、それはそうだね、年食ってるからね、って思いながら、「そうかなー」なんていうとき、自分が年っていうものを意外と気にしてるなとか思い、ふむと思う。

内田樹氏が「学年」というものについて本で語っていたなと思いだす。そういう「偏狭なコミュニティ」のこと。なぜかあるその連帯感や別に思う意識。一個違いだけと学年は一緒、っていう。
院など学年など一緒でも年はてんでバラバラで、でもおかしなことに学年を気にすることというのはあった。どういう意識なのでしょう。


で、年上でも年下でも、その人のせいじゃないもんな、と思う。若いのはその人のせいではないし、年取ってるのもその人のせいじゃない。その人にはどうしようもなくその年に生まれたのだから。
どうしようもない属性というのは結構多い。
性別、国籍、出身地、背の高い低い、重さの重い軽い。
そういうので差別してはいけない、って多分教えられるし、意識の中にもそういうのあるけど、年齢で差別しちゃいけないとは言われたことない。寧ろ年長者を敬えと教えられるのであり(儒教の影響アジア圏のためか)。
同じように年齢もまたその人が選べるものではないのよなあと、まあそれだけなんだけど。

ちなみに、祖母が85なのだが、病院なんかに行ったとき隣に座ったおばあさんと会話をしてて、1,2歳の差を気にしているので、すごいなと思う。

November 16, 2010

散策、でもいつもの

今日は、外出。

いつも、散策したい場所というのはあるのに、私の移動手段と体力が乏しいために、限定される。

那覇の街。
買い物がしたいんじゃなくて、いろいろなものに触れたいがために来るのだけれど、いや、でもひとりになりたいがために来るのだなと思う。結局のところ。

家族と住んでいると、ひとりで街を歩くという感覚に餓える。ひとりでコーヒーを飲むという感覚に餓える。ひとりの時間は大事。正確にいうと、ひとりだと実感できる時間が大事。
自分の輪郭を確認することができて、外側を外側として認識して、対象として認識するということ。そうして、自分の中で何かを自分に語りかけることができるということ。つまり、とりとめもないことを自分の中で何度も巡らせながら考えるのには、周りに人がいると文字通り気が散ってしまってできない。


観光で来た友人と一緒に歩く以外は足を踏み入れない市場の通りを、今日は一人で歩いてみたりした。
あの市場の通りは独特の匂いがする。パイナップルやマンゴー等の果実の匂い。衣料品の匂い。仏壇なんかに備えるお菓子の匂い。揚げられたサーターアンダギー。近くに公設市場があるから、生肉や魚の匂いも少し混じっている。混ぜこぜの生き物の匂い。
そういうのは、普段嗅ぐことのない匂いで。スーパーにだって同じようなものは置いているけど、そんな匂いはほとんどしない。
どこか懐かしいのは、おばあちゃん家の匂いに似てるからだな、と思い至る。

市場の奥の方にはなぜかカラフルな風船が下がっていた。

市場の店舗の二階には、県内の若手アーティストが借りたりしている古いぼろい部屋が並んでいたりして、そこで何かしらやっているかしらとのぞいたのだけど、一個奥の建物の方に入ってしまい、ほとんど廃墟でしたが、カラフルな風船を二階から見ることができて、少し楽しい。
あまり知られていないので、人は出入りしていない。でもなんだか文化祭のようで楽しい。





あと、タワレコ。
毎回言ってるけどあのヘッドフォンはずるいよ。超いい音で、CD、すごく欲しくなってしまうもの。
今日は試聴だけ。大貫妙子さんの声と、中田ヤスタカのサウンドと。迫力。
那覇店はそんなに大きくないので、エレクトロニカのコーナーはない。クラブミュージック内。あるいはポップス、ロックと同じように陳列。テルアビブはいない。この前高木正勝を買ったせいか、今度彼がライブで来るからか、彼のは一個増えてた。確かに聴く人はあまりいなさそうだものね。
最近は初回盤はDVD付って多い。それもまたくすぐる。

途中でスタバに入って、道路に面したガラスの方を向いて座ってたら、外の真ん前の席に多分地元のおじいちゃんが座って。
スタバの商品ではないよなーというカップのアイスかなんかを食べていた。
テーブルになにかピンクいものが置いてあったのでふと見たら、入れ歯でした。
ちゅーばーやっさー、と思いました。

November 15, 2010

yoru

iPhoneからの初post。
深夜のリビングにて。withビョークおばさん。ヴェスパタイン。

時は3時半。ねむくならない。朝刊の配達時刻の正確さ。
明日は明日で、元気なら予定がある。散策とカフェ。

朝のリレー、というのは谷川俊太郎の詩だけれど。世界規模でなくてもそれは起こっていて。
関東の人の送った写メの夜の暗さと、沖縄の空のうす明るさ。
我々は経度から経度へと夜を受け継ぐ。夜はやさしい。
夜の音楽に満ち、オリオン座がひかる。

ねむる者にやさしく、ねむらない者にもやさしい。

遠くの夜のことを思う。月はしずんだかしら。空気は澄んでいるかしら。もうねむっているかしら。

「月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?」

November 6, 2010

詩についての覚え書き

少し前に、
言葉は必ずしも伝達のためのツールではない
ってツイートした。

そして一瞬上げたのでご覧になった方もおられたとは思うのだけど、詩のことについて少し書いた。
それと関連しているのだけど。


今までこのブログでもどこでも、「言葉は伝達のためのツールだ」ということを前提に書いてきた気がする。
それは少なくとも自分が言葉をそのようなものとして扱っているからで。
そして言葉が生まれた経緯についても、言葉以前の人の思考をシミュレートするときに、自分の中でそういう絵が浮かぶからで、そういう思考の道筋をたどってしまうからであった。
つまり自分なら、言葉を使いたいと思うのは、誰かと何かを共有するためだと。
そして実際に言葉というのは、そういう風に使われているとも思ってきた。

そういう考えでいるとどうにも解せないというのが、詩だった。
詩にもよるけれども、凄いと世界の人々が認めるような詩人の詩は、あまりに抽象性が高くて、形式もまた説明に向くようには書けないようになっていて、そもそも伝達しようという意思がほとんど感じられない。わざとわからないように書いているのではないかと疑うほどである。難解であればあるだけそれは高尚なもののように見える。それを理解するにはたくさんの知識や高い人格が必要なように見える。
でも、私は伝達できなければどれだけの意味があるのだろうと思うタイプの人間で。
それで、詩を鑑賞するときには、語感として心地いいものや、美しいものや、わかりやすいものに限って、それを感じとり、傍に置いておくということにした。
たとえば短歌や俳句などはそういう味わい方をするものだと思う。ただ、詩の場合、それが十分でない鑑賞方法であるということを知りながら、しかしどうすることもできずに、もてあましていた。

しかし、詩というものはどうやら伝達を一次的な目的としているのではないようなのだ。
詩作というのはつまり、たくさんの人生経験のなかで、自分の獲得した「自分」の中での真理だとか本質だとかそういったものを苦しみぬいてつむぎだす行為、らしいということ。
その示唆をくれたのは母で、母はそういう風に詩を理解している。

そのことをなるほどねと頭に置いていたら、いくつかリンクする読み物があって。



まず、以前にトライしてまだ最初の方しか読んでいない、吉本隆明の「詩について」の、

「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。」

という文章にも通底するところがあるように感じる。
「全世界を凍らせるかもしれない」ほどの「ほんとのこと」。こんなものが書けるのは、誰だ。



で、次。
先日読んだ現代文テキストの、リルケの「マルテの手記」から引用。

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 僕は詩も幾つか書いた。しかし年少にして詩を書くほど、およそ無意味なことはない。詩はいつでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。
 詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅。遠くから近づいて来るのが見える別離。──まだその意味がつかめずに残されている少年の日の思い出。喜びをわざわざもたらしてくれたのに、それがよくわからぬため、むごく心を悲しませてしまった両親のこと(ほかの子供だったら、きっと夢中にそれを喜んだに違いないのだ)。さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過した一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海、ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。
それらに詩人は思いをめぐらすことができなければならぬ。いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕もとに付いていなければならぬし、明け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で死人のお通夜もしなければならぬ。
 しかも、こうした追憶を持つだけなら、一向なんの足しにもならぬのだ。追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして、再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。思い出だけならなんの足しにもなりはせぬ。追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、名まえのわからぬものとなり、もはや僕ら自身と区別することができなくなって、初めてふとした偶然に、一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生れて来るのだ。
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ふむふむと、思った。
そしたらたまたま、同じ日の授業の子のセンター過去問でまたもリルケの詩にめぐり会う。


95年度のセンター本試験の文章、饗庭孝男「想像力の考古学」にリルケの詩の抜粋。
-------------------------

ぼくはひとりだったためしはない。
ぼくより前に生きて、
ぼくより先に分かれてゆこうとした人々も、
ぼくという存在のなかに
生きていたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぼくには空間が必要なのだ、
一族全部が生きるに足るほどの空間が。

-------------------------「初期詩集」リルケ


この詩の前には、この詩をより理解可能にするための文章がくっついているが、なかなか観念的で、センターの評論の中では難解な方の文章である。
簡単に要約すると、

一人の「私」には、今までの歴史、生活が反映されている。その結果としての「私」である。言語もまたそうである。私たちは外国に行き、他言語に触れることによってそのことを深く思い知ることになる。
「私」は「私」以前に生きた無限に複数の「私」の集約であり、また同時に「私」と同時に生きている存在たちの集約なのである(前者を通時的な「私」、後者を共時的な「私」と呼んでいた)。

というようなことが書いてあった。
成程成程。



例えば、こういう風に説明を前につけていただけたらわかりやすいのである。評論の形で書けば、全てではないにしろ、詩よりは伝わるのである。
なぜ、詩なのか。
それは、言葉を伝達の手段として用いていないからだな、と思う。
沢山の経験と思索と感情からその心の中に醸成された、あるいは発現したあるものが言葉という形をとって、ふと書きつけられる、多分そういうものなのだと思う。もしかしたらそれは「叫び」かもしれないし、「呻き」かもしれないし、「つぶやき」かもしれない。ただそれは伝える以前に自然と出てきた言葉なのだろうということ。
そういう意味で、twitterの詩性とか。


そうして、私は「言葉は伝達のためのツールである」という認識でありながら、もしかすると伝達以前に書きたいから書いているのだよなと思い至る。伝達することはもちろん意識しているけれど、動機は伝達したいから、ではない。表現したいから、である。数ある表現方法の中で私のもっとも使いやすいと思った言葉で、私は表現をしているのだということ。
たとえばこのブログを意図的に検索にひっかからないようにしている閉鎖性とかは、伝達をむしろ拒んでいる方向性をもっている気すらする。


長くなったのでここらで終わるけれど、もう一つだけメモ。
タイムリー(まあ私にとって)なことに、内田樹がブログで「エクリチュールについて」という文章を書いていた。
高いリテラシーを要求するテクスト。
詩についての、覚え書き。

October 29, 2010

indescribable.

色々な音楽を聴いていて、どんな音も音として響くのだけど、琴線にふれるというか、こころの近くまで来る音というのがあるなと思う。

でも、例えばそれは「ピアノの音」というように一概に言えるものではなくて、同じピアノでも弾き方が違えば表情が違って、単に聴こえるなという認識しかできない音であるときもあれば、脅迫的な音もあり、沁みてくる音というのもあり、穏やかになぜていく音もある。弾き方かもしれないし、音の位置かもしれないし、和音の作用かもしれない。
でも、その音がやさしいのは、その音を作った人がやさしい気持ちで作ったからだと思うし、その音がとがっているのは、その音をとがった気持ちで作ったからだと思う。作曲した経験はないけれど、なぜかしら、そういう考えが私の中にはある。

で、音は言葉ではないから、言葉の束縛から、法則から自由である。
と共に、音は音なりに、ある程度の法則に従っているのであろうとは思う。人間が音波として認識できる範囲というのは決まっているし。出せる音というのも楽器の数に拘束されているのかもしれないし。
楽器という風に限定しなくてもいいけれど、つまり音が出せるものに。それはカシャカシャ言うキーボードの音でもいいのだけど。そういえば、コーネリアスの「toner」って曲はまさにプリンタの音を音楽にしちゃった曲だし、ビョークおばさんの「dancer in the dark」の中の「Cvalda」も工場の機械音をそのままビートやパーカッションにしてしまった曲だ。
で、そういう音による表現方法というか、伝達方法に、改めて気づかされているという実感。

「夜はやさしい」で体験したのは、詩を読む人が違うだけで、こんなにも作品の表情が変わるのだということ。麻生久美子の声はとてもすきっとしていた。原田郁子の声は、やわらかく手さぐりだった。
七尾旅人の声を聴いて感じたのは、人間の声というものの可能性。
岸田繁の声を聴いて思うのは、ものすごく正しい重さで届く声があるのだということ。

「特別な声」というのは存在するな、と思う。

たとえば音が、たとえば感触が、たとえば色が、あまりに自分の中で肥大していた言語の占める位置を脅かしつつある。

でも、相変わらず言葉も好きで。
文章の力にもまた、感動を覚えて。言葉を使ってこんなに表現が、その才能にある程度関わらず可能なのはとてもフェアで、幸福なことのように思える。

なんというか、それよりなにより、この世界、この時、それを伝えようとする人間の熱、が美しい。心ふるえる。

October 27, 2010

女の文章とか感性とか

妹が、

「江國香織と椎名林檎は似てるよね」

と言い、

そういう考え方もあるか、と

思った。


センター96年本試の第一問の評論を読んで真っ先に

「ああこれは女性の文章だ、絶対にそうだ」

と思い、実際そうだったのだが、ほとんど読んだことのない人の文章であった。

なぜわかったのかしら(でも多分、皆さんが読んでもそう思うと思う)。


そういう女性の思考の類似性を思う。
正確にいえば、そういう表現する女性の思考の類似性、か。


96年の本試の第一問は、「女」と「鬼」についてであった。
まず、古典文学や芸能における鬼は女を通して人間と交流することがある、という話。鬼の無垢な部分、優しさの部分が女と近接しているからだという話。
次に、女が鬼に変わる話。奥州黒塚の鬼の話、というのを持ち出す。
公家の乳母をやっていた普通の女が、まあいろいろあってそれと知らずにわが子を殺してしまう。で、狂気のあまり殺人を犯し続け、それをある僧侶に見られるところで羞恥憤怒の極み、
鬼の性をあらわし僧を殺そうと追いかけるというもの。
それを受けて、筆者。

「それを見られたことの怒りと羞恥に思わず鬼へと変貌する刹那には、怖ろしいというよりはむしろ哀しく美しい要素がまじっている。」

「いささか怠惰に、自在に、拡散しがちな現代の自我は、次第に希薄化さえしはじめているようで、時にあの、古い女が鬼となっても遂げようとした激しい昇華の一瞬は、それゆえにいっそう魅力的なのではないかと思わせられる。」

出典:馬場あき子「おんなの鬼」


こういう、感性。
女であるからこその鬼への眼差しというか。
女が鬼になるというときの悲しさ。美しさ。情熱。激しさ。大抵、女は激しい羞恥のために、もしくは激しい恋慕のために、鬼になるのである。

比喩的に用いられる「~の鬼になる」というのもまた守るべきものがあってなるものなのかもしれないが、そういうものは男性的なものである。

古い女の押し殺していた自我のフラストレーションが爆発した姿が鬼なのだと。


私は男も女も特に文章に違いなんてないという風に思っていた。というか、男女間で書く文章の性質が変わるということを認めるのが嫌な気がしていた。
それはそういう女性だからそういう文章を書くのであり、高村薫なんかものすごく男っぽい小説を書く、と。逆に男性の紀貫之は「土佐日記」を書いている。


女なら、女が鬼になるということに、同情や悲哀や切なさや美しさを感じることができる。そこまでのフラストレーションを爆発させることのできるほど耐えに耐えた姿、それを爆発させた昇華の一瞬は魅力的ですらあるのである。それは私たちの仲間であり、私たち自身がそうなっていた可能性だってあったわけだから。

でも男は、女が鬼になるということには恐ろしさをしか感じないであろう。こわいわ。
恋愛小説の名手に女性が多いのはそういうわけで。


この評論の終盤に差し掛かるにつれて、結構この人の文章にほほうと思った。

評論なのに感性で、艶があるように感じられる表現というのは色気があってよい。

October 22, 2010

parallel

東京都心はパラレルワールドらしいよ。
相対性理論はすごいな。

沖縄に戻ってきたら、ああ日常だと思ったけど、東京へ行った時も、ああ日常だと思って。京都に行けば行ったで、地下鉄を普通に乗り換えて、iPodで音楽聴いて、四条烏丸に行ったのも知らない度は銀座に行くのと同じような感覚。
つまりはそこにいる間それが日常というか、そこが世界のすべてで。
世界は簡単にくるりとひっくり返る、と言ったのは江國香織だけど。

で、パラレルにつながった。

考えてみると違う場所に同時にいられないのだから、そのときそこではない場所は別次元というか、まあ次元は同じなのかもしれないけどある空間上の一点と一点で、交差しないわけで。別ワールドなわけで。
それが急に電話でつながったり、テレビの映像でつながったり、Webでつながったりして、ああここ以外にも世界があるのだなと認識する。それらが無い時代は本当に世界が断絶されていたんだなと当たり前のことを思う。たとえば、山とか、海とかによって。だからこそ山や海は偉大だし畏怖すべきものだったような気もする。

改めてすごい時代だな。
リアルタイム。
ここ沖縄だよ。
友人がどっかの島で星空を眺めながらツイートするのを、銀座で羨ましがる別の友人。

みんなが同じものに触れられて、共有できる。

距離は距離でそこに実在して、でも精神というかその人間の中身だけが自分の指先から出る文字とか、声とか、そういうのを使って別次元のWebっていう世界で、パラレルワールドで、出会っているなと。
こんなの想像できた?

まあ、今あたりまえのこと言ったけど。
あたりまえってのがまたすごくない?

October 21, 2010

京都雑感

メモの次は京都雑感。そうなるよね。

所用で京都へ赴き。
家族が一緒だったので、単独でふらふらするわけにはいかなかったけれど、2泊のうち2夜とも友人たちに会うことができてよかった。
一つはイレギュラーな感じの会。友人夫妻と友人を会わせるという。初対面なのに楽しく。これを機に皆さんが仲良くなったらこれ以上の喜びはありませぬ。
もう一つは友人とカフェ。いつも通りの友人。いつもと違う場所。かっこかわいい。研修頑張ってね。

しかし地図って便利。
今回ある程度行く場所があったので、割とちゃんと地理を頭に入れていったのだけど、この前のあまりに京都予習してなさっぷりが思い出されて、ちゃんとすればちゃんと回れるよなあと思った次第。まあ当たり前のことだ。


観光としては六波羅蜜寺、清水寺、細見美術館。

六波羅密寺の「空也上人像」は、妹の日本史の図説で見て以来目に焼き付いてしまった像。阿修羅よりも、薬師如来よりも、見たい。
小さいお寺で、裏の小学校では運動会をやっている。なんだかいろいろ混在した空間。
で、期待通りというか、期待以上で。空也自体が大分変った像なので、それだけでわかりやすく面白いのだけれど、一つの作品として心打たれるものがあった。
穏やかに苦しそうなのだ。
痩せ細った体、重そうな鐘、強く握った鹿の角の杖、着物の裾のゆらめき。絞り出すように口から出る「南無阿弥陀仏」。あの表情。目に宿った光。
宝物殿というか室というか、小さな部屋に8体くらいの重要文化財指定の像が並んでいるのだけど、どれもかなりいいものだと思う。
空也の他には、運慶と湛慶の像がリアリティ。手の甲の血管とか。見つめ合うと動き出しそうなくらい。

清水さんは3回目くらいだけれど、毎回よく混んでいる。紅葉の季節がこわい。
スケールがでかいよ。遠くにかすむ京都タワーもいとをかし。

細見美術館では「琳派展XIII お江戸の琳派と狩野派」。
全然詳しくないけれど、間違いなく素人でも感動できるくらい巧いというのもあり。
全部巧いわけだけど、特に感動したのは狩野探幽の「風神雷神図屏風」。
風神と雷神を見たはずはないのにあのリアル。贅沢な余白が余白ではなく。線の躍動と繊細。風が起こり、雨が降り、雲がわき、雷が鳴る。人間が描いたのかこの絵を。

俵屋宗達のとかよりこっちが個人的な好みとしては、はい。
美術館的にも構造とかキャプションが変わっていて、面白かった。


で、京都は5回目くらいなのだけど。

京都の人は冷たいって思ってたけど、そうでもないのかもしれないというのが今回の感じ。
京都の人に限らず、観光で一瞬来た人に対して、そういう人々がたくさん歩いているという状況に対して、違和感とか別種の人扱いするのもわかる。沖縄でも全然ある。
でも全然沖縄とは違う。

京都クオリティ、というのはやっぱりあるなと思う。
街づくり。雰囲気づくり。日本の代表的古都としての誇りというか、守るものがある我慢強さというか、底力とでもいうような。

洗練。

落ち着き。動じない感じ。
あまりに先鋭的な保守。守りながら最先端を突き進んでるというか。すごい場所だ。
この人たちがいるから、京都は京都なんだろうと思う。

以前町屋風ドミトリーに宿泊した際に、夜絵葉書を書きながら、オーナーさんやほかのお客さんと茶の間で話したことがあって。
そのオーナーさんは30代くらいの北海道出身の人だったのだけど。「京都ってのはね、心の狭い人間がそいつらのためだけに作った小さな王国なんだよ」というようなことを言っていて。でもその人は京都でドミトリーをやって住み着くくらい京都が好きなはずで。お冷出されたら帰れって意味なんだよ、とか口をとがらせつつも、目を輝かせて京都の粋な喫茶店や展覧会の話をしていた。
そういう気持ちが分かったような気がした。
ああ、全然違うわ。

場所でこんなにも違うなんて。移り変わる色合いは木の葉だけではないのだな。愛でるべき人々。都市というのは人ありきだということ。

October 19, 2010

2010.10京都

で、今度は京都。

メモ。

神戸空港
台場
きりん
神戸は右
京都は左
エスカレーターのはなしです
京都おちつく
同志社
結婚式
ロー
晴明
二条城
御池通り
町屋
家族構成から勤務先まで
秀逸お手洗い
高血圧
ロキムコ
吸光率
AQ
5点


五条で歩きすぎる
なかうなう
六波羅密寺
空也
運慶
湛慶
リアリティ
動きそう
清水
人々
奥行き
細見美術館
シール
探幽
風神雷神
写実と幻想
鮮やかな青
あお
ART CUBE
竹と鹿
月のりんくわく
祇園
連日
四条烏丸
お洒落カフェ
自転車
研修
精神論
ドラマ
地下鉄
hibari
東西線


デルタ惜しい
賀茂川
鞍馬口
iMievタクシー
今日皇太子さん来はるさかい
チケット事件
ANAクオリティ
阿闍梨餅
またくるぜ京都
京都タワーの郷愁

October 13, 2010

東京雑感

あと、国立新美術館でゴッホ展も見たんだけど、割愛。今日はよく書いた。

ゴッホだね、やっぱゴッホいいよね、って思ったのだが、開館と同時に入ったため妙に混んでいて、さくさくっと見てしまったのだった。客層も今までの展示と異なり、有名だから友達と遊ぶついでに来たみたいなちょっときゃぴきゃぴしたおばさん達とか、学芸員にやたら話しかけている薀蓄な人もいて、なんだかがやがやとしていて。
ゴッホだけでなく、ゴッホが影響を受けた画家の絵も一緒に時系列に沿って展示してあり、非常にわかりやすい。並べると、影響を受けているのがよくわかる。
でも、どっちかというと、同じ場所でやってた「陰影礼讃」という展示の方を見ればよかったと後で後悔。




東京へ行っていたのは7日間で、時間を惜しんで動いていた。

初日から圧倒され、2日目には馴染み、それでも圧倒的な情報量を処理しきれていないことを感じつつもその渦から一掴みずつ何かを掴んだ気になっては頭にメモを残す日々。
思った通りだったこともあり、思いもかけなかったこともあり、東京に8年近くいたのに何を見ていたのだろうということもあり。

共有できることがあり、共有できないことがあり。
共有できるということのよろこび。できないことのさびしさ。
できてしまった距離感。変わらない距離感。
ああ、そういえば、以前お付き合いしていた人に会っても動揺をしなくなっていて。もう大丈夫だと思えたのは大きかった。少しさびしい気はしたけど。

そうして自分の不甲斐なさをひしひし感じ、しかし自分で立ってそこに在るということの確かな実感もあり。知識も肩書も家も何にも持っていないけど、身一つがある。それだけで人と話ができたり、ちゃんと感動したりできる。
ちゃんとしたいなあと思った。なんだろう、東京の人たちって真面目だ。なんだかんだで。東京の人たちみたいにちゃんとしたいわけではないけれど。私なりにちゃんとしたい。

ちゃんと友達と友達のままでいられている安心感。

沖縄の良さが「全体的なあったかさ」だったら、東京のよさは「寒い中時折触れるぬくもり」みたいなもんだな、と思う。
そして、私は直感的に、常に人生があったかいなんてありえないと思っているので、東京の方が本当っぽいというか、むしろあったかくすら感じてしまうこともある。

お酒はほとんど飲まなかった(我ながら偉い)。コーヒーをよく飲んだ。
江國香織の小説に憧れて、ウインナコーヒーを飲んでみたけれど、冷たいクリームと温かいコーヒーが同時に触れて気持ちいい、なんてことはなく、普通にコーヒーが熱くてでもクリームが邪魔で冷めなくて、どんどんクリームは溶けていってしまうし、そんないいものではなかった。あるいは、もっとコーヒーの温度を下げてから出してくれたらよかったのかもしれない。

ジャズ喫茶にも行けた。
思えば結構な頻度でジャズを聴いてた。あの圧倒的な大音量がいい。言葉は、いらない。

で、台場は至福。やはり。
まぶしくて、あったかくて、ねむたくて。静かで、波のゆらめきと風のそよぎがどんな動物だって目を細めるだろうというくらい心地よい。空。芝生。

で、結局、一番行ってたのは六本木かもしれない。美術館が集まってるからか。街としてはそんなに好きじゃあないけれど、ミッドタウンは結構好きなのだ。建物の人工的なやさしさが。さすが三井不動産!

今Telefon tel aviv聴きながら書いてるんだけど、もうこの時点で郷愁。


あ、今週末ちょっと京都行きます、所用で。
家族一緒なのでお会いしたい方々には会えないかもなあと思いつつ。

October 12, 2010

ICC OPEN SPACE2010

3つ目。
初台にある東京オペラシティの4Fに、NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)がある。オープンスペースにはいろいろ展示があって、入場は無料。
ICC OPEN SPACE 2010

展示の中にはずっと前からあるやつもあって、まあジャグラーとかマシュマロスコープはいいとして。
お気に入りは
《10番目の感傷(点・線・面)》クワクボリョウタ
リンク先飛んでもらえれば大体どんな作品かわかるのだけど。
よい。とてもよい。楽しい。わかりやすいし。



《for maria anechoic room version》渋谷慶一郎+evala
相対性理論とやって以来なんだか気になる渋谷さん。
音響系というかガリガリのノイズ系は全然聴いていなかったのだけど。
もともと展示として無響室そのものには入ったことがあるのだけど、なんだろう、一番近いのは水中だろうか。音が反射しない空間。圧迫感。耳の中まで空気がみっしり埋めている感覚。不安。
そこで展示されていたのがこの渋谷さん+evalaさんの作品。

結構注意が多い(内容が刺激的なので)ので、ちょっとおっかなびっくり。
無響室の中心にひとり立たされ、係の人が出ていく。暗転。
目の前の緊急停止ボタンが青くほのかに光るのみ。ちなみに中の様子は外で一応係の人が確認している。

ノイズ慣れしていない体には大きな衝撃。
視覚を驚かす光。
自分のすぐそばを「なにか」が飛び回り、自分がなにかに脅かされているという危機感や焦りだけはあるのだが、為す術はない。それは実体のない「音」だから。で、必死の抵抗をやめたときにくるあの周囲との一体感というか。浮遊感というよりはもっと濃密な。
少し、ジェットコースターに似ている。落ちるとき、重力が無くなった感覚に焦るけど、もういいや、と身を任せたときになぜかふわっと心地いいという。あれの音版というか。
だんだん終わりが近づくのがわかり、頭の後ろがしびれ、いつの間にやら終わるのが惜しいと思っている自分に驚く。余韻。

明るくなって、沸々と、おかしさがこみ上げるのもまたジェットコースター的。

いい体験させてもらった。


emargencies!を見逃したのは不覚。
ビスケット・ラボでお絵かきして帰る。

それにしてもオペラシティというところは晴れの日も雨の日も、すごく気持ちがいい。
クラシックコンサートなどもある。まあオペラシティだもんね。
ギャラリーショップでかかっていた
Ok Bamboo/Shuta Hasunuma
を衝動買い。

SENSING NATURE―ネイチャーセンス展

展示レビュー二個目。
ネイチャー・センス展@森美術館。

どういう展示かというと、面倒なので展覧会概要より抜粋。

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温帯性の気候や島国の複雑な地形によって、我が国では独自の自然環境が育まれ、それは古来の宇宙観や宗教観とも繋がって、この国で生まれる文化や芸術に少なからぬ影響を与えてきました。「ネイチャー・センス展:吉岡徳仁、篠田太郎、栗林 隆」では、都市化、近代化の進んだ現代生活において、自然を知覚する潜在的な力(ネイチャー・センス)や日本の自然観について考え、それが現代の美術やデザインにどのように活かされているのかを問いかけます。
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ちなみに、ここのレビューについては、ここが本当に丁寧にくみ取ってらっしゃる。

で。

・篠田太郎「残響」




これは本当にずっと見ていたい作品で。
3つのでかいスクリーンをほぼ三角形に配置してあり、どこかの駐車場や動物園のバク、奥多摩のダム、都内の川を下る風景、などを定点観測した映像が各スクリーン、数分ごとに移り変わる。その風景というのは、確かに見慣れた光景で。特に珍しい映像というわけでなく。特に名所というわけでも花がきれいというわけでもなくて。主役というか、フォーカスすべきものが特にないというか、まあバクに関してはバクに目が行くけれど、でもバクが何かするわけではなく、ただ歩きまわっていたり立ち止まっていたり。

その特に劇的な変化があるわけではない映像を、でもなんとなくずっと見ていたくなってしまう。
見ていると、てらてら光る駐車場の地面が雨に濡れていることを発見し、その蛍光灯の反射のものがなしさを感じ、奥行きのありすぎる吹き抜けのその駐車するというだけの空間にある種の解放感を感じ。なんでこんなに自由な感じがするのだろうと思い。雨の匂いや車のタイヤが濡れた地面を踏みしめていく音まで聞こえてくるような気がするから不思議である。
たとえばそういうこと。

そこで、はたと、「ネイチャー」センス展であるということに思い至る。
これはネイチャーなのか?
あくまで人工物ばかりを映し出している。
でも、ああこれがネイチャーなのだなと、思う。人工だとかそうでないとか、ではなく。それらがすべて自然なのだよなと。対立軸ではなく。駐車場を、光が照らし、水がしたたり、人間が歩き、風が吹き抜ける。それらはどこから自然でどこから人工だというような切り分けをされることなく、私たちの周囲に、まさに「自然に」そこにあり。その中で生きて感じているのだなあと。それが違和感なく、むしろ地味に調和しているのが、日本人のネイチャー・センスなのだと、いうような気がした。


で、そっとそのスクリーン裏にある展示を見に行くと、真っ白ながけから真っ赤な液体があふれ出ているその衝撃。どうしても血液しか連想できない。
「忘却の模型」
作者の意図するところは理解していないけれど、自分の、あるいは他人の身を切ったらこういう赤い赤い液体があふれてくるのだというその生々しさは、普段結構忘れている。
そんな平和。そんな感覚。


他もいろいろあったけど、私はこの「残響」が好きでした。
割と大きな作品が多かったからか、いつもよりすぐに見終わってしまったようなイメージ。
inoの言うように、1500円払って見る価値があるかと言われたらうーんと思う、私も。ただあれ東京シティビューとの抱き合わせ販売なので、まあシティビューを楽しめるならいいのではないかと。
シティビューは夜がいいね、断然。22時以降は人もいなくなるし。まあ平日の昼行ったら修学旅行生と外国人とお着物のおばさまたちとカップル、って感じでした。光景的にはちょうど雲間から光が射して、海っぽくてよかった。



このあとに
MAMプロジェクト021:トロマラマ
もあって、これはまあ、ふうんて感じ。映像は、うんすごいけど。歌がどうやらインドネシアの人たちらしい。爆音で聴いてたら結構よく聴こえて一応チェック。そもそもインドネシアの音楽ってどういうのかまったくイメージが無い。ガムラン?て感じだ。いやガムラン好きだけど。
RNRM(Rock n' Roll Mafia)/zsa zsa zsu


この展示を見た後、つい散策中に、首都高が上を走る川の水面を凝視してしまったのはいうまでもなく。

October 10, 2010

夜はやさしい

日本科学未来館のプラネタリウム番組「夜はやさしい」を観た。ずっとずっと観たかったのだ。

前回谷川俊太郎が参加した「暗やみの色」の時に、彼がすでに原田郁子に構想を話していたが、それがプログラムとして実現した形。
頭上に広がるは世界各地の夜空、流れるのはその各地の夜の音。喧噪や、波の音や、祭りの音楽。そして谷川俊太郎の詩を朗読するのは麻生久美子のすきっとした声。


たとえば今、インドネシアはバリのガムランにまどろむような。

今、オーストラリアはアーネムランドの舟の上で水の音とディジュリドゥを聴くような。

今、ドイツはミュンヘンの安宿であかるい喧噪を楽しんでいるような。

それがある人々の日常の音であって。


それは確かにやさしかった。
音がよくて、詩をじっくり集中して聞くことができなかったのが心残りと言えば心残り。


しかしこのプログラムに出てくる音というのは、例えば祭りの音であったとしても、メロディのようなものが無くて。
聴こえるのは打楽器や吹く楽器の音なのだけど(木管かな)、とにかく音を出すというだけのものすごくプリミティブなものばかりで。どうしてかしらとぼんやり思っていた。
メロディの否定、だろうか。
私が今メロディのない音楽をプリミティブと言ってしまったように、メロディのある方が、巧みな方がより技巧的というか、進歩的というか、そういう意識のようなものがある。でも、最近自分自身、メロディの無いものに惹かれつつあり。むしろ規則正しいテンポすら、無くても良くて。
ある意味作りすぎていない音だけの世界とか。メロディに依存しない、大衆に媚びない清々しさというか。
(まあメロディアスなものも結局好きは好きなんだけど。)

そういう意味で、そのままの宇宙的夜空には、合ってたなあという音たちだった。
最後には麻生久美子が歌うのだけど。メロディあるのだけど。

すごくリラックスできる。
終わった後ふわふわしてしまった。

ちょっとメモとして。アボリジニの楽器、ディジュリドゥの音が結構好き。
ほら貝のような。胸の底に響くような、獣の唸りのような低い音。


ちなみに、10/13(水)~11/19(金)の間は改修のため見られないそうなので。

October 8, 2010

2010.10@TOKYO

東京に行っていた。
メモ。

羽田
圧倒

景色によって記憶が押し寄せる
言葉の国
要素
空間への人為のつめこみ
おそろしく懐かしい

結婚式
帝国ホテル
ふかふか
再会
郷愁
日常と祝祭
銀座
カフェ
ガールズトーク
新人
神楽坂
気が付けばGA
セクハラ

ゆりかもめ
ジオ・コスモス
「僕の素粒子を感じてください」
夜はやさしい
よるのおと
打楽器のリズム
メロディの排除
喧噪と水音
みんなの上に夜が来る
学食
きりん
UFO
21_21
金魚
デスクトップ
moonとスマブラ
人工の安心
人がいない疎外感のなさ

早稲田
うるとら
125
和歌山
秋葉原
「君はいつまで沖縄にいるの」
ミッドタウン
きらきら有楽町
スペインオムレツ

ICC
渋谷+evala
クワクボリョウタ「10番目の感傷」
ビスケット・ラボ
ネイチャー・センス展
篠田太郎「残響」
R.N.R.M
葉書
月のアリス
ウインナコーヒー
ジョナ
やる気のなさを表現したキャラメルアイス

迷子
偶然の雑貨屋
ののちゃん
ベーグル
銀座松屋
あ、モデルの人
AKB
金魚(2回目)
スタバ
工事
発光都市

国立新
ゴッホ
うん、ゴッホだ
客層の違い
餃子
ジャズ
しなやかさ

September 30, 2010

Test

テスト

September 27, 2010

眠るまでの暇つぶし

お酒を飲むと、お酒が抜けるまで眠れない。
今日は泡盛の水割りをゆっくりゆっくり飲んでいたのだけど、胃に来ている。胃がむよむよ(強)。最悪なことに家にはさわやかになる系胃薬が無い。
あと肝臓にも多分。胃はちょっと荒れるとすぐわかるからあれだけど、肝臓先生は沈黙の臓器でわからないところが怖いよねという話では、実はない。

今日は年若き人々と飲んだ。下は18上は26。
まあ特に普通。よかったことといえば、隣の可愛い女の子とばっかり話していたら、今度ランチしましょう、私mogさん好きなんです、と告白されたことと、アロンソがシンガポールGP勝ったこと。以前、他の管理の女の子にも同じようなこと(一緒に旅行しましょう、私mogさん好きなんです)を言われたので、結構もてている。女の子に。ちなみに男の子には言われる気配すらない。お互い超ビジネスライク。思えば、こういう風に男の子に面と向かって好きだと言われたことはない気がする。

しかし、6時間居て、一人2400円という破格。沖縄の飲み屋はやさしい。多分飲んだ後のタクシー代か代行代まで考慮してくれているのだろう。沖縄は電車では帰れないので、飲んだらタクシーか、代行か、飲酒運転か、迎えに来てもらうか、という選択を迫られるのである。今はご存じの通り飲酒運転の取り締まりが厳しく、飲酒運転をすると、マブヤーにたっぴらかされるらしい。

ああ、朝刊が来た。
俺も眠らう。

September 25, 2010

今の関係性ばっかり見る

妹の婚約式がもうすぐで、さびしくなるなあと思いながらも、今は楽しく、今日遂に、家族5人全員が同じ家着Tシャツを偶然着るということを達成した。写真、撮った。セルフタイマーで。

家族でいるとすごく楽しいんだけれど、ふとここを出るのかなあと考えたりして、私もいつか結婚して家を出て両親をここに残すのかなあと。自分の家庭で手いっぱいになって、ろくに電話もしなくなるのだろうか。
っていうちょっとセンチメンタル。秋だからか。いやいや。秋じゃないし沖縄。


たまに、過去のものに触れることがある。話題でも、写真でも、手紙でも。
過去にあったことについて。過去の二人の関係。過去の私に過去の君が綴った手紙。

かつてつきあっていた人がくれた手紙や写真、プリクラ。思い出。
そういうのって二人の関係を過去にするものだと思う。別れた後関係が変わってしまっても、生きてる限りは関係は続いていくというか。意識するにしろしないにしろ。Life goes on.なのに。今だって連絡は取れるし、年に一回くらいは連絡メールか何かでやりとりはするのだ。で、おそらく会えば普通に動揺するから、それはまだ友人になりきれない関係なのだろうけど、とにかく今も人間関係は続いていて。でも、そういう過去のものがあると、ついあの頃があって、今はない、っていう図式を浮かべてしまう。
今もあるよ。関係。


付き合う期間が長ければ長いほど、やっぱり過去のものというのは残る。
そして。幸か不幸かすぐ別れてしまう場合には、未練も感情も記憶も、ものそれ自体もそんなに残らない。だから、すぐに別れた人は、記憶が薄い。誕生日とか絶対覚えてない。年齢も危うい。顔もだんだん思い出せなくなる。名前は世界史の勉強の成果か、覚えてる。

江國香織の「ホリー・ガーデン」という小説に、果歩と静江という二人の友人同士が出てくることは前にも書いたのだけど、果歩は、恋愛から足を洗ったという割に、過去をずっとひきずっている。クッキーの缶の中に「津久井」という元恋人の写真、厳密には彼のとった果歩の写真がたくさん入っており、果歩は時たまそれを開けてしまう。そこにあるのは時間なのだった。
静江は画廊オーナー(芹沢というのだが)と遠距離不倫をしている。あくまで友人として付き合っていて、肉体関係を含んだ友情が一番美しいと信じ、私はそれをもう獲得している、と思うのに、ふいに不安になることがある。その芹沢曰く「妻なら一人いるよ」。「でもどうしてそんなことを聞くんだ?」

静江なら、芹沢と写真など、とらないのだろうなと思う。今が良ければその関係でいればよくて、過去の感傷に浸るような真似はしたくないと思っているんだろうなと。
今だけに集中するということ。今ある関係がすべてであるということ。

私はと言えば、手紙も写真もプリクラも捨ててない。というか、相手に申し訳ないのもあるけど、捨てることの方が意識してるような気もするし、捨て方も微妙だ。
これからの友人とのなぜだか親密だった過去、というような位置づけでいいのではないかしら。しかし今までの恋人には過去の恋人の写真を捨てろとか言われなかったな。言う人もいるみたいだね。女子も男子も。
しかし携帯は何回か壊れてるから、携帯の写真とかメールとかは残っていない。メモリもね。

恋愛から足を洗いたいというスタンスとしては果歩なのだけど、現在時点でもう過去にする準備をしてしまうのは嫌だ、という点では静江だ。


ギブス/椎名林檎 歌詞より
以下引用

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あなたはすぐに写真を撮りたがる
あたしは何時も其れを厭がるの
だって写真になっちゃえば
あたしが古くなるじゃない

あなたはすぐに絶対などと云う
あたしは何時も其れを厭がるの
だって冷めてしまっちゃえば
其れすら嘘になるじゃない

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そういうのを我慢する恋愛は正直しんどいのだと思う。冷めてしまうことを受け入れて今を恋に生きる。
でも執着して、先の呪いの言葉を何度も言うのはもっといや。
しんどい恋愛って、別にいいけど、しんどいまま結婚しちゃいけんなあと思う。

「かつて恋をした男と女が男友達と女友達になるには、たぶん、必要なことが二つある。一つは互いに全く未練がないこと。もう一つは、二人とも幸せなこと。」江國香織
多分真。

September 24, 2010

即興ということ

即興で音楽を奏でたり、即興で何かを喋ったり、即興で歌を詠んだり、即興で踊りを踊ったり、するということが、結構評価をされると思うのだけど。

確かに即興でできる、というのはすごいことなんだと思う。何にも準備なしに、急にさあ見せてごらんなさいと言われて、ぱっとできるというのはそれだけの知識なり経験なりをその人の中に蓄積しているということだし、かつその蓄積をその場で再構築できるということだから。

でも、即興の作品が美しいのかというと、それはわからない。即興であるということを差し引いて考えれば、なるほどよいものだ、ということになるのであろうけれど、単に作品として見たときに、それが入念に準備して工夫を凝らされ何度も修正されたものと、即興のものであれば歴然とした差がつくと思うのだ。
当たり前なんだけど。

なんでそんな当たり前なのに、即興でわざわざパフォーマンスをしたりするんだろう。って、最近のジャズトリオのCDを聴いてて思う。ものすごくハイテンポのピアノジャズで。鮮やかだけれど乗りきれず、情緒を感じることもそんなにない(しかも、彼らの曲が即興であるかどうかというのは未確認である。大体ジャズなんだから即興性は程度の問題だろうと。違ったらすいません)。

で、多分。即興を好むというのは、その鮮やかさということが理由なのだろうなと思う。
その場でしか生まれえない、一瞬の閃きのようなものがある。
その場で生まれてきた音、和音、テンポ、メロディ。その閃く姿が鮮やかに見え、斬新に見え、さらにその一回性、限定性に酔うのかもしれん。
多くの人はそういうのに弱い、私もだけれど。でも一回しかないことなんてあふれている、ほんとは。

でも、私は即興作品でいいなあと思うことはあまりなく、かつ即興であるということによってそんなに感動もしない。
とそのピアノジャズを聴いていてそう思う。
で、あんまり即興っていいもんじゃないなあ、という感想を抱いていて。


で、さっきイチローが10年連続200本安打ってニュースが入ってきたんだけど(すごいね)、彼らのやってる野球とかというものは、全部即興だなと思って。
毎日何時間もその試合の4打席かそこらのために、バッティングやら走り込みやらをするのである。下準備は欠かしていない。でもその試合のその一瞬には即興である。
野球が即興で音楽を演奏することとどこが違うのかというと、その主体が自己に限られているかそうでないか、ということだと思う。自己だと狭すぎるな。自己を含めコントローラブルな人々に限られているかそうでないか、か。
野球は敵味方混ざって審判や観衆や天候などの各プレイヤーが、即興で試合を作ってゆく。その場の判断で走ったり、スライディングしたり、バットを振り下ろしたり、球種を選択したり、石井がピッチャー返しを素手でつかもうとして指を痛めたり、野手のエラーがあったり、応援の声をふりしぼったり、野次を飛ばしたり、雨が降ったり、風が吹いたり、するのである。それは誰かのコントロール下にはない(ルールはもちろんあるけど)。即興でしかつくれないのである。
かつ。
甲子園などは、トーナメント制なのでその試合に負ければこれ以上その大会で試合をすることはできない。3年生なら卒業してしまうため、ここに高校球児として戻ってくることはできないのである。この、一回性。限定性。悔し涙と見ている方の切なさの理由。
そう考えると、私即興性、好きじゃん。と思った。

そんな日。

September 21, 2010

台場

私は台場台場言っている。自覚もある。言うだけでなく行っている。週に1度は行きたくなってしまう場所だった。東京で好きな場所は?と聞かれたら、即答した。

「お台場ってフジテレビとか?」「あそこ面白い?」
いやあそこは面白くない。カップルばっかだし、施設も微妙だ。遊園地もそんなに好きじゃないし。
つまりお台場のいいところはそこではない。

日本科学未来館があるところだ。あの未来感がいい。プラネタリウムとレイ・ハラカミと原田郁子。谷川俊太郎と麻生久美子とARATA。あのジオ・コスモスがいい。あれを見上げて寝そべるソファとそこで流れるアンビエントがいい。その窓から見上げる青空がいい。

しかし、最近はそれだけでもなく。
未来館の近くにあるガントリークレーンがいい。俗にいうきりん。きりんのような形をして、船の積み荷を下ろしたり積んだりしている。夕方から夜はそこの灯りで空が赤く染まる。大井町に住んでいたから、いつも赤い空を見ていた。それは異様な景色なのにどことなく落ち着くような空で。
沖縄にも実はガントリークレーンはある(そりゃあるな)。那覇の泊港から出るとき、右側に黄色と白のきりんが2頭。でもなんだか細っこくてさびしげ。

でも、なんでそんなに台場台場って言うのか、最近聞かれて。前職でもよく聞かれていたけれど。そこにきりんがあるから、っていう何かのパクリみたいな答え方をして。
でもそうではない。多分、台場は、一人になるのに絶好の場所だからだ。
一人になりたいなあと思うことってある。生活圏内にはたくさんの人がいて、それはそれで楽しい時もあるけれど。カフェで一人になっても、隣にはお客さんがいるし、店員もいる。話す相手がいないだけで。歩いていてもそう。街には人があふれている。
人を気にせず歩きたい。何も考えずにいたい。
そういう、空間に対する餓えのようなものが私は常にあるのだと思う。
高校時代にああいう絵を描いたのも、一人になりたいということだろうし、Coccoの歌で「うたかた」(歌詞)が好きだったのもだだっ広い校庭に誰もいない放課後を彷彿とさせるからだし、「夢路」を好きなのも、ひたすらなだらかな道と丘と赤い空を思い浮かべるからで、そこに誰も入り込む余地はない。いつだってCoccoは一人だ。

そういう風なところにいつか行きたいと、思っていて。
もしかしたら砂漠がそうなのかもしれないし、どこかの岬から望む海がそうなのかもしれないとも思っていたけれど、つまり台場にはそういうものがあると、私の中の故郷を求めるような気持ちが反応したのだと思う。
よく、私は空を見ていて雲の移り変わる造形に、その異様な大きさに、美しさと脅威を感じるのだけど、そうしているとき一番、神様っているなあと思う。そして、いつも、帰りたいなと思う。なぜか。沖縄に、とか、家に、ではなくて。私のいるべき場所は本当はここじゃないのに、こんな風に地面に足をつけてベランダの格子につかまっているような私ではないのに、という。

そういえば、「僕の地球を守って」という一部で大ヒットした少女漫画があり、私は中学生の頃いたく感動したのだけど(1987年から1994年に連載なので大分古かった)、その一番最初に、主人公の女の子が月を見て「帰りたい」と思うシーンが出てくる。あー読みたい。家の戸棚の奥深くにしまわれているはず。。某tubeにもアニメがUPされてるけど漫画の方がいいな。
そういうわけで、「帰りたい」って思うのは結構普通なのかなとも思う(この漫画の場合はいろいろ訳があるのだけど)。あーでも動画でも見てほしいかも。

台場が完璧にそういう場所かといわれると違うのかもしれないけれど、少なくとも東京にいた自分には、あそこが解放感が一番の場所だったってことだ。

ふむ。そんな感じ。
ぼくたま観よっと。

September 19, 2010

最近本を読んでいない。ちゃんと。文章は何らかの形で触れているのだけど。
で、最近江國香織の「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」を再読した。薄い文庫なのですぐに読める。
江國さんのものは本当に恋愛が多い。恋愛小説の名手らしいので、それもそうかと思う。

で、その本は短編集で、いろいろな恋愛が出てくる。もう終わってしまったもの。恋愛のただ中にいて幸福で倒れそうなもの。倦んでいるもの。若い他人の恋愛に触れて胸騒ぎがするようなもの。触れるか触れないかのような危うさ。
それに、孤独。
どんなに愛し合っていても、人は孤独なのだということ。

そういうことを嫌でも思い知らされながら、それでも果敢に恋愛に立ち向かう人たち。


そうして、もしかするとどんなことでもそうなのかもしれないが、恋愛を語るには具体的でないといけないのだなあということ。
さっき妹が、「愛は名詞ではなく、動詞である」ということを言っていたけれど。まあそれにも通ずるか。
具体的な相手、関係、雰囲気、発する言葉や空気、どんな気持ちでいるのか、それをお互いがどういう風に思っているのか、どんなエピソードが二人の間に今まであったのか、等々、極めて個人的なものが恋愛であり、そしてそれはあまりに個人的過ぎるがゆえに周囲にはわからないのだということ。
そしてそれなのに恋愛のある瞬間を紙の上で再現することに成功しているのが彼女が恋愛小説の名手と呼ばれる所以なのだということ。

「十日間の死」という作品が入っている。
その中に、失恋(というかなんというか)の後に一人ホテルにこもって泣いている主人公はこう思う。
「マークのためになんか泣いてやらない。私は失われた真実のために泣いているのだ」
失われた真実。あまやかで途方もなく幸福な日々。愛し愛された日々。
江國さんは別のエッセイで、その一瞬だけでいいから絶対が欲しい、後でそうでなくなったとしても全然いいから、その時にそう信じられるような絶対が欲しい、というようなことを言って、男友達と口論するエピソードを書いている。

そういう絶対がもしあったとして、でもそれが覆るとしても、それがその時絶対であったということが真実であれば、それを抱いてかなしくても生きていけるということなのかしら。
失われた真実のために。
そんな考え方をしたってやっぱりかなしい。恋愛が終わるのは。

江國作品で好きなものに「ホリー・ガーデン」がある。
この中で、果歩と静江という二人の友人同士が出てくるのだけど、不倫の遠距離恋愛に疲弊して新幹線で帰ってくる痛々しい静江を見て(静江当人は充実していると思っていて気づいていないのだけど)、果歩が、恋愛なんていうものからさっさと足を洗えてよかったと思っている、という下りがある。
ああそういうものかなと思う。果歩のスタンスも、静江のスタンスも、わかる。恋愛をしている間の苦しさと幸福と疲労と、恋愛からすっぱり足を洗ってコントロールしようとするドライさや後悔、逡巡。

加えて言うと、「思いわずらうことなく愉しく生きよ」という作品の三姉妹、麻子、治子、育子、それぞれの気持ちや行動もわかってしまう。

何にせよ、孤独なのである。それを知っていてなお?

でもな、安吾が言ってたよ。
「孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。」


あーなんも新しいこと言えんな。

September 9, 2010

「正しい」について

「正しさなんて全然問題じゃない」
と書いたのは江國香織で。確か「いくつもの週末」というエッセイで、これは夫婦生活をテーマに書いたエッセイなのだけど、その夫婦間で甘やかす話とか(夫が「水」と言ったら何をおいても持って行ってあげるのだとか、そういう)、夫婦げんかの話とか、を書いていて、その中で、この言葉が出てくる。
その夫婦という関係性の中で、正しさは全然問題じゃないのだそうだ。


正しいことってあるのだろうか、とある時期よく考えた。
正しいことと正しくないことの限界事例に出会ったとき、何かを何かだと言い切るのはとても無謀な気がした。
それが正しいとなぜ言えるのか、根拠は何なのか、個人や文化圏の価値観では根拠としてあまりに脆弱ではないのか、正しくないとされた立場は保護されなくていいのか、結局最大多数の利益がそれをつくっているのではないのか、等々。
「何かを悪いというのはとても難しい 僕には簡単じゃないことだよ」
というのは東京事変の透明人間という歌の歌詞。

こういうことって誰でも考えることだと思うのだけど、世の所謂発言者というか、大人たちというか、その人たちはでもちゃんと「正しい」という言葉を使う。怖がらずに。その人たちがその私の抱いたような「正しさ」というものへの幼い疑問を承知したうえで尚その言葉を用いているというのは確信に近くて、それはやっぱり「正しい」というものの存在をみんな肯定するのだろうということ。

内田樹が、本の中で、正しい意見だけを述べようとすると、ありきたりな抽象的な言葉にしかならないということを言っていた。それが具体性を持てば持つほど異論が提出されることになり、その異論はその発言の「正しさ」をその分損なうことになる(とその人には思われる)、と。だから正しいことだけを述べたい人は具体的なことを言わないのだと。そして曰く、
「大切なのは、『言葉そのものが、発話者において首尾一貫しており、論理的に厳正である』ことよりも、『その言葉が聞き手に届いて、そこから何かが始まる』ことである。」。
同感。

仕事をしていてもそうなのだけど、私は正しい言葉を使いたがる(本当に使えているかどうかは別として)。仕事においては別の意味で伝わってしまったら混乱するので、別に気を付ける分には構わないとは思うのだが、そういう面では多分必要以上に時間をかけてしまったりする。法律をやっていたせいかもしれないとも思う。これはつまり、リスク回避なのである。先のエントリで、自分で先につっこみを入れておくというのも、リスク回避だと思う。
つまり異論を提出されるのが面倒だとか、叩かれるとへこむから嫌だとか、そういうことなのだと思う。責任をとるとか怒られるとか。
ちなみに、異論を提出されることは直ちに自分が非難されることだとは思っていない。それを法律の議論をやるまでは同一視とはいかないまでも多少影響しあうと思っていたけれど、あの世界にいる人たちはとてもスマートに議論をする。その議論とその人との間柄とはまったく関係しない(まあ当たり前なんだけど)。そこらへんがすごく好き。フェアだと思う。

で、私にはその、正しいことだけ言いたいという傾向があるということ。確実なことだけ。
それでなければその正しさや確実性に留保をつけるのを怠らないでいたいというこれもまた担保をつけたがる傾向にあるのだということ。一体なんだろうこの欲求。

私が何かを正しいとしてしまって、その後に違った、というときの取り返しのつかなさが怖いのだろうか。
そういえば、小学5年生の時に私は学級の新聞委員の委員長をしていて、ちょっとしたクイズの景品をつくるために自分の判断でカンパを募ったのだが、ある子のお母さんがそれを知ってすごい剣幕で学校に乗り込んできたということがあった(カツアゲか何かと勘違いしたのだと思う)。その場に私はいなかったのだけど、翌日それを聞かされて私は結構驚いた。たかが100円でもお金のことはナイーヴなことなんだと、学んだ。先生がちゃんとその時説明してとりなしてくれたので、その場で事態は収拾した。
多分そういう感じで学級委員とか従兄弟たちをまとめるとかが多かったから、リスク回避の傾向が幼少の頃から育ったんじゃないかしらという推測(従兄弟たちを連れて遠くまで出てしまいこっぴどく叱られたこともある)。なんか責任を取らされる位置にいたかなしい性というかなんというか。


まあ今はもうそういうの、いいや。
なんでもへいきのへいざになりたいや。

September 8, 2010

散文

今日の現代文。
まあ、今日じゃないけど。この前の現代文。確か2001年センター本試験第1問。
河合塾のHPで見られる。すごい。まじか。
センター2001本試国語Ⅰ・Ⅱ

これ読んだとき、デジャ・ヴを感じた。というか。私とかまさにこういう感じではないか。前の日記を訂正するとか。
「日記は私の社交界、私の仲間」(いやそんなこと思ってないけど、なんというか、日記を通ってつながった人たちもいるわけで)

要は日記についての文章で、日記というものを自己の蓄積ととらえ、ともすれば自己に耽溺し、自己を高めるためのものというよりは自己を掘り進めることそのものが目的化していくという、ある種病的な状態になる、的な話で、でもそれもいいじゃん、みたいな結論である。
まあここでいうパヴェーゼとかいう人のような苦渋に満ちたなにかではないけれど。

日記というか、ブログというか、何かを文章にしてそれを踏み台にしてさらにまた文章にして、といういわゆる文章化は、考えるという作業にとても適していると思う。し、ブログという場所でそのまだ非常にやわらかい暫定的な考えを、ある程度まとめて誰かに見てもらおうという意識は、考えるという作業を効率化する、と思う。まあ、私にとっては。なんとなくで書いてるけど。
考えるということは、考えているのが自分なわけだから、自分の内部を探求しているということにはなるかもしれない。他者のことを考えてはいても、他者のことをこう考える自分、という言い換えができる。きりがないけど。でも別に自分の内部へ耽溺していっているわけではないような気もする。

なぜ書くのだろう、なぜ公開するのだろう、という問いはよく自分に向かって発せられるわけだけど、もうたくさん書いたような気がするから、もういいよね。と思うのにまた書いてしまうのは、基本的に自分の行動やら感情やらにつっこみをいれないと気が済まない、またはつっこみを意識して先に自分で言ってしまおうとする、というような意識の表れであろうと分析する。
そういうのは、多分石橋を叩いて渡るというか、最初に一部の隙もなく武装しようというか、守りなんだよなと思う。


ブログの話に戻る。
芸能人のブログとかって、すごい字少ないというか、今日何々をしましたーっていう本当にいわゆる日記だなあと思う。あと写真。いや芸能人って十把一絡げに言うとよくないけれど、いわゆるアメブロ系というか。写真が求められてるのはわかるんだけど、文章あんなに少なくてみんな見に来るんだ?という不思議(私が見に行くところが文章主体ばかりだからであって、自分のブログは自分でも長すぎると思っている)。
でも文章読みたくない?っていう。姿ならテレビや写真で随分見れるわけで、その人の内面が知りたくてブログ読むんじゃないのか。書き手が単に忙しいのか。すぐ週刊誌に書かれちゃうからか。最近はmixiニュースとかでもくだらんのあるしな。

最近私はわろきぞかし。

そういうわけで、いたって真面目なエントリ構築中。題材だけ。
・「ほんとうのこと」について(吉本隆明「詩について」)
・「正しさなんて問題じゃない」こと(江國香織、内田樹)
・「自我」のこと(内田樹・自分)
・境目のこと
・孤独のこと(母関連・江國香織)
・打算のこと


まあ先人というか、頭のいいおじさん・おじいさんの思考は本当にためになる。
長く生きてるだけでやっぱすごいのに、しかもずっと思考してるような人に敵うわけない。天性の知的センスと探求と。

September 3, 2010

灸のすすめ

うちではお灸が流行中である。
せんねん灸のサイトに「つぼブック」なるものがあり、なかなかによい。詳しくて見やすい。ていうか、Amazonで売ってた。私はPDFで保存した。

そして、灸楽しい。火つけるし。ライターの火を私はいままで一回でつけられなくて(火花を散らすのが下手だった)、でもこれを機会に上達。火遊び。
じりじり熱い。私はサウナとか夏の暑さとかみたいな全身性の熱い苦行は無理なのだけど、こういう局所的なものは大丈夫。鍼・灸。

もぐさの匂いもなんだか落ち着く。そういえば、お灸の箱のサイドに「MOXA」って書いてあった。おおもぐさかっこいい!JAXAみたい!

今よく据えているのは曲池というツボ。肘の少し内側にある押すと痛いところ。頭痛とか肩こりとか目の疲れなんかにいいみたい。別にお灸でなくとも刺激を加えればいいようなので、是非。

September 1, 2010

ラブリー・ボーン

今日は台風で、台風の割には荒れなかったのだが、とにかく朝から学校は休みだし塾も休みにするということで、対応に追われた。
で、台風が来るといえばDVDを借りに行くというのはまあ多くの人が考えることで、午前中店に行ったらいまだかつて見たことのないほど混んでいて、しかもちびっ子ばっかりでした。伊達メガネをかけていたものの無駄にどきどきした。


で、家族で見るものとして選択を誤ったなと見始めから後悔したのだけど
「ラブリーボーン」
観た。家族で見るには失敗、個人で見るには良作。
観た後、家族は一様に暗くなってしまった。私の選ぶ映画はいつもそんな気がする。デートで見に行く映画(「誰も知らない」)も、妹と見に行く映画(ダンサー・イン・ザ・ダーク)も、暗くなってしまった。そしてその時は、二人で見なきゃよかったって思うんだけれども、結局後々好きな映画になっていることが多い。


そもそもはBrian Enoが曲やってるというので知った作品だった。映像が美しくて主人公の子がかわいいし、そもそも映画情報というものが入ってこない生活をしているものだから、これくらいしか思いつかず。ちなみにドリームワークスで、スピルバーグ製作総指揮だそうである、あとで知ったけど。


で、結構重い。
映画の序盤から主人公の女の子は殺されてしまうのだが、勿論それを知って観てるのだけど、殺しの前や後がリアル。家族には「ゴースト」の恋人じゃなくて家族版、と説明していたけど、時代が違う。ホラーではないと思って観ているのでそういう場面が急に出てきて恐ろしく感じる。ファンタジックでコミカルな場面がありつつなので、尚更に。

殺されるということ。殺すということ。その事実。人はみな死ぬということ。報いること。恋ということ。生きるということ。断罪のこと。

ローで散々行われた議論(議論にもなっていなくてすでにそれぞれの考えを持っていて然るべきというようなもの)だった、犯罪被害者のこと。刑罰ということ(つまり報いるということ)。模擬法廷で、少女に生きたままガソリンをかけ火をつけて焼死させた被告人(実際の事件である)の弁護人役で最終弁論をやった時のことを思い出した。どうしたって弁護する余地のほぼない事案だった。私はその時弁護人を演じるにおいて特に被害者に感情移入はしなかった。想像はしたし、恐ろしかった。被害者の恐怖と苦しみ。それを助けなかった被告人。
ただ、弁護人の仕事は被告人を弁護することで、私は弁護士役だった。

そのあとになってから、修復的司法という授業を受けた。修復的司法というのは、今までの刑事システムにおいて断絶された犯人と家族や地域を、敵対させたまま憎しみ合ったままにしておくのではなく、関係を修復していくようなもう少し広い範囲で取り組む司法を目指すべきであるというような主張である(まあ司法の枠にとどまらず)。担当教授も修復的司法の提唱者であった。模索中という感じだったけれど、結論は出ないままに授業は終わった。もしそんなことができたらどんなにいいだろうと思った。一緒に履修していた友人たちは揃って懐疑的であった。あきらめて捨てきることもせず、なんとかしてそのやり方を模索しようともしなかった。その時のわたしにとってこれは座学であって、目の前の司法試験はますます巨大化し目の前に立ちはだかり、体を不摂生が蝕んでいた。でも、記憶には残ってるなあと今少し感慨深い。


映画、私は結構よかったと思う。所謂、一つの答えだ。


機会があれば。

August 30, 2010

本を買うひと

本を買うということがけちけちしてきたなあと思う。特に小説。
文庫出るまで待とう、っていうのが結構ある。
1Q84なんか、1,2はハードカバーで買ってるので、3だけ文庫というわけには到底いかないのだけど(気持ち悪いから)、結局買っていない。ふむ。

こないだ妹らとまたもジュンク堂に行ったのだが、妹は私の影響かどうか、江國香織を最近随分読んでいる。
で、新刊はないのお姉ちゃん、と。
うち大体そろってるからね、と。文庫まで待てばとか(ならんかもしれないのだけど)、これまた不倫ものだしね、そういうのばっかり買ってると本棚そんなのばっかになっちゃうしね、とか。
私の中では結構江國さんの本買うっていうのがプライオリティ低くなってきているのである。
妹のような情熱がない。


私も高校生とか大学生とかの時は、本をそんな風に買っていなかった。東京で最初は目黒に住んだのだけど、目黒の駅ビルがしょぼくて、やっと改装され有隣堂が入った。で、そこで嬉しくていろんな新刊を手にとっては欲しくなり、ハードカバーということも気にせず買った。江國香織のハードカバーは大体この時期に買われた作品である。ほかにも「GO」とか「世界の中心で愛を叫ぶ」(これは読んで、無駄な金使ったなと後悔したのだけど、映画化したら大ヒットしてたので、本と映画は別物よなという感を深めた)とか、所謂ジャケ買いした。

なんでそんなことをしていたのかというと、学部当時の金銭感覚がまだ親の扶養の下にいて、学費も払ってもらっていたので切迫していなかったということ、食べ物より衣服より本のほうがプライオリティ高かったということ(当時の食生活はマックにしろサイゼリアにしろ生協のパンにしろジャンクフードばっかりだった、自炊はは半分もやってたかしら)、本の中でもまだ読みたいと思えるものが今みたいには見つけきれていなかったということが原因としては考えられる。

今は読みたい本がいくらもあるものだから、所謂やりくりをせねばならん。西田幾多郎の「善の研究」なんか脚注付の文庫で1000円超えるのである。おいおい文庫だろ、って思う。まあ著作権存続中か。いやそれほどの価値勿論ありまくりとは思ってるんですけど。

そういやこの前超悩んで買った「法という企て」も積読だしな(そのあとタワレコでやくしまるえつこだのボーヅオブカナダだの渋谷慶一郎だの検討しに行く予定だったのだ)。あれ確か4500円くらい。法律書だから。専門書は往々にして高い。読み物として読むというのにはなかなか。まあいいや。こつこつ読む。

で、塾で現代文教えているので、素材としてはたくさんあって。わざわざ微妙な評論というか新書買わなくてもわりと(ピンキリだけど)秀逸な問題文というのもある。いつも生徒に出すのを事前に読み込んでおくため、読むこと自体に枯渇しているというわけでもなく。

で、本。
本屋さんは好き。でも最近家の近くのブックカフェが気になっている。本を読んでていいカフェ。まあ大体のカフェって本読んでてもいいけど、安心して本読んでていいんだーっていうカフェ。まあ家で読めよなんですけど、家だとだれかが家事し始めると気になるし。そういう意味でほんとにひとりの時間ってなかなかない。深夜はひとりなんだがゆらゆらしてるから読めん。

よーし読むぞーでも明日から連勤だからなー授業も3コマあるなープレ入試の監督もあるなー。そろそろやめるか。

そぞろあるき。

August 26, 2010

興南優勝と会いに行きたい人

一週間くらい書かなかったけど、その間に興南が優勝してた。

もう本土では今は円高の話とかにシフトしているけど、ローカルニュースでは未だに特番が組まれていたりする。

沖縄のフィーバーっぷりはすごいけど、別に引かない。沖縄の人は元々甲子園に熱いのである。強いからっていうのもあるけれど、復帰前に甲子園へ行った首里高が、甲子園の砂を検疫にひっかかって海に捨てさせられたなんていうエピソードとか、そういうのが絡んでいるのだ。夏だし。終戦記念日あたりだし。
ちなみに、その後その首里高の砂の件を知った他府県の方々が、砂がダメなら、ということで小石を送ってきてくれたり、甲子園の砂を混ぜてつくった焼き物を送って来てくれたりしたというあったかいエピソードもある。
あとは沖縄水産の2年連続準優勝という悔しい思い出があるからだろう。私は多分小学生かそこらだったけど、よく覚えている。どこへ行ってもテレビで野球がやっていた夏。

今年の興南は本当に仕上がりが良くて、磐石であった。
その他の高校も素敵な選手が結構いて、最後の東海大相模の一二三君とか、仙台育英の木村なんかも変化球がキレキレで素晴らしかった。しかし熱闘甲子園はいい仕事してるな。甲子園終わったその日にオンエアだからかなり手早くやってるんだろうけど。ちょっときれいすぎるしまとめすぎるけど。

そこの、甲子園とか見てないし、って人は、某tubeで最後のやつ見れるから見なさい。

熱闘甲子園2010エンディング

もはや刷り込みだけど、球児はかっこいい。泣ける。


で、話は変わるけれど、興南ナインを迎えに那覇空港には4500人がつめかけたらしいのだけど(これは並ぶのや混むのが嫌いな沖縄ではよっぽどのことである)、妹が行きたかったーとかいうので、えええとなる。行きたかったの?

「じゃあお姉ちゃんどんなに好きな人が来てもいかないの?」
「たとえば?」
「椎名林檎とか」
「行かない」
「くるり」
「行かんな」
「なんでー」
「行っても別にすることないじゃん。話すこともないし。」
「えーお近づきになりたいじゃん」
「そうか?イメージ壊れるよそれ」

っていう感じで自分はやっぱり有名人好きじゃないなと思いました。新垣結衣とかほんとに可愛いから傍から見るのは好きだけど別に友達になりたいわけではない。ちなみに、宮崎あおいとガッキーどっちが好きかってついったーでアンケートしてたけどガッキーです、断然。

有名じゃない素敵な人が好きです。

あれもラブ、これもラブ。

August 19, 2010

先哲の書

内田樹の「子供はわかってくれない」の文庫を読んでいる。少しずつ。

ブログを読んでから本を読むと分かるのだけど、ブログのクオリティは本並み。ということはブログを遡って読んでも、読み物としては十分に満足ができる(もちろん、学術書ではなく一般に平積みされているやつである)。
私が彼の著作を好きなのは(彼を好きかどうかはわからん)、正直だからである。正直でいてかつ私の気がついていないことをどんどん平易な言葉で突いてくれるからである。読んでてわくわくする。なるほどねーと日に何度も膝を打つ。

そうして、彼の正直な記述によれば、彼の言説はどれについても程度の差こそあれコピーといえなくもないのだとか(彼は彼のブログの文章をコピーも引用もすべてフリーにしている。彼が言っていないことを言った、と言うのはやめてほしいけれど、それ以外ならいいと。)。ほかの誰かが言っていたことを自分の尺度に切ったり圧縮したりして焼き直しているだけなのだ、と。
だとしてもだ。それらの「誰かが言っていたこと」というのはつまりインテリにもほどがあるよというような哲学書だったり社会学者の本だったりするわけである。そういうのを読んで理解して自分の血肉にして、しかも平易な言葉で語り、かつ今の社会に応用させて考えられるならこうだ、という具体まで持っていけるというのは並大抵の勉強量ではないと思うし、並大抵の才能でもないと思う。

で、そういうのをいとも簡単にコピーフリーにして、それでも別に自分の言葉や考えがより多くの人に広がるのであれば、それはいいことだ、と考えているのである。器がでかい。そうだ。器がでかいというのはもう私にとって最大級のほめ言葉と言っていい。男前、とかもうれしいけれど、器でかいなーはかなりうれしい(言う人が素敵な人なら尚更だ)。器がでかくなるためには窮窮としていてはいかん。子供たちに家がばれたくらいで、やばいなーと思ってたんじゃでかい人間にはなれん。

で、内田樹礼賛みたいになったけど、あくまで人間っぽいところもいい。あの人は聖人ではない。ついったーなんか見てるとすごい普通のおじさんである。しかも少しかわいげのあるおじさんである。

で、少しずつ読んでいて、だんだん、もったいないなあという気がしている。
自分がもしかしたらこれからいろんな本を読んで体験する中で得ていくであろう気づきが、この本によって次々に明らかにされていく。自分で気づく体験を奪われる気がしたのである。
数学の問題とかで、自分で解いたときってすごく嬉しいじゃないですか。その嬉しい!っていう体験をせずに、先回りして解答解説を読んでしまっているというような。あーなるほどね、はーそうするのかー。という納得はあるのだけど、できた!っていう喜びはない。まあ程度問題なんだけれども。
ってこれ前に書いたな。ガイドと気づかずに自分で解いたと錯覚することと、ガイドを明確に意識して解くことと、どっちにしろガイドがあるはずで、それは程度の問題なのだと。で、受験のときは時間が限られているので後者を採択することはまあ悪くない、みたいな(結論は忘れた)。
で、人生も時間限られてるんですよね。そしたらこの後者を採択するのはまあ悪くないのかも、しれない。そのために先哲は書を残したのだから。

手っ取り早すぎてなんだかな、と思った次第。
内田氏もまた「アウトサイダー」(コリンウィルソンの)を中学のときに読んでその手の思想家の重要性だかを大体理解でき、請け売りで雑誌部で一目置かれる存在になれたというけれど(早熟である)、私は20歳を過ぎても理解できなかった。大体、中学生の頃なんて、テニス少しやった後は少年ジャンプを読んでたまに塾行って因数分解かなんかしていたような生活だったのである。地域間格差と世代間格差を思い知らされる。あるいは、能力の差を。
そんなわけで、原田和秀氏も薦めていた「アウトサイダー」、リベンジしてみむとす。

August 15, 2010

天使について

天使のことを、この前のラジオで言っていた。
聞き逃したのは私のミスである。

天使のような子、というのは江國香織作品でもよく出てくる。
「育ちゃんは本当に天使みたい」「そうね」
「しま子は天使みたいにいい子なのに」

天使について、私は知らない。天の使いだということしか。
夢なら見たことがある。おばあちゃんの家にいたら、いつも腰掛けて外を見ていた窓から、天使が降りてきたのだ。小さい子供の天使で、可愛らしい子で、綺麗な白い羽を持っていた。言葉は話せなかったのだった。人目で天使とわかった。光り輝いていたから。

私は、そのとき丁度お米を砥ぐことを言いつけられていて、お米を砥ごうとしていた。彼彼女(性別はわからなかった)は、それをそっと手伝ってくれる、私の砥ぎ方。
私は、お米を砥ぐとき水を浸して、砂遊びの棒倒しの要領で周りのお米をサーっと両手で手前へもってきて上方で手の中でもみ洗いする。手をすりあわせるように。洗われたお米は中央に落ちる。後はくり返しである。周りのお米を両手で集めて持ってくる。上方へ持ってもみ洗いしてぱらぱら落とす。循環して全体的にもみ洗いできるようになる。
天使はこのやり方ににこりと笑って頷き、それをわたしの真向かいに来て、手伝ってくれた。私が集めてもみ洗いしている時に天使がこぼれ落ちたお米を拾いながら同じように周りをさーっとなぜるようにしてお米を集めて、もみ洗う。

幼いながらに、ああ、このお米の砥ぎ方はこれでよかったんだなあ。って思った。


天使の記憶はそれだけだ。
ただ、天使をもし見たら、きっとわかるだろうなと思う。

私は、天使みたいな、という言い方をしたことがない。
どのようなものが天使みたいなのかを知らないからだし、天使を知らないのである。

神様はどんなお方だと伝えられるけれども、天使についてはあまり語られない。3大天使というのがいるらしく、それはガブリエルとか、ミカエルとか、ラファエルとか、である。タートルズはここから来ているとかいないとか。
天使はどんな方なのだろう。
天使のようなってどういう意味?

見た目の美しさだろうか。
天使のような可愛い子。
僕の目の前に天使が舞い降りた。
ノースリーブから出た白い腕はまるで舞い降りた天使。

心根?
天使のように優しい子。
天使のように正直な子。

ここでいう天使はきっと女の子や子どもなのだろう。天使のようなおじさん、は聞いたことが無い(勿論いると思う)。


人間の天使性というのは、人間の悪魔性と対になるものなのだろうか。

天使っていうのは、読んだとおり「天の使い」である。
だから、神様が人間をつかわした場合でも(その人間が意識的にしろ無意識的にしろ)、その人はその時あなたの天使だったんだね、なんてことを言ったりする。うちだけかもしれないけど。
母曰く、最近私の天使だったのは、さささ君だそうである。さささ君というのは院の同期で、そこそこ仲はよかったが少し喧嘩ごしのこともあって、一個上だからと敬語を使わないことにこだわっていた律儀な感じの男の子であった。さささ君は挙動がさささとしているのでさささ君なのである。意外と音楽の好みは合った。Sigur Rosを教えてくれたのは彼である。
彼はなんだかんだと心配性というかよく世話を焼いてくれたので、善良なさささ君は司法試験の受験の出願の際やる気が無くてまだ出していなかった私をなかなか強引に郵便局まで連れて行き、「絶対ちゃんと出した方がいいよ」「書留はこうやるんだよ」と懇切丁寧に教えてくれた。やる気が無い私はつい「えー」とか「いいよ今度やるよ」など言ってしまったのだけど、悪いことをした。
三年次に憲法のレポートを出さなきゃ単位が危なくて卒業も危うくなるみたいな状況のとき(私は体調を崩していて沖縄に帰っており、授業に全く出ていなかった)、メールで送ったレポートに表紙をつけて出しておいてくれたのもさささ君であった。
その様子を見ていて母が、天使だと言ったのである。
うむ、そうだったかもしれん。ことあるごとに助けてくれた。しかもそこに一切の恋愛感情や打算なども無く。いいひとだった。感謝している。

誰かの天使になれたらいいなと思う。偶然でも、なんでも。

August 13, 2010

耳の解像度

ついったーでもつぶやいたのだけど
エレクトロニカの世界~渋谷慶一郎の電子音楽マトリックス~
という番組が3夜連続でやっている。ラジオで。NHK FM。ニシカワさんのついーとで知ったのだけど。
今日2夜目から半分くらい聴いたが、ラジオを聴く習慣が無いためしょぼいラジオしかなくて、左からしか聴こえない(そして接触不良気味)という劣悪な環境で聴いたので、勿体無い感じであった。加えて、リビングにいたため、人がラジオ聴いてるのにお構いなく話しかけてくる家族。おかげでグリッチのとことか聞き逃している。

で、そのなかで、音の解像度が上がっているという話が出て。
マイクロスコピック、という言葉があって、それは顕微鏡的な、という意味なのだけど、技術が発達してくると音の扱いがミクロになってくると。拡大して作りこめると。そうすると音の解像度が上がる。で、それを聴く方も耳の解像度が上がると。
それはもうほとんど常識のように口にされたわけだけれど(常識なのかも知れんけど)。

耳の解像度って。
つまり耳が肥えるということよね。舌が肥えるみたいに(舌の解像度も上がるわけだ)。
まあ像といってしまうと視覚っぽいのだけど。でもしっくりくる。
この前、変化すること、みたいなエントリで、人間の方も変化してるから音の聞こえ方が変わってくるのかも的なことを書いたけれど、まさにそれで、というかそれ常識、みたいな感じで。
より微細な音の違いを聞き分けられるようになる。すごい小さい音の差分みたいなものとか、よりかすかな振動とか。妙な音とか。
そうやって新しい音、新しい音ってやってるうちに、自然界では聴こえない音を人間は作り出すようになったんだなあと。
ノイズを聴くのって最初の頃全然不快で。少しのノイズも不快というか、いらんと思っていて。だから、Telefon tel aviv聴いてたときも、ノイズ無ければいいのにって思っていた。私はやさしい電子音が好きなのであって、ノイズが好きなわけではなかった。つまり、レイ・ハラカミみたいな音が好きだったってこと。
で、だんだんノイズが心地よくなっているのに気づく(今もそればっかりは苦手だけど)。というか、ドラムとかってその一種というか。パーカッションというか。

で、ヤマダ電機に行った際、自分のiPodを接続して聴いていいという試聴用のイヤホンがいくつかあったので試したところ、全然違う。同じ曲かと思うくらい違う。あるものは解像度が高いけれど、ちょっと明るすぎる。軽すぎるというか。で、あるものは低音が割にしっかりしていてバランスがいい。とか。ちなみに私のイヤホンは安い。ヘッドホンも一応ヘッドホンだけど1万いかない。院の同期は4,5万するやつをノイズキャンセリング機能が秀逸だからといって自習室で装着していた(その時は音楽を聴いていない)。超贅沢。
イヤホンでこれだけ違うんだから、もはや同じ曲聴いてるとは信じがたい。特に音楽にうるさい人ほど。

で、やくしまるえつこの、ウィスパーな声(エフェクトで息の音を強調しているとか)、あれもノイズか、と得心。ノイズが心地いい理由が少しわかる。生体音というか。あーあと具体音とも言っていた。
奥深いぜ。

人間ってそういう意味でもどんどん進化しているというか、どんな小さいことも味わえるようになっているというか。少しの音、色彩の違い、味の違い、手ざわり、舌ざわり。
愛すべきこの世界。

と思っためも。

August 12, 2010

すぽると

つれづれなるままに。

越智が最近はクローザー的なことをするようになったのだけど(クルーンが負傷で登録抹消のため。今日1軍復帰したらしい)。昨日は9回裏に同点のソロアーチ(ヤクルト・青木)を浴びる。

私「越智くん!」
妹「おちけん?」
私「!」
妹「つくるなよ」


まあ青木も早稲田だしね(鳥谷のときも同じことを言う)。

続く10回表、バッターボックスに越智。珍しい光景(中継ぎなので大体1,2回で交代するためいつもは代打が出る)。ピッチャーだからって体力温存とか考えずに、積極的に打っていく越智はよかった。越智かわいい。かわいいねーって母と。
ファールでねばったけどファーストゴロに倒れ、10回裏なぜか最初から山口に代わっているという。え、越智続投じゃないのに打たせたの原さん。まあバッティング好きそうだけどさ。


昨日はヤマダ電機に行ったら(沖縄にもある)、本屋さんがあってびっくりした。確かに大井町のLABIにもあったわ本屋。

びっくりしたついでにF1速報ハンガリーGP号立ち読みしてしまった。やっぱり面白い。あんな薄いのに550円もする。でも広告費ほとんど入ってないだろうから仕方ないよね。海外飛び回るしセレブ業界だから取材費もかかるだろうし。と納得しながら立ち読みする。アロンソの勝った号なら買ってた。F1速報の何がいいって、あんまりミーハーじゃないというか、スポーツ新聞的じゃない(ゴシップ好きじゃない)っていうところがいい。インタビュー記事とか諸々、F1への愛を感じる。

ミハエルが危険な幅寄せをしてバリチェロ激怒みたいな記事があって、まあやるよねあの人そういうこと、って感じだ。以前、弟のラルフにさえそういうことしたからな。勝利への執念がとにかく凄い。次のレースは10グリッド降格が決まっている。で、アロンソはそういうことはしないのだ。フェアネス。アロンソかっこいい。かっこいいアロンソ。ちゃんと計算してタイヤをかばって走ったりとか。レッドブルより1.2秒くらい遅いマシンで2位を取りに行ったりとか(1チーム2台なので)。買えばよかったかなやっぱり。


甲子園も始まって、沖縄は興南旋風ふたたび、と盛り上がる。沖縄は高校野球熱がすごい。見ないと非国民ならぬ非県民扱いである。見所は、興南高校の春夏連覇なるか、というところ(春は優勝したのです)。守備も攻撃もいい仕上がりだと思う。一回戦も安定した強さで9-0で勝ち進んだ(ほんとは見たかったけど、3回までに3-0だったので、まあ大丈夫だろうと那覇へ出た。いつも混んでいるジュンク堂はがらんとしていた)。いい仕上がりすぎて、初々しさに欠けるくらいである。


なんかスポーツばっかり。しかも自分はしてない。
いかんいかん。

余談だけど、沖縄は日テレが無いので江川の番組観れないのは結構残念。

August 9, 2010

これでいいのだ

公共広告機構(AC)のCMが最近増えていて、どうしたわけかしら、と思う今日この頃。
テレビの広告費が下がったのか、公共広告機構が頑張っているのか、参加企業が増えたのか、制作費か何かボランティア的な何かが起こっているのか、は知らない。

印象的なCMがいくつもあるなあと思うのだけれど。
子供が黒い絵描いてるやつとか、ぱなしのやつとか、コトバダイブのやつとか。

使い古された言葉っていうのがあって、私は多分特にそうなのだけど、そういうものをスルーしてしまう。どんなに大事なことでも。漠然とした言葉というのは、具体的に何々をしなさいとか何々はどこでどうなっているとかいう言葉より、届きにくい。
で、そういうのって言葉として損だなあというか、大事なことを言っているのに届かないのってもどかしいなあと思っていた。
友達を大切に、とか、あらゆることに感謝しなさい、とか、そういうことってもう何度も耳タコで聞いていて、今更新しいことも何もありやしない。だから、そんな言葉を使うより、もっとピリッとした新しい言葉を、聞いた人の耳に引っかかる言葉を、使ったほうがいいなと思っていた。塾の先生をやっていて思うこともそうで、子どもたちっていうのはそういった類の言葉をいやというほど聞かされているのである。


それで、まあACの話に戻るけれど。

「これで、いいのだ」

っていうのがあるじゃないですか。赤塚先生の。バカボンのパパの。
女子高生が何か悩み事なのか、ぼんやりしていて、そしたら「その言葉をつぶやいてごらん」っていうナレーションが入る、やつ。
あれ私好きなんです。雰囲気も、映像も、音楽も含めて。なんか、きれいごとっぽくなくて。(きれいごとを否定するのも好きじゃないんだけど、きれいごとすぎるというのもやっぱりあって。)

それで、単純に、あ、いいCMだな、って思っていた。

でも、言葉は私に完全には届いていなかった。なんだろうな、言葉にも自分の心のコアの部分に刺さるようなのもあれば、脳にやっとさわるようなのもあるし、届いている場所も距離も違うというイメージがある。
それで、この言葉は、脳に届いていたけれど、心には届いていなかった。そうだね、あなたはあなたのままでいいのだ、と思っていた。その誰にともなく、もしくはその女子高生に向かって。

で、さっき、急に、この言葉を思い出したのだった。
幼ない頃から歌に乗って口ずさんだフレーズ。西からのぼったお日様が、とか、ウナギいぬとか、よくわからないながらに楽しくて、「これで、いいのだー♪これで、いいのだー♪ボンボンバカボンバカボンボン♪」って。これを歌うと元気になった。

それで、
ずっと昔から聞きなれていて、今になってその大事さに気づいて、それでもまだコアまで届かなくて、今やっと届いてぎゅっとなった、
と思った。

すごく大事なことを、なんでもないことのように多くの子供に口ずさませておいて、その子達は大事なことなんて知らずに何年も何年も忘れていて、大人になったときに、こんな風に気づくようにするなんて、なんて人!

で、この言葉が何より必要なのは、私だった。あの女子高生は、私だった(比喩とはいえすみません)。
今更気づいたんだ。



※参考(某tube)
「これでいいのだ」
「黒い絵」
「ぱなしのうた」
「コトバダイブ」

August 7, 2010

変化について

この前の現代文で、庭の話があった。

西洋の庭は、噴水を作ったり、木々を丸い形にカットしたり、そういう造形美を目的としている。そういう意味で西洋の庭は彫刻のようなものであり、そこで完成するものである。加えて、自然に対する姿勢として、人間が自然を支配し加工するというスタンスである。
しかしながら、日本の庭は自然を生かすようにつくられている。縁側から庭がつながっていて、いつでも生活空間の中から行き来できる、くつろぎを重視した庭である。そして、その庭は木々が成長するのに伴ってその形を変えていく。その庭をつくった者はそれを予想しているのであり、その意味で不変の完成形を残そうという意志はない。自然に対する姿勢としては、支配するのではなく、調和するスタンスである。

的な話。

その後に、そもそも日本の文化というのは何かを残そうとするようなものではない、と続く。
例えば「生花」は花がそもそもすぐに枯れてしまう以上、残せるものではない。それでいて尚、その花との出会いを大切にし、美しく配置するというもので。
「茶の湯」も主と客のその一度の席で心を込めて茶を点て、それをいただく、その場を愉しむのであって何かを残そうというものではない。
そして芭蕉が俳句より好んだという「連句」もまた、そのようなもので。連句というのは、誰かの詠んだ上の句(5・7・5)に下の句(7・7)を別の人がつけ連ねて楽しむというもので、誰が詠んだとかその句を残そうと一生懸命につくるというのではなく、その場での友人達との戯れを愉しむというものである。

という感じ。

そこで、龍安寺の石庭の話が出てくる。
石と砂だけのシンプルな庭である(厳密には苔くらい生えている)。これは日本の庭の中でも例外であるとする。植物が植わっていないのである。つまりほぼ変化しない。これは他の日本庭園と異なり、くつろげる空間というよりは非常に張り詰めた緊張感のある空間である。そして志賀直哉の褒めて言うように。
「相阿弥が石だけの庭を残して置いて呉れたことは後世の者には幸いだった。木の多い庭ではそれがどれだけ元の儘であるか後世ではわからない。例えば本法寺の光悦の庭の中でも中の『八つ橋』を信じられるだけで、他は信じられない。そういう意味で龍安寺の庭ほど原形を失わない庭は他にないだろう。此庭では吾々は当時のままでそれを感ずることが出来る」


で、「飽きる」ということを考えた。
飽きるだろうなと思ったということ。所謂西洋の庭(つまりいつも刈り込まれていつも同じ形をしている庭)はきっと見ていてうんざりするに違いない。無論、西洋にも日本より野趣溢れる庭もたくさんある。
で、そういう定型的なものに飽きるというのはもしかして健全だなと思ったということ。
以前に内田樹氏のブログで、「人は定型から出ることは出来ない。しかし定型を嫌うことはできる」という言葉があったけれど(マスコミの論調についての文脈であった)。
それで、変わるということが(もしかすると微妙な変化であればあるほど)美しいしわくわくさせるし感動させるのだなと。
そうして、自然が変化しないように見えて実は変化していることって実は驚異的なことなのではないかと。思ったわけで。

空とかさ、雲はすごくゆっくり動いている。早くてもたかがしれているというか。なのに、気がつくと急に暗くなって雨が降ったりとか、いつのまにか薄紅に染まっていたりだとかする。雲の形も刻々と変わっているし、天上の星も実はゆっくり動いている。月がいつのまにか高く上っている。
植物も全然動いていないように見えて、実は一日でかなり成長していたりする。実がなるものに顕著だが、一日でぐんと実が大きくなっていて驚くのはよくある(よくあるのに驚くのだから私も学習しない)。

全然飽きないなあと思って。

で、音楽とかって好きなの聴きすぎて飽きるということがたまに起こるのだけど、少し経ってから聴くとまたすごく面白く聴こえたりする。違って聴こえたりする。そういうのって、もしや音楽変化してたりして。っていう思いつき。だって日々人間も変化してるわけだから、聴こえ方が変わってく事だってあり得ると思う。読書然り。


なぜ、変わらないと飽きるのだろう。
クリエイティビティと関係するのかしら。変わらないということは、進化しないということだ。変わるということは、何かしら前進なり後退なり横移動なりしていることになる。そうやって変えようとする力が、いろいろな物事を動かしている。そういうことと、この世界の源泉のようなものとはつながっているような気がする。いや思いつきだけど。
そういう動力がなければ、世界自体が動かないというか。変化するということ。単なる循環でなく(超マクロな視点で見たら循環なのかもしれないけど)。そういうこの世界の細部まで動いて変化していることが、時間が流れているということと同義で、エネルギーの移動とも同義で、ていうような。
変化って時間軸が絶対必要よな、って今思ったんだけど、逆も言えるだろうか。時間を定義するには変化が必要だっていう(何一つ変化しない場合に時間が流れているといえるのかということ)。
変化するのはなぜかって、まあ、そういうものなのだと言われればそれまでなのだけれど。
プログラム説。
ああ謎。

変わらない方がいいものもあると、思っていた。
愛情とか。ときめきとか。わくわくとか。
でも、愛情はともかく、ときめきやわくわくというのはギャップが前提のようなものだから、難しいなと思う。

諸行無常。

なんか、自分が何らかの動力で動いていることは確かで、そして物を食べないと動けなくなることからその動力が食べ物からえられているであろうこともわかって、それってなんだか超不思議だなと思う、今更。
私、ほぼ食べ物じゃん。
私自身も変化の結果なのである。体内変換。
そしてこうして書いている内容もまた、何かを取り入れて変換して出したものなのである。

August 5, 2010

死について

ねむねむですよ。

あれだ、死。
家族と話していて、ああこの人たちと過ごしてて幸せだなあと感じ。いつまでもこんな風にいられたらいいのになあと思う。妹達は勿論旅立つのだろうから、私はいつまでもここにいて老いる両親と色んな話をしていけたらなあと思う。
で、この人たちもいずれは死ぬのよなあ、遠いところへ行ってしまうのよなあ、と思って。
で、私もいずれ死ぬのよなあ、と。
死ぬとか今全然思ってないけど、終わるからね。絶対。遅かれ早かれ。
死ぬと周りの人が悲しむのは、どうしてだろうと。その人にもう会えないからだろうか。死に方が苦しそうだったからか。死ということがもう生の終わりだからだろうか。終わってしまったからなのだろうか。それで、かわいそうだと思って泣くのだろうか。

わたしも寝床で考えている時に、ふと自分が死ぬ瞬間を想像してしまったりする。大体の場面は、私は苦痛を伴いながら死ぬ。腹を刺されるとか、毒を盛られるとか、爆発に巻き込まれるとか。で、死ぬ間際に意識が無いことを切に願うのである。痛みにたえきれないはずだから。
暗闇でそんなことを考えると本当に怖くなる。やってみるといい。

それは、死が怖いからであって、なぜ怖いのかというと、生より悪いことだからである。生を奪うものだからである。生を一番いい状態で、その次はもう無い、むしろ悪い状態だという考えかあるからである。
もし、生の次の方がよかったら?天国という言葉を使わないにしろ。次のステージがあったら?勿論、そう考えている人もいるだろう。クリスチャンにしろブッディストにしろ、そういう考えがあるのではなかったっけ。

得体の知れないものに対峙するのは、楽観である。
死の先に我々の自覚とでも呼ぼうか、そういったものは存在しうるのだろうか。あったとしてそれは幸福な世界だろうか。地上での罪の制裁はあるのだろうか。輪廻の中に取り込まれてしまっているのだろうか。次は蟻だろうか。名も無い草だろうか。
と、そういうことを今から考えていてもそれを知る術は証明力の無い読み物や啓示以外には無いわけだから、どうでもいいじゃん。わかんないこと考えても時間の無駄だよ。的な楽観主義が結局全てを覆うのである。自分が死んだ後のことについてはね(勿論、遺族にとっては死んだ後にどこへ行ったのだろうという疑問はシリアスなものであろう)。

一方で死ぬ前のことについても人間が楽観的かというと、そうでもないのである。実に細かいことまで心配し、それを解消するために手を尽くしたりする。生をコントロールしようとし、生へ執着する。生命としての義務なのかもしれぬ。

生きているというのはそういうことで、生きているものとしては生きることに対してベストを尽くすというようにプログラムされているということなのだろう。
死んだ後に極楽浄土があると思っていても、死ぬ前に恐怖を感じずにおられる人はなかなかいないと思う。この死のうとすることに恐怖を感じるようになっている自殺阻害機能とでもいおうか、そういうのが備わっているよなあと。

祖母が結構高齢で、今施設に入っているのだが、少し具合が悪くなって、気弱になると、「もうすぐ死ぬのかねえ」なんていう。彼女は死をとても怖がっている。年季の入ったクリスチャンであるけれども、死が怖い。

読中の「虞美人草」の最初の方に、こんなのがあった。

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古今来を空しゅうして、東西位を尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ化石になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も紫も吸い尽くして、元の五彩に還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側なるすべてのいさくさは、肉一重の垣に隔てられた因果に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ情けの油を注して、要なき屍に長夜の踊をおどらしむる滑稽である。遐(はるか)なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。

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ため息が出る。
神経衰弱にもなるわ。

生と死のテーマは重い。
私は家族が死んだ時どうなるんだろう。号泣するとは思う。私はもうその姿で動いている生命体としての彼彼女を見ることが話すことが触ることができないということにきっと耐えられない。鈍感だし、忘れっぽいから、もしかするとだんだん平気になるかもしれない。その頃になってやっと、愛する者の行った先に思いを馳せることができるような気がする。

実は昨年末に、父方の祖母が他界した。
死というものにちゃんと向き合った初めての体験だったと思う。
宮古のおばあ、と呼んでいた。宮古へはずっといっていなくて(私は東京にいたし妹は東京なりアメリカにいた)父の病気のこともあり、飛行機で移動することが難しかったというのもある。
祖母は認知症が始まっていて、病院で長いこと入院していた。危篤の知らせがあったときも、先に行った父は覚悟を決めていた。お通夜を済ませてから到着した私たちはお葬式と火葬に立ち会った。老衰で、苦しまなかったとのことだった。認知症になってからの祖母の子供みたいな顔を思い出す。
お葬式の時棺に寝ていたおばあは化粧を施されていてきれいだった。人形みたいだったけど。そのときは特に悲しいという感じはしなかった。亡くなったのだということはわかっていたけど、それよりこの仰々しい仏壇や口うるさい坊主に閉口していた。
火葬場で、棺の中に入ったおばあがいよいよ焼かれるというそのとき、急に怒りのようなものが沸いてきた。皆が淡々と事を進めていて、それにのってきてしまったけれど、本当におばあを焼くのか?と思うと、信じられなかった。この行為は絶対間違っていると思った。涙が出てきた。見ると、親戚の中で私の家族だけが泣いていた。煙は黒かった。出てきた骨は白かった。形がちゃんと残っていて。みんなで箸でつまんで壷に入れていた。物凄く物理的にそれは行われた。伯父や伯母がそうして入れているのを見て、確かに日頃から感情を表に出さない人たちではあるけれど、すごいなと思った。自分の母親の骨である。
帰り道、車で送ってくれていた従兄弟が気まずそうに、「初めてなんだね。俺は何回かあるからさ」と言った。「うん」と言いながら、心の中で、そういう問題じゃないと思った。初めてだからとか慣れたからとかいう問題じゃきっとない。
そのあとは納骨で。12月で、寒かった。畑の中にある亀甲墓の塗り固められた石の扉を開けて、中の部屋に骨壷を入れる。長男が入る。ずっと一緒にいたのは次男の伯父なのに、本島に住んでいる長男と東京に住んでいるその長男が入る。ちゃんと置いたらそこでまた漆喰で塗り固めて読経。以上。
人が死ぬということは、つまり人がなくなるということなんだと。そしてそのひとのことを皆がどう思っていたのかとか、そういう場なのだと。すごく悲しかった。

この時期になってしか書けなかったのは、すぐに書いたのでは不謹慎だと思ったからだ。私は祖母のお葬式をしたという記憶はあるが、祖母が死んだという感覚は無い。写真で見る限り元気そうだし、記憶の中ではすごくしっかりした「これで鉛筆と帳面を買いなさい」といってお小遣いの使途を定める祖母である。

ペンディングではあるが、一つのメモとして。

August 4, 2010

凄い人のこと

ついったーで書いたが思い立ってこっちに書くことにした。

最近、すごいなこの人。人か?
と思うことがあり。

例えばNHK大河ドラマ「龍馬伝」。これは撮り方が独特で、人間が全体的にぎらぎらしている。
「後藤正二郎」役の青木崇高。ぎらぎらである。一歩間違えるとチンピラなのだけど、そこはしっかり侍を演じている。
「高杉晋作」役の伊勢谷友介。高杉晋作だからかっこいいはかっこいいんだけど、伊勢谷友介の目つき、身のこなし、口調、着物の着崩し方は本当に切れんばかりのキレがあり、色気がある。散切り頭で。見事としか言いようが無い。
「武市半平太」役の大森南朋もまた、実直そうで冷徹で、責任感の強い忠実な人間を見事に演じきっていた。最後の大殿様(山内容堂)との牢でのシーンも鬼気迫っていた。
「吉田東洋」役のお爺ちゃんも、恐ろしく凄味があって。ぎらついていた。何だあの俳優は、誰だ、と思っていたが、元はダンサーだったらしい(クラシックバレエ、モダンダンス)海外公演などもやっているらしく、最近になって舞台や映画にも出ているようだ。あの顔はむちゃくちゃ色々なものが堆積してできた顔だ。

そして、漱石先生のことですが。
以前に「こころ」を読み返して、ふむ、こういうものか、と思い(それなりに思うところはあった)、「草枕」は積読で、「虞美人草」を読むこととした。
本当に、景色の描写は非常に詩的であって、美しい。よくよく注意していないと何のことを話しているのか見失う。主語をあえて出さずに書く。漢詩のような文章である。登場人物中の甲野さんは哲学的であって、もう一人との問答も面白い。いずれ引用したい。
本当に、物凄い。こんな文章見たことない。人を食ったような感じを受けるけれども、すごい。art分野は本当に門外漢なので、こういうのを見るとひたすらに感嘆する。ほぅ。


こんなに凄い人たちがいて、良かったなあということ。それは人類として誇れるとかそんなんでなく、凄いと思えるからよかったっていうこと。「凄い!」というのは一種の興奮である。興奮体験がなければ、人生は盛り上がらない。感動できるということは本当に人間の感情の作用の中でも一番素敵な機能だと思う。

14歳の頃にブルース・リーを一目見て心奪われた熱心なファンの人で、自らも截拳道(ジークンドー)を理解し体得し、IUMA日本振藩国術館とUSA修斗の両方で代表を務め、ブルース・リー財団日本支部最高顧問である中村頼永さんという人がいる。テレビで拝見したところ、すごくいきいきしているし、楽しそうだし、ブルース・リーをブルース・リー先生と呼ぶほどに大好きだ。
彼も凄いし、一人の人間の人生をここまで変えてしまった(良かれ悪しかれ)ブルース・リーも凄い。凄い人に感動しすぎるとこういうことが起こるのだなあと。

こういう所謂有名な人というのでもなく、凄い人というのはすぐ側にもいて。
そんな人がすぐそこで普通にご飯食べてたりなんかするとまじ揺るぎねえなとか思ってしまう。年というアドバンテージをなくして考えたとしても。私が年をとって同じ経験をしたとしても今のこの人のようにはなれない、という。

凄い人ってほんとうにいるよなあと思った。それだけ。

August 3, 2010

音楽に救われるということ

今、EGO-WRAPPIN'を聴いている。「あしながのサルヴァドール」である。
束の間に愛を サルヴァドールに花を。

こういう曲を聴くと、無性にひとりになりたくなる。
できれば秋頃で、水辺。天王洲アイルあたりがいい。
もしくは、冬の海辺でもいい。Slowly days.
メランコリック。

ジャジーなのでお酒が飲みたくなるかと思いきや、いや、ぬるめの紅茶がいい。少し砂糖は入れたい。
ゆっくりしたい。
飯田橋のカナルカフェなんかもいいかもしれない。水辺でスロウである。初夏の雨など尚よい。ひんやりしてきて秋かという趣が漂ってくる。暗い緑のパラソルの下紙皿にのったピザやケーキ。紅茶。

こうして音楽を聴いていると気分というものが発生(若しくは変質)して、どこかへ行きたくなったり、記憶にひもづいた場所に行きたくなったり、酒を飲みたくなったり、誰かのことを思い出したり、会いたいと思ったり、散歩がしたくなったり、映画を見たくなったりする。

音楽の染み入る夜。

私の好きな音楽は、ひとりになりたい気分にする音楽なのではないかという分析。
音楽は1人で聴くものだから。

音楽を愛してるなあと思うし、音楽に愛されてるなあと思う。

さっき帰宅したらインナーマッスル不足で倒れこんだ軟弱な人間。こんなに体調が悪くて、たんぱく質がすぐ消費されてしまう体で、動悸が激しくて、立ちくらみがして、食べる物も自分の作ったパンとかしかだめで、油っこいものとか味噌汁とかゴーヤーチャンプルーとかもう胃と目が拒否している。えい、とがんばって食べる類のものは、がんばれない。

そんな状態の人間の耳にも、音楽は染み入る。心弾むほどにうれしい。あちこちの痛みもうすれる。

Oさんの「前向きに」という言葉を思い出して、「後ろ向きでOK!」というTOMOVSKYの曲を聴きたくなる。鬱の人に「がんばって」とか言っちゃいけないとかいうけれど、多分「前向きに」も同様な言葉であろう。
妹の持ってた本(リクルートのいわゆる転職特集本で、ところどころに専門学校とかの広告が挟まっている職種紹介の本)「ニホンの職業777」みたいなのをパラパラ読んだ。裏表紙に「でっかい仕事がしたい」とか書いてあって、まじなえる。(不動産証券化関係の資格の広告であった)ちなみに、くるりの「なにかでっかいことしてやろう」という歌詞は、アイロニーだ(きっと)。

徐々に徐々にカミングアウトしたけれど、軽い鬱です。
性格直せとか言われても無理だし、労われてもへこむのです。運動したらっていわれるけどそういう体力もなくやる気も出ず、焦ります。せっかくアドバイスしてもらってもそれをこなせない自分に苛立つのです。早くその結果を報告したいのに、体は動かない。自分の怠惰にあきれ果て、自信をなくし、自分が何者かであることに執着し、しかし今の状況に耐えるしかなく、そういうバッドなスパイラルです。
太宰だな、これ。
多分私は太宰みたいに酒や女遊びに行かないだけまだ軽いのでしょう。男なら太宰になっていたかもしれません。心外ではありますが。

もし太宰の時代にこんなに音楽の溢れかえる世界があったら、彼は入水自殺など考えてなかったと思う。
まじで、NO MUSIC,NO LIFE.
タワレコのCMやな。

タワレコに行ったよ、この日曜に。
「billion voices」七尾旅人
「マジックディスク」アジカン

ジュンク堂では
「詩とは何か 世界を凍らせる言葉」吉本隆明
「虞美人草」夏目漱石

スタバでは
ショートのソイラテとバゲットみたいなやつ
大阪の女子高生(総体帰りらしい)の大阪弁というか雰囲気に和む。

国際通りでわたあめを売ってるおばちゃんから一つ買う。妹の好物だから。
わたあめを持って国際通りを闊歩していた人は私です。

目的のF1速報は手に入らず。しかしいい買い物だった。お腹と背中が攣るけど。

July 29, 2010

さて、今日の現代文は。
今日は2008年のセンター試験第1問。やたらにもやもやした文章であった。一体何が言いたいのやら。いまいち好きではなかった。

まず、闇について。明るい場所というのは全てが視覚で認識できてしまう、つまり視覚によってものと自分との距離が測れてしまう。それは視覚を軸とした統制である。逆に闇はそうではない。視覚を奪われた途端に我々の他の感覚が活性化し、そこにある空間を感じ取る。
そうして、我々が近代建築などにおいて求めてきた明るい場所では空間が均質化され、距離として把握されてしまう。つまり、失われたものは水平方向の深さ・奥行きである。

的な。
ここから「奥」というものについての考察。
「奥」というのは空間的なものだけではなく、時間的、心理的なものを含む。ということを辞書から引っ張ってくる(どこかで見た手法である)。
「奥」というのはプロセスである。奥に何かの対象物があり、それがクライマックス的なものではない。らしい。
そういうことを、神社の参道を例に用いて縷々述べる。

そういう文章であった。なかなか覚えていて私としても嬉しい(その点について)。
闇の話はまあ感覚的に共感する部分もあるのだけれど、闇というのは深さであるということや、「奥」というのがそのプロセスに本質があるということなどは、ふうんそうかなあという感じである。

そもそも私は、完全な闇というものと離れて久しい。そういう場面はそんなにない。夜中に起きているから、わずかな灯りを頼りに部屋を歩くというのはよくあるのだけれど、物の輪郭くらいは見える。そうではなくて、全くの暗闇。そして、自分の部屋のようにどこに何があるかわかっているわけではないような場所で。そういう暗闇を体験しなくてはならないという気がする。生物として。
なんだかんだいっても、私は視覚に統制されている。視覚に頼りきっている。そうして、視覚により周りの見慣れたものものに頼っている。それが急に見えなくなってしまったとき、やっと自分が一個の個体であることを理解できるような気がする。
手ざわり、とか、息づかい、とか言うけれど、本当に本当にそういったものと対峙するとき、視覚は大きな位置を占めすぎている。

ダイアログ・イン・ザ・ダークというものがあるそうで、東京でやっているらしいのだけれど、これに結構興味がある。院の同期が日記か何かで書いていたものだ。東京に行く機会があれば行ってみたいと思っているのだけれど。
そういう親密さと心細さというか、孤独感と不安感というか、危機感と攻撃性というか、つまり原始的な感じが、闇の中にはある。ような気がしている。

「闇は光の母」という詩が谷川俊太郎にあるのだけれど(頻出)、それは、宇宙の闇は私達を愛していると締めくくる。
闇が我々を包んでいる?闇が空間に溶けている?
私にとっての闇のイメージは、奥行きとか深さではなくて(むしろそれは視覚の守備範囲で)、ただそこにあるもの、すぐ側にいるもの、体をとり囲んでいるもの、で。そうして、闇とは違うものかもしれないけれど、目をつぶると、むしろ自分の内側へと意識が向くのがわかる。自分の中の闇へ。それにきっと体内は真っ暗なわけだし。

「奥」については、何があるか分からないような神秘性、大切にしているような感じ。確かに何かの対象物がクライマックスなわけではないけれど、「奥」に向かうこと、「奥」へ通されることというそのこと自体が。そこを奥とすること、共通に認識していること。そこへ向かうということ。大奥。奥ゆかしい。奥様。
そういえば、「沖」と同根だとか。興味深いではある。沖もまた奥なわけか。


どうでもいいけれど、「イン・ザ・ダーク」と聞くとついビョークおばさんの映画を思い出す。美しい映画。
Dancer in the dark(Bjork - I've Seen It All)

July 25, 2010

鷺ノ宮

書くこと無いので久々に街回顧でも。
えーとこの前が学習院下だったから、次は鷺ノ宮(さぎのみや)だな。

鷺ノ宮というのは東京都中野区。鷺ノ宮は西武新宿線の駅である。急行が止まるので結構いい。

大きな地図で見る

西武新宿線というのは名前の通り、西武電鉄がやっている新宿始発の路線。新宿から、早稲田の近くである高田馬場を通って埼玉方面にのびていく。
鷺ノ宮は高田馬場から7駅。各駅停車だと長いが急行だと一駅。長いとか言うと埼玉から通っている人とかにものすごく怒られる。

西武新宿線に関する覚書。
・定期が安い
・西武の選手のポスターが貼ってある
・西友がある
・沿線の家賃も比較的安い
・住宅街で住みやすい
・マンションは家族タイプも充実
・新宿まで一本だからそこそこ便利
・朝と終電が激混み
・西武新宿駅が微妙な場所にある(JR新宿駅が遠い)
・西武新宿駅の地下街も微妙
・スポーツセンターとか飲み屋とかあるにはあって何気に便利
・ホームとホームをつなぐ橋がない場合もあるので乗り過ごした時は注意。


鷺ノ宮は急行が止まる、とはいえ田舎である。駅前こそマックだとかケンタッキーだとか総菜屋なんかがあるけれど、少し行くともう住宅街、だし、駅がそもそもかなりぼろいし寂しい。夜とか。コンクリートに弱弱しい蛍光灯の灯り。辺りは真っ暗。酔っ払い。なぜか祭りでもないのに商店街にはいつもちょうちんが下がっていて、街灯の代わりなのだろうと認識していた。
実はここに住むことにしたのは、大学に近いというのも勿論その理由だったけれど、その時恋人がその沿線に住んでいたからでもあった。さすがに同じ駅にはしなかったが、何かと便利だった。ちょっと会おうと言えばそこら辺のマックで会えるし、本屋でお互い本を選ぶのもCDショップでお勧めをおしえあうのも便利。マンネリ化した愛の生活。いつも一緒。昔はこういうのがよかったのだ。今思えばうっとおしかっただろうな。

彼のバイト先の草野球大会で試合見に来る?っていうんで、行ったのだけど、彼以外全然知らなくてアウェー感半端なく、いたたまれない感じになったというのももういい思い出。
草野球は全然面白くなかった。彼はキャッチャーだったから全然見えなかった。

鷺ノ宮のアパートの管理人さんもおじいさんだけど、ちょっとおねえ言葉を使った。なんだかやたらに褒められた。N響のチケットが届いては「オーケストラなんて素敵ねえ」とか、遅く帰れば「勉強熱心だねえ」と褒められた。娘さんがオリエンタルランドに勤めているとかで、すごいじゃないですか、というと、照れながら「全然。総務だもん」と言った。いよいよそのアパートを去るという時には、抱擁された。結構びっくりした。けどお気持ちはありがたく頂戴した。

女子だけのアパートだったが、全然仲良くならなかった。話をする機会もなかったのである。実はこのアパートだけでなく、学習院下のマンションも、中野新橋のゲストハウスも、大井町のマンションも、そしてこれから書くであろう目黒のマンションも、全然仲良くならなかった。なぜかしら。結構フレンドリーなのに。会わないからかな。

そのアパートはフローリングで、ベッドと机以外何もなかった。1階で少し怖い。オートロックではあるが意味無い。塀を越えたら入れる。

深夜雪が降って来たことがあった。積もるのを見たことがなくて、とっても嬉しくて着替えて外へ出た。寒い。ビニール傘を差して、アパートの周りを歩く。誰にもさわられてないきれいなさくさくの雪に自分の足跡を残して歩く。その記憶が鮮明に残っている。

その頃は、くるりの「ワールズエンドスーパーノヴァ」あたりが出た頃で、アルバムの「The world is mine」を聴いてた。そうして、EGO-WRAPPIN'の「満ち潮のロマンス」も聴いてた。どちらも名盤。

ここに住んでいたのは2002年頃。大学2年。大学では刑法各論だとか債権総論だとかをやってた。多分、物権も。バイトは家庭教師(1年の秋から3年の終わりまで)。オリジン弁当のお世話にもなっていたような気がする。
OKスーパー(かなり安いが野菜は高い)は常に何かが割り引きなので(しかも7割引とかある)うれしかった。最初からレジ袋有料の店で、ここにはよくお世話になっていた。段ボールもいろいろもらえた。
新青梅街道を越えるといなげやというスーパーがあり、ちょっと大きな買い物(タッパーとかフライパンとか)はここで。ドラッグストアもあった。
ラーメン屋もあったが多分つぶれた。
住みやすくはあるが、多分上井草(かみいぐさ)とかの方がいい感じではある。
上石神井(かみしゃくじい)には銀だこあるしね。頑張れば石神井公園行けるし。あんまり手入れはされてないけど、柳が綺麗。

よし、そんな感じです。

July 24, 2010

かっこいいについて、二点ほど

・かっこいいの伝染
かっこいい、って、伝染するなーっていうこと。
例えば、F1でドライビングテクニックがかっこよくて、おおおかっこいいって思って、そしたらその人の顔も雰囲気も、特にかっこよくなくてもかっこよく見えてくる、ということがある(例:アロンソ)。
そうすると、ドライビングテクニック関係無しに、顔だけ似ている違う人もまたかっこよく見えて、もうそういう系統の顔はかっこいいっていうことに自分の中での価値観ができてしまう。(例:シャビ)
しかし、例えば顔がまずかっこよくて、その人のドライビングが微妙でも発言や言動が微妙でもかっこよく見えてくるかというとそれはなく、むしろその顔が微妙に思えてくる(例:バトン、ライコネン)。顔がいいと思って、なんて思ってしまう(いくらかっこよくても好きでそういう顔に生まれたのではないから、その人の責任ではない、勿論。所謂「かっこよく」生まれたくはなかったという人も沢山いると思う)。そっち方向の伝染は無いのだなと、思う。

で、シンデレラというコンビの畠山さんという芸人の人がとても好みのタイプなのだけど、その人の漫才を一度たりとも見たことはなく、その人が面白くないとか、言動が残念だとか、そういうのでかっこよく見えなくなってしまうことを恐れている(久々に見つけた逸材だから)。恐らく漫才ではあまり芽が出ないのだろう、幸いにしてテレビで放送されることはなく、今まで難を逃れている。というか、彼は漢字が得意ということを売りにしているので今のところ「Qさま!」と「平成教育学院」以外出演しないのである。ロザン宇治原とめっちゃ競合している。ところで宇治原が所属するところのロザンというコンビは、漫才は面白くないけれど勉強ができるので、「京大芸人」という本を出して売ったり、勉強のDVDを作ってある塾限定で見ることができるようにしているらしく、そのビジネスモデルは注目すべきところがある。
あ、脱線。


・かっこいいがかっこわるいを包む時
かっこわるい、というのの中にも、かっこいいかっこわるさ、というのがある気がする。
かっこいい負け方、とか、かっこわるいんだけどそれを敢えてやるところがかっこいい、とかそういう。
うわーかっこわるいなあ、けどそこがかっこいいなー。っていうことがあるじゃないですか。
何を見てそう思ったのか忘れてしまったのが悔しいけれど。演劇とかかな。
うちは三姉妹なのだけれど、姉妹にしてはあんまりキャピキャピしていない。余所のうちではもっとジャニーズの何とか君がどうのこうのとか、ポスターが貼られてるとか、あるらしい。で、うちはどうかというと、幸いポスターは貼られていなくて、下敷きやうちわもなくて、あるとすればmixiのtop写真がある時アロンソになっているとかそういうことくらいである。
で、ここ数年高校生の妹はラーメンズの小林賢太郎と野村萬斎が好きだったのだけれど、最近「戸次さんがかっこいい」と言い出した。戸次重幸さんという人らしい。誰?って思って、言われるままに写真を見たけれど、やはり知らない人だった。
で、その人の出ているドラマの予告編というか第0話というのを見せられたのだけど、とっても演劇人だった。この人はかっこわるい芝居をやるいわゆる三枚目で。
で、多分妹はこのかっこわるさに惹かれたのだろうなと思う。そんな感じ。劇団上がりの人にはなんだかそういうかっこよさがある。ちなみに妹は大森南朋も好きである。あの人はちょっとタイプが違うけど。あの人かっこいい役やりすぎである。


固有名詞が多めです。知らない人はスルーしてください。

July 22, 2010

やめるはひるのつき

沖縄は、先日スコールが続いたが、その後また炎天が続いている。
思わず「あお。」と言ってしまうほどの青さ。光が散乱。まぶしく光る強い青さ。
出勤は徒歩。

行く道では音楽を聴いている。blueばっかり聴いている。

蝉の鳴いている声や車の音、もしかすると肌のやける音が本来なら聞こえているのかもしれないけれど、それらがふっと遮断されて、ただただ静かな音楽が聴こえていて。
そうしてやけにその強く光る空とか、そこらに無造作に茂った雑草たちや、畑から飛び出している月桃の葉や、野生の薔薇、白く焼けたアスファルトの道路までもが、美しく見えて。
ふいに、音楽と景色が同期して、頭に流れ込んできて。映画のような。
いや、それよりも不思議な感覚。実際に腕に焼けるような熱さと汗と吹き抜ける風も同時に感じていて。脚は少しタイトなジーンズがしめつけるのを感じ、スニーカーの足の裏にも自分の体重を感じていて。
心がころころと音を立てるような。

音楽に本当に感謝するのはこういう時で。

本当に美しいものを感じたときは、人は泣きたくなるのだ。

ニシカワさんの最近のツイートに心打たれる。
「現実がつらい。というのも、3連休で完全に夢想現実に浸ってしまったから。仮想現実でも平行世界でもなく、夢想現実。たとえば音楽をききながら見る景色とか、たとえば写真を撮ろうとしてる時に見る風景とか。物理世界にいながら精神世界と同期している状態のことを、こういうのだ。いま決めた。」

物理世界にいながら精神世界と同期、だなんて。


話は変わって。

深夜にパソコンの前に座っていると、「いちめんのなのはな」という曲ばかりが頭の中をループする。有名な山村暮鳥の詩である。風景。純銀もざいく。思わず小6の子の教科書を見て「この詩いいよね!」とその子ばりのテンションで言ってしまった。
もはや良すぎて良さを説明する気になれない。感じてくれ。

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  風 景
     純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

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やめるはひるのつき。なのだけれど。
私は昼の月が好きで。夜の低い空で異様な赤みを帯びる化け物のような月も好きだし、高い空にひらめく細い下弦の月も好きだけれど、青い空に気づかれぬまま薄く白くただようような月も好きなのであり。
きっと昼の月に関する表現はいくらもあるのだろうけれど、この「やめるはひるのつき」はとても好きな表現。
尾崎放哉の「うそをついたやうな昼の月がある」という句もあって。
昼の月というのは、病んだり、うそをついたりしているようである。
まあ後者の場合「うそをついたやうな」は「月」にはかかっていないかもしれないけれど。でもまあそういう、うしろめたい気持ち。

昼の月っていうのは、夜にあるべきものが昼にあるということのかなしさ、みたいなものを象徴しているのかもしれない。
夜いきいきとするものたちに、昼のものたちは嫉妬するのかもしれない。夜はそれらは見えなくなってしまうから。そうして昼には昼の世界がある。

「昼の 部屋の中は ガラス窓の中に ゼリーのやうにかたまっている」

「これは カステーラのように明るい夜だ」

もしかして、ドイツ語などに男性名詞、女性名詞、中性名詞があるように、俳句に季語があるように、太宰が悲劇名詞と喜劇名詞を分ける遊びをしたように、昼名詞、夜名詞、暮名詞、明名詞などあるのかもしれぬ。
お弁当は朝か昼。ゼリーは昼。カステーラは昼下がり。グラスは夜。縁側は朝と昼。サッカーボールは夕方。とかそういう。

いつだったか、江國さんの文章に、朝用の音楽と昼用の音楽と夜用の音楽を厳密に分けている人がいるという話があって。自分で音楽を楽しむ分にはいいけれど、町に出ると混在しているから気持ちが悪いという話。

音楽は分けないけれど、でもどうしても記憶とひもづいている音楽は、そのシチュエーションに気分が持っていかれてしまう。

July 20, 2010

フェアネス

訳あって今日は夜中に国際通りを歩いたのだけれど。

東京のどの街より安心感があったのは、そこらを歩いている人々や路上に座り込んでいる人々がアウェイ感を持っていることが肌でわかり、そうして自分がそれほどのアウェイ感を持っていないこともわかったからで、そうしてアウェイでは人は滅多なことはしでかさないのかもしれないという一つの命題みたいなものが浮上してきたのだった。国際通りはぱっと見繁華街だけれど、その実はお土産品店通りなのである。今は。だからある一定の繁華街に見られるような犯罪の匂いがない。
座り込んでても少し心もとなげに道行く人を見る人たち。格好は派手だけれど、なんだか律儀というか。よそではよそ者のような顔をするなんて。

東京ではみんながある程度よそ者のような顔をしていて、ある程度自分の街みたいな顔をしていたような気がする。その雰囲気が私は確かに好きだった。排他的でない感じ。みんな同じ地平に立っている感じ。ルーツなんてどうでもよくて、集まってきたもの同士の同等な感じ。あなたがどこの出身であろうと、どういう地位にあろうと、どういう人生を送っていようと、関係ない、っていう。それはある意味でそれに関心を持たないという意味で冷たくも思えるが、それに干渉しない、それを理由に偏見を持たないという意味でフェアだと思う。私はフェアなことが好きだ。
東京出身の人も勿論いるけれど、そこは流石に品が良くて、「べらぼうめ、こちとら江戸っ子でい」とは言わない(少なくとも私の周りは)。


フェアであること、というのは私の中で結構重要なことである。
そういう価値観で育てられたということもあろうが、性格上そこに落ち着かないと決着がつかないように感じるので嫌、というのもある。
何がフェアで何がフェアでないのかは確かにわかりにくい。でも、ある場面場面で、この方法が一番フェアだと思う、というのがある。
先の東京の例で言えば、出身地がどこであろうと構わない、というのがフェアで。
今日の塾の小学生が二人、帰りにお菓子を選んだ時に、一つしかない飴を二人とも欲しがった際早い者勝ちというのは私の中でフェアではなくて(たまたま同じ飴を私が持っていたのでもう一人にあげた)。
有名な人が有名でない人に向かって威張るのもフェアではないし、学歴が高い人が低い人に威張るのもフェアではないし、地位が高い人が低い人に向かって威張るのもフェアではない。
もう少し進んで言えば、年上が年下に必要以上に威張るのもフェアではない。というか、年齢を理由に威張るのはフェアではない。

つまり何かを理由に優位に立ち、その優位を利用して、意思に反して他者を押さえつけたり利用したりすること、これらはみんなフェアではない。
その理由はほとんど全部が大したものではないからである。
出身地、有名無名、早い者勝ち、地位、年齢、それらはその人の人間性がいかに優れているかを示すものではありえないし、実際優れているかどうかというのは周りの人間が勝手に言うものであって、明日風が吹いたら変わるかもしれないような軽薄なものである。
そうして、そんなものの上に立って安心しちゃって他者に向かってアドバンテージを主張するようなことは、フェアじゃない上に滑稽である。

そうして、そういったものはほとんど、人間という存在のレベルではとるにたらないものだと思う。そんなもので人間が対等でなくなるのはそもそもおかしい、ということ。それぞれはそれぞれに人間なのであって、それぞれに同じだけの質量とか感情とか生命とかを持っている。そういうものを持った人間たちがそれぞれに自分の足で歩いている。話している。考えている。それだけである。


年齢だって、生まれる年を自分で選べるわけではないのだし、大正より明治に生まれた人の方が偉いなんてことは無いわけで。所与条件(最近好き)。

そういうことで、
「国というのは、生まれながらに付与されてしまう所与条件であり、そのような先天的な条件をベースに戦をするというのは、なんだかフェアではないような気がする。」
という原田和英氏の言葉にものすごい納得感を覚えるのである。
※参考:内在する戦争(いけいけどんどん)

経済再開しよ。

July 18, 2010

身長が高いということ

最近気づいたこと。

塾とかで誰かに
「高校生の○○君はかっこいいんですよ」
って説明したときはその後に
「(身長が)」
というのがついてる。

身長が高いと結構間違いないというか、一応かっこいいことが担保されるじゃないですか。多分。一般的に。コンセンサス得られるというか。3高っていうくらいだし。古い?普遍?

沖縄だからか、身長は高い方が良く見える(沖縄県民の平均身長は各都道府県中最も低い)。
※都道府県別平均身長一覧(17歳)
富山の171.8センチに比べ、沖縄は168.9センチ。しかしこれは平均なので、実際はたまに大きい人もいるが基本背は低めである、感覚では。
高校生の頃は、県内に身長が高い男子がいない、というのが周りの女子の嘆きであった。たまに、「私は自分より頭のいい人としか付き合いたくない、したがって県内にその相手はいない」という発言も聞いた(高校生というのはまったく)。まさに3高。


院の友人は、
「身長は、高ければ高いほどいい」
という名言を残している。この名言は、
「2メートルを超えても適用される」
らしい。
同意するかどうかは保留。


で、なぜ身長が高いとかっこいいとされるのだらう。と。
高収入、高学歴はわかる。つまり生活力。あとブランドか。
高身長はルックスということなのだと思うけれど。しかしルックスのよさというのは定性的というか個人により大分好みが偏る。ある一定の定量的な何か、として、身長というものを設定したのであろう。

で、なぜ身長が高いとかっこいいとされるのか。
「身長が高い=かっこいい」ということを所与のものとして考えるならば、「かっこいい」というのは、背が高いことで相手が得られる感覚、つまり尊敬とか、安心感がどうしても伴うものなのかもしれない。それで、身長が高いことがそれらにつながって、女性に好まれやすいとか。仮説。やはり目線がより上だと、より頼もしく思えるものかもしれない。目線が下だとどうしてもかわいく見えてしまう。
そうだとするならば、尊敬や安心感を身長以外の要素で高められる人は、別に高身長でなくても「かっこいい」とされると思う(実際身長が高くなくてもかっこいいとされてる人はたくさんいる)。し、逆もまた然り。


で、「自分より身長が高い女性が好み」という男性がたまにいるけれど、そういうことなのかしら、と思う。女性に尊敬や安心感を求めているのかしら、と。そんな気がする。
まあ一概には言えないけれど。そういう体型が単に好きというのもあるだろう。

で、糸満高校の宮国椋丞君が身長が高くてかっこよかったっていう話。

で、が多い。

伊坂幸太郎ファンって結構多いのだと思うのだけど、気を悪くしないでほしいというか気を悪くすると思うからごめんなさい。
「オー!ファーザー」読み始めてみた。妹が図書館で借りてくるから。
だめだ。無理。むーりー。

あの会話がだめだ。いらいらする。

で、他にも以前永い人に誰かの本を薦められたときに数ページ本を読んだんだけれど、男の子と女の子のからみで、幼馴染かなんかを起こしに行ったらその女の子が寝起きで抱きついてきて「・・・充電」とか言うので仕方なく僕はそのままになっていた、みたいな、みたいな。そういうシーンだったのだけど、というか多分ミステリだから後半もしかしたら面白いんだろうけど、でもそういうのこれから何回か出てくるんでしょ。ちりばめられてるんでしょ。

って思って、買わなかった(というか大概彼の薦めた本は買わなかった)。

伊坂氏の本は、結構勧められて読んだのだけれども。多分inoとかにも。
申し訳ないのだけれど、あんまり合わなかった。他の作品のなかでも会話が嫌いとかいうのではなくて。うーん。全体的な品というか、すごいでしょ的な雰囲気とか、気の利いた一言でしょ的な感じとか諸々。娯楽なんだからしょうがないけど、浅い。

同じ娯楽でも、私は横山秀夫とかの方が好きなのだ。そして多分東野圭吾とかの方が好きなのだ。村上春樹はもっと好きだ。だってあれば深いもの。まあ少し微妙な性描写あるけど。
で、いわゆる純文学ならばもっと好きだ。

森見登見彦もちょっとそういうとこがあって。
お友達パンチ、とか、もうこの要所要所でいらっとくる。

なんだろうなこのいらいらの正体。
軟派だから?ぶってるから?それが面白いと思ってるから?気が利いてると思ってるから?
いや気が利いてるのはいいんだよ。気が利いてないのに気が利いてると思い込んでるのがよくないんだ。
文学性がないから?人間考察が中途半端だから?物事を一面からしか捉えられてないから?
真面目じゃないから?

じゃあお前が書いてみろよって言うんでしょ。

July 16, 2010

詩へ

ジュンク堂に行ってきた。

今回は初めて詩の棚に行ってみたのだ。やはり初めて行く棚はよい。とても興味深い。
おそらくはNHKの先日の100年インタビューが影響しているのだろうけれど、谷川俊太郎がたくさんあったし、かつ「詩とは何か」的な本が結構あった。まあ谷川さんは今や一番知られた詩人だろうからそもそも多いとは思うのだけれど。
この人も詩を書いてるんだ、というのもあって。吉本隆明とか辻仁成なんかも詩集が出ていた。へええ。

そして、有名なものについては、初版本の装丁を再現した愛蔵版というのも出ていて。


「春と修羅」とか「二十億光年の孤独」とか「蛙」とか、普通にほしい。でも今フリーターだから買わない。
結局は岩波の草野新平詩集を買いました。元々草野新平を読みたいと思って詩の棚に行ったのだった。

実は谷川さんの詩を探していたときに見つけたブログがなんというか結構本格的詩ブログで、それまで詩のブログというと結構詩人さんのブログだったりしたのだけれど(なので詩的な文章とか詩それ自体が綴られている)、このブログは専ら解説に徹しているというか。しかもかなり長く続いているようで。
今まで詩というものをちゃんと説明されたことが無い(もしくは覚えてない)ものだから、この際ちゃんと読んでみようかしらなんて思ったのである。
詩についてある程度わかったら、味わい方も今みたいに雲をつかむような感じではなくなるのだろう。

でもな、なんだかんだで結局最初の端緒はNHK「にほんごであそぼ」な気がする。最初はなんて前衛的な番組だ、萬斎使うとかすごいな、と思っていたのだけど、あの、日本語を心に響かせる技術は素晴らしい。視覚にも、聴覚にも。いちめんのなのはな。
私は本で詩の勉強をする前に、早急に「にほんご」のDVDを買わなければならないのではないかとは思っている。

July 15, 2010

いいこと/現代文

何か些細なことで、いいことしたとき、あーいいことしたなあって気分になる自分の単純さが嫌いではないが、いいことした気になってる得意げな様子は気に入らぬ。それでなんだか複雑な気分になる。
いいことはいいことなのだけど、でも些細なことだけに、それって当たり前じゃない?っていうことでもあって、そんな些細なことを「いいこと」と認識している自分の甘さ、みたいな。
しかもそれが些細であることを認識しているだけに、誰かに「ねえねえこんなことがあったんだよ」って言えないから、内面でもやる。
でもね、単に自分という一人間が気分いいんだからよしとする。考えすぎはね、よくないよ、体に。

今日の現代文。(2回目くらい?)
今日は科学論2。科学論って言うか、まあ科学論のごく一部だ。問題なので2ページくらいしかない。
で、その文章の主題は、「科学者はあたまがよくなくてはならない。しかしその一方であたまがわるくなくてはならない。」。みたいな感じ。
科学者というのは理解できるとか、現象を整理して前に起こったことの情報を間違えないようにその後の情報を整理し結論を導き出すとかいう意味で、頭がよくなければならない。
しかし、その一方で、普通の頭の悪い人よりものわかりが良くないことが必要である。普通の人がとばしてしまうような点に疑問をもち、疑い、考えるような、物分りのよくない朴念仁(筆者はこの言葉を使っていた)でなければならない。

ほほーんと思いました。
このあとは科学者の資質につき、この「あたまがわるい」「あたまがいい」の軸でメリットデメリットいろいろ書いてあるのですけれど。

そこらへんが、頭がいい人の不幸とか、頭が悪い方が幸福、とか、頭がいいと思ってしまったばっかりに一つの答えを見つけるために苦労して思索することとか、的な話を前かいたと思うのですが、ゲーテを出してきて。
LINK!
よく覚えていないので、あと眠いので、また今度にします。


※追記
で、撮ってもらった写真は加工して粗くなったのでアイコンにしました。しかしこれも深夜の別人格がやったことかもしれず、昼間の人格に消される可能性十二分にあると思われます。すみません。夜中に自分でやっていることがよくわからないのです。

※追記2
やはり夜中はいけませんな。

July 13, 2010

出力と沈黙と

その時読んでいる本に文体が影響される、っていうのは結構ある。
あるよね。

今は太宰。
私はなぜだか、「グッドバイ」から先に読んでいた。
恥ずかしながら、私は読んだ本をあんまり覚えていない。覚えるようになったのは本当にここ数年、多分原田和英氏のブログに出会った頃なので2006年くらいだと思うのだが、その時期になってやっと、本を読んだら「おっ」っと思ったところをメモするとか、何度も読んでみるとか、それを素材に自分の考えたことを書くとか(つまりブログですね)、そういうことをするようになった。

先日、内田樹さんのブログでタイムリーにも池谷さんとの対談の話が書いてあったのだけれど(少し前のエントリで「海馬」が池谷さんと糸井さんの対談本で、という話を書いた)、関連する部分を引用する。

以下引用
-------------------------
スワヒリ語の単語40語を学習して、それから覚えたかどうかテストする。
という単純な実験である。
ただし、4グループにわけて、それぞれ違うやり方をする。
第一グループはテストをして、一つでも間違いがあれば、また40単語全部を学習し、40単語全部についてテストをする。
それを全問正解するまで続ける。
いちばん「まじめ」なグループである。
第二グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、40単語全部についてテストをする。
第三グループは、間違いがあれば、40単語全部を学習し、間違った単語についてだけテストをする。
第四グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、間違った単語についてだけテストをする。
これがいちばん「手抜き」なグループである。
全問正解に至るまでの時間はこの4グループに有意な差はなかった。
まじめにやっても、ずるこくやっても、どの勉強法をしても、結果は同じなのである。
ところが、それから数週間あいだを置いて、もう一度テストをしたら、劇的な差がついた。
「まじめ」グループの正解率は81%。「手抜き」グループの正解率は36%。
まあ、これは天網恢々粗にして漏らさずというやつである。
さて、問題は、第二グループと第三グループはどういうふうになったかである。
第二と第三はやったことがよく似ている。勉強に割いた時間も変わらない。にもかかわらず、大きな差がついた。
さて、どちらが正解率が高かったでしょう。
1分間考えてね。
第二グループの正解率は81%(「まじめ」グループと同率)。
第三グループの正解率は36%(「手抜き」グループと同率)。
これから何がわかるか。
「学習」は脳への入力である。
「テスト」は脳からの出力である。
つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
-------------------------
以上引用

つまり、出力でパフォーマンスが決まるということ。
こうしてブログにただただ書いていることも無駄ではないとどこかで思っていたところはあったが(つまり自分に対して)、ほほう、と思うではないか。
ほほう、出力かね。
(ここの物言いは江國香織の影響だろう。)

で、これを塾でもやれるかなーなんて考えちゃうところがまた少しあれなわけだけど(この辺の物言いはinoに影響されている)。


もひとつ、面白かった内田節を。
---------------------
入力過剰で、出力過少の学者たちは、そのわずかばかりの出力を「私はいかに大量の入力をしたか」「自分がいかに賢いか」ということを誇示するためにほぼ排他的に用いる傾向にある。
せっかくの賢さを「私は賢い」ということを証明するために投じてしまうというのは、ずいぶん無駄なことのように思えるが、そのことに気づくほどには賢くないというのがおそらく出力過少の病態なのであろう。
---------------------

使え!というやつだな。手を動かせ!動け!
私、インドア派なんでちょっと。おしゃべりでもないですし。ちょっと。
じゃなくてね。


出力の大切さはわかった一方、沈黙の価値もまた糸井さんにより語られる。

----------------------------
「沈黙」は、空っぽのことじゃない。
人が生きているかぎり、たえず生まれている感情や、
感覚や、発明や、発見や、思想や、
もっとわからないなにかの泉みたいなもの。

ことばの巧みな人間に、いかにも正当な取引として
なにかを迫られても、臆してはいけない。
誰もが「沈黙」をもって答えることができるからだ。
「断る理由を語ってください。そうでないとフェアでない」
と、ことばの巧みな人間は言うものですが、
あなたの沈黙こそが、答えなのだ。

どうすることもできなくなったときに、
「逃げる」という行為は、
「沈黙」の一種なのだろうか?
逃亡の末に、さらなる「沈黙」が生まれて、
やがてなにかが見えてくることもあるのだが。

「沈黙」は、実力行使と結びつくと暴力になる。
だから、「もの言う社会」で、
「沈黙」は危険視されやすいのではないか。

「黙っていたらわからない」と言われるたびに、
「黙っているじぶん」が否定されていく。
やがて、少しだけ「黙っていない」ようになって、
「沈黙」も大事にせず、「口下手」な人間ができあがる。

宇宙は「沈黙」している。
神も「沈黙」しているらしい。
「沈黙」は、沈黙以外を従えて、
無から無へと進んでいく。
---------------------------
「闇は光の母」みたい。
「闇は 私達を 愛している」のだ。

それで、卑近だが子どもと接することを考える。子どもの沈黙。その沈黙を尊重したいという気持ち。沈黙してると話は進まないのである。それでも子どもの沈黙に付き合いたいなと思ってしまう。最近の子どもは忙しいのであんまり一人ひとりと話す時間がない。今話しておかないといけないんじゃないか、今聞いてあげないといけないんじゃないか、今沈黙に付き合ってあげなきゃいけないんじゃないか、雄弁でなくたって、本当はハグしてあげたりとか、頭をなでてあげるとかした方がいいんじゃないか。
子どもの不思議な活力。生かすも殺すも回りの大人たちで、そして私はもう大人なのである。

うわ出力してたらこんな時間!もう力出ない。力石のように。まっしろにおやすみあれ。

July 12, 2010

週末

無人島って行った瞬間に無人島じゃなくなるなあ、と思って。

無って言った瞬間に無じゃなくなるのかしら、とも思って。
でもちょっと違うか。む。


そんなことしか考えなかった週末。
ただただ物言わず海を見ていた。

接待終わり。離島の海超きれいなのな。

July 10, 2010

読む速さと理解する速さ

小説というのは、読むスピードと頭で理解するスピードが丁度同じくらいになるように、設計されているのだなと実感するの巻。

まあ小説に限らず。どんな文章でもそうすると読みやすい。
今読んでいるのはまた太宰で。新潮文庫の「ヴィヨンの妻」を読んでいる。「トカトントン」を読み終わったところである。「トカトントン」あなおそろし。(先日手紙をくれた友人の分析によれば、私の送った手紙の語尾は、標準語80%、うちなーぐち12%、関西弁2%、中国語2%、土佐弁1%、古語3%、ちなみに体言止めは5%、だそうである。)

太宰はとてもとても読みやすい。おそらく意図して。ひっかかりがない。勿論少し昔だから、いったいなんだろうこの言葉は、っていうのが無きにしも非ずではあるけれど、まあでも全然ひっかからない。会話が多いし、語りかける文体が多いからか。
で、久々に糸井さんと池谷さんの対談の本「海馬」を読み返したのだけど、読みにくい。というか、読む速さと理解する速さが違うので、もたつく。
この本は、結構前、多分10年とか前に脳科学者の池谷さんと糸井さんが脳について対談していくという企画本で、割に面白かったりもする(読んだ時にコンサル辞めたばっかりだったのであんまり素直に面白がれなかったけど)。
対談なので読みやすい。話し言葉だから。で、会話としてすーっと入ってくるのに、その内容が急にちゃんと読まないとわからない話になったりする。畑の違う脳科学の話なのだから当然なのだけど。そうすると、読むスピードは速いのに、理解するスピードが急に減速したりして、目だけが字面を追って頭がついていかないということがまま起きる。その場合は目をたしなめて、戻るよ、と言い聞かせて戻り、字面をゆっくり追いながら理解が追いつくまで待たなきゃいけない。

で、「海馬」と「ヴィヨンの妻」を比べてみて、ああ小説ってそういう風にできてるんだなあと思った。

小説だって、わかりやすいものばかりではない。中島敦なんて最高にわかりにくい(私見)。けど、あれは読みやすくもない。だから、読むのも理解するのも大体同じスピードなのだ。もたもたするけれど、実感としてはじっくり読んでいる気になる。


結構ハウツー系の本とか、ビジネス書とかにもこの傾向がある、つまり、急に理解のスピードが減速して目だけ先走る。わかりやすく書こうとしてくれているから尚更、そうなるのだと思う。

そういう意味で、なんというか、法律書なんかは(他の学術書もそうだと思うけど)落ち着いてゆっくり読める。こちらとしても心構えがあるし、普通に読みにくいので。

永い人が速読法をやってたと聞いて、話を振ってみたことがあるのだけど(彼は勉強法の勉強に熱心なのだ)、法律書を読む時はじっくり読んで理解しなきゃいけないから使えないんですよ、と言っていた(確か。私は彼の発言をいつもちゃんと覚えられないのである)。
だよねーと思って速読法を取り入れるのはやめにした。つまんないし(まあ、しかし、速読というのはつまんない本を速く読んでしまうための術なのだと理解はしている)。

あ、そういえば永いさんでおもいだしたけど、彼玉泉洞という琉球観光スポットで大蛇に舐められまして。
説明すると、マングースとハブの(正確にはうみへび。「エラブー」という)水泳大会イベントの後に、大蛇と記念撮影していいですよーという時間があって、3mくらいあるでかいニシキヘビを肩からまわして手で持ってにっこりする、ということをしようと永い人にしきりに誘われ、怖がっていると思われるのも癪なので並んでやったのだけど、私が頭の方を持っていてにっこり写真に写ろうとしたら、蛇が何を思ったかこちらへ顔を向けてきて、永い人の手をチロチロと長い舌で舐めたらしい。それにびびってる瞬間が見事に収められていて、いい写真が撮れたので近々mixiにUPしよっかなーって思っている。ふふ。

しかし楽しかったなー。
二人で琉装までしちゃったので、撮った後、結納式か、とつっこんでおいた。でも初めて着たのでうれしくて帰って家族に見せたら、「父さんは許さんぞ!」と父が面白かったので「なんで?顔が大きいから!?顔の大きさで差別するの?!」と一緒にのっておいた。

今週末も実は別件で観光地めぐりをすることになっている。モテモテ王国。ゆらゆら帝国。ということにしておこう。実際お決まりのコースだ。

July 9, 2010

とっさのひとこと

昨日の文章はまったくわけわかめですな。
引用できればベストなんですが。

今日は7歳くらい年下の平成生まれの子に、「mogさんって何聴くんですか?」と聞かれて、えーとえーとなんだっけ何聞いてたっけ、相対性理論って言っちゃまずいか、くるり?くるりが無難?と思い、「くるりとかですかね」と言うと「あ、わかんない」と言われた。
「英語の人とか聴きますか」
「あ、聴きますね」
「誰ですか」
「うーん誰っていうか、Brian Enoとか?でも英語っていっても歌とか入ってないですよ」
「え、そうなんですか、楽器とか?」
「いや楽器っていうか、打ち込みというか電子音?」
「あ、そっち方面なんですねー」
「いやいろいろ聴くことは聴くんですけど」
「じゃあその誰でしたっけ、youtubeで聴いてみたいですー」
「いや多分つまんないですよ、仕事してた時疲れてて聴いてたんで」
的なしどろもどろで、最適解は何だったのかを今、考える。

一応無難なジュディマリとか浮かんだのだけど、解散してるし、この子20歳だから多分あんまり知らないだろうし、オザケンとか椎名林檎とか言ってもへえってなるだろうし、くるりだめだったし、そしたら多分アジカンとかACIDMANとかもだめでしょ、何、サカナクション?今風なのって誰?いきものがかりとか?AKB?しかし聴いたことないしな。嘘はいけん。
ジャズとかクラシックって言えばよかったのか?でも距離を感じそう。そもそも私のイメージが、ワインとか飲んでそう、らしい。飲んでない。けどむしろウイスキーですとも言えない。


でね、iPodの中身とかを覗いてみると、微妙で。微妙で雑多で、この人のは確実に追っかけてますというのがない。くるりとJUDY AND MARYと林檎さんくらいか。買い続けるモチベーションって私にとっては相当なのである、多分。

ああそういえば、タワレコ那覇店にくるり一味の手書きポップがあったので、つい「僕の住んでいた街」買ってしまった。くるり詩集も。ついでにクラムボンの「2010」。やくしまるえつこは悩んでやめた。今フリーターだし。しかし岸田繁は字が汚いよ。私の好きな人はなぜ字が汚いのかしら。私は字がきれいな方が好きだ。しかし好きになる人は字が汚い。いや、きれいな人もいたな一人。でも一人だけ。ていうか、男の人ってデフォルト字が汚いのか?

そういえば、「パンドラの匣」で「かるみ」ということについて書いてあった部分があって。かるみというのはとてもよいもので、芭蕉も晩年その境地に至ったのだとか。
そして授業で漢字ドリルをさせていて「軽妙」が出てきたところでほほーんとリンクしたわけである。いいね。

くるりにはね、これがある。全ての曲が「軽妙」というほど洗練されきっているわけじゃないけれど、それに近い。むしろ洗練されきってないところが良い。少しくぼんやりした不安げなところがありつつ、しかし風に吹かれて舞い上がるかろやかさ、空もある。わすれっちまうこともある。

だんだん聴きたくなってきたので終わり。
今度聞かれたら、LAVAとオスカー・ピーターソンとビル・エヴァンスとくるりとレイハラカミあたりをごちゃりと言おう。

July 8, 2010

二元論の功罪

人間が最初、喃語(乳児が発する「あーあー」などの声)とともに、手足をつかって言葉を表現するのに、言葉を習得した途端にそれが身体的特性を離れて、もっぱら理知的なものとして扱われるのは奇妙なことだ、という文章があった(前に何かのエントリで書いた)。

あれがどうしてかというと、というところで何が書いてあったか忘れてたのだが、今日授業があったので確認したところ、言葉というものが書いたとたんにテキストとして一人歩きを始めるというところにあるのではないか、というようなことが書いてあった。
つまり、遺産としてテキストを残せるというところに、人の身体を離れて言葉を遺せるというところにその理由がある、と。むしろそれで人間は言葉により他の動物より優位に立てたのだと。言葉が身体を離れてしまうと。

言葉が身体を離れてしまう、このことが、人間が発明した言葉というものなんだと。あるいは文字か。いわゆるテキスト。
この前の「世論とはそれを最終的に引き受ける人がいない意見のことである」という内田樹氏の言葉とリンクする。

この文章はこのあと、キリストの「聖書」がキリストという生身の人間を離れてそのテキストとしてひとり歩きし、そして古くなってしまったそのテキストを解釈するということがまず言葉を学習するということの手順になった、みたいな話になっていったような気がするのだけど、この辺で「パンドラの匣」を読んだので混ざっているかも知れぬ。
「パンドラの匣」では、キリストこそ最初の自由主義者であったのではなかろうか、という話が越後獅子によって嵐の夜に件の「健康道場」なる結核療養施設で行われるのだが、そこら辺もちょっと整理しておかねばならん。自由主義の下りは結構感心した気がする。


言葉がもっぱら理知的な、身体をおろそかにし、しかも身体を離れて一人歩きさせるということを、私は無責任なのかしら、と思ったりもする。

例えばブログの匿名性。
これなんかは自分の文章を誰のものとリンクできないように(しかし仮の名はあるわけだが)して、文章だけをひとり歩きさせている。むしろ文章ありきで、文章を読んでその書いた人を想像する、もしくはそれすらもしない。そこにはそういう文章を書くような人、という情報しか与えられていない(私はまあ名前自体は本名ついったーで出しているし早稲田だの沖縄だの院だの素性が知られる情報自体は読んでくれてる人ならわかるとは思うのだけど)。つまり、私は文責を負わない。

で、ついったーのbot。私はkotobanobotというbotを作ってつぶやかせているわけだけど、これらに収録された言葉達はもはやこの人にすら呟かれておらず、私という一個人の独断と偏見によりついったー上で紹介されているわけである。しかも140字というぶつ切りにされて。もはやひとり歩きというかなんというか。
わたしとしてはあまりにartなので紹介したくて紹介してるのだけれど、ぶつ切りにされた文章の本当の話者からはよくは思われておらぬかも知れぬ。文脈っていうのはあるし、それは文章全体を読まないと意図がわからないなんてことはたくさんある。で、だからこそ、私は切ってしまうのだろうと思う。そこだけを読むことが、想像力をかき立てるから。そこだけを読んでもわからないから抽象的になって、そのレベルでああそうか、ってことが起こるから。詩的なものを目指しているのかもしれない。

しかしついったーというもののRT。ひとり歩きも甚だしい。聞き手すら特定されていない。つまりそういうものなのだ、ついったーっていうのは。

でだ。ついったーは措いといて。
もう一個文章があって、デカルトの二元論の功罪を説いていた。つまりデカルトは身体的物質的世界と精神的霊魂的世界を分けてしまった。しかしそれはこの後の科学が発展する際に大きな功績があった。一方で、デカルトはそれらがまったく連動しないものであるという暗黙の了解を与えた。実際にはそれは違っていた。身体は精神に影響する、というか、精神の作用は身体の作用である。

この二元論の立場をだね、先の話に当てはめてみるとするならば、言葉が理知的な(精神的な)ものであって、身体的な世界とは別の世界にある、という考え方が出てくるわけだけど。
どうだろうか。実際そうなんだろうか。
理知的な言葉、口先だけを動かして話すこと、頭を使って言葉を駆使すること。
腹から声を出すこと。表情でも語りかけること。ハグをすること。
多分、言葉が上手になればなるほどなかなか触れ合わないんじゃないか。身体的とか精神的とかそんなん一緒くたにコミュニケーションとしていい気もする。

分けるとか無理無理思想があちらこちらで花開いている感じがする。無理だよ。
私はモラリストにもなりたくはない。

July 7, 2010

I was born.

今日高校国語の教科書で読んだ文章。
有名なのかもしれないけれど、授業中に漢文解かせてる間に初めて読んだ。

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I was born

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。
僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。 僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。

----------------------------------吉野弘「消息」(昭和32)所収


河童を思い出した。生まれてくる意志が生まれてくる子にある生物の話。
そして、I was born.ということがあるのと同時に I gave birth.があったのだということ。

生まれること、生きること、死ぬこと。それら一生命固体が負う宿命。それらの固体にとどまらず、連綿と続く種。生命。
「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。」

卵は生命のかなしみのメタファーである。
健気な、しかししぶとい、線と線とをつないでいくような使命感。ああ。そうか。

というメモ。

July 6, 2010

観光客について

昨日は大蛇に巻かれたり(ニシキヘビとの記念撮影)、躍動する若者に感銘を受けたり(エイサー演舞)、花笠持って顔の大きさを比べられたり(琉装で記念撮影)、所謂ココナッツジュースを実から飲んだり、これでもかというほど観光客然とした一日を満喫した。

私は一応沖縄出身なのだけど、いわゆる観光地にはあまり行かないし、詳しくもない。高校生までしかいなかった上に今も車の免許を持っていないので、生活圏内も狭い。だから、結構観光地なんかに行くと、へえーそうなんだーっていうことが沢山あるし、それはそれで感動する。

で、永い人なんかと一緒にいると、標準語なので私も観光客と思われいろいろ説明される。沖縄では紅型という染物があって、とか。そうですか、と言いながら小学校のとき図工でやったなあと思い出す。母の友人は紅型作家でよく作品もいただいているのだけれど。私は言葉も服も結構東京ナイズされているし、顔も沖縄っぽくない、と思う。

でも最初、観光客と思われることがどうも嫌だった。大学生の頃はさらなり。
私は地元の人間で、他所の人とは違うのだ、何にも知らなくてただ遊びに来ているわけじゃないのだ、沖縄県民として嫌な思いも味わったし戦争体験なんかをずっと語られて育ってきたのだ、という気持ちがあったのだろうと思う。ただ沖縄にリゾートしに来る人たちが阿呆らしく見えたし、客だからといって観光地で働く地元の人たちに偉そうにするのもやたら傲慢に見えたのかもしれない。

ただ、今は少しそういう感情が薄れてきている。
程度の差こそあれ、私も観光客だろうと思ったからだ。
座間味島にいったとき、それを思った。座間味とかそういう離島の人は、私達が沖縄の人と県外の人を分けているのと同じように、さらに本島の人とその島の人を分けている。本島から来た人間は、本土の人より近いけれど、結局観光客なのである。島のことを何も知らない。数日だけ辺鄙な離島の自然を楽しんで、便利な都会へ帰っていく。
こうなってくると、もう観光客というのがどこからなのかは程度問題になってくる。その土地に生まれれば現地の人なのか、育っていればいいのか、何年以上住めばいいのか、言葉が訛っていればいいのか、顔見知りならいいのか。

もうひとつ。
私は観光客という響きが否定的ニュアンスを含んでいることを知っていたし、自分の感情とそれを同化させていた。観光客というのは都合のいい人々であり、お金を出してその地域のいいところだけを体験し、わかったような気になってあちこちで吹聴してまわり、みんながみんな揃って同じような場所へ行き体験をし同じようなお土産を買っている、傍から見るとばかみたいだ、という。まあいつもそう思っていたわけじゃないけれど、極端に言えば。
誰かにそうやって表明したことは一度も無いけれど、言葉にするとするならこういうことになるのだろう。
そして自分も違う地方へ旅行して観光客になった場合には同じことが言えて、でも地元の人にそう思われることは恐れていた。ばかな一観光客にはあまりなりたくなかった。

でも、最近観光客として沖縄を歩いてわかるのだけど、観光客の人々は意外といい人たちなのである。ちゃんと挨拶をするし、ありがとう、というし、沖縄を純粋に楽しんでいるし、勉強熱心だ。私なんかよりずっと。ガイドブックを何冊も読み込んでいたり、琉球の歴史についてよく聴き入っていたり、目の前に現れた珍しいものを記憶に焼き付けようと食い入るように見たり写真を撮ったりしている。暑さすら楽しんでいる。沖縄っていいなあ、なんて言う。
それで、都会では日々忙殺されていたりするのだ。

それで私は、最近観光客に思われても、観光客然として楽しむようにしている。だって私だって何も知らない。一生懸命説明してくれる、接客してくれる人に、「私地元です」なんていってがっかりされたくもない。
それで、観光客です、みたいな顔をして歩いていく。来週も接待。

July 2, 2010

谷川俊太郎 100年インタビュー

谷川俊太郎の100年インタビューを見た、再放送で。
前半は結構見逃している。で、後半。一応ちょっと面白そうなことを言ってたので、メモる。ああ、ちゃんと見たらよかった。

一つは、宇宙的自己と社会的自己がいる、ということ。
この宇宙的自己というのはいかにも谷川さんらしいと思うのだけれど、つまり自然的自己とでもいうべきもの。おそらくは、物質的な意味での、動物的な意味での、生命体的な意味での、自己。
で、後者の社会的自己というのは、あくまで人間同士の社会、関係性の中でのみの自己。
この二つがいつもあって、それを意識している、とのこと。
彼の場合、結構宇宙好きっていうか、20億光年の孤独のときから宇宙詩人なわけで、そして今でも宇宙詩人(多分ね)なわけだけれど(インタビューの時も宇宙のっていうか惑星のイラストのTシャツにジーンズという格好であった)。

それにしても宇宙的自己かぁ、と私なんかは思う。私なら自然的自己と言う。それは、「宇宙」という言葉がもしかすると全てを包含していないかもしれないと思っているからである。宇宙の外があったらそこも含めたいのである。いや、宇宙の外のことにまで思いを馳せているというのではなくて、「宇宙」と言うことによって今そこにある身近にある、むしろ自分自身であるこの場を離れてしまうような気がするのだ。つまり、「宇宙」というと、まあここも含まれてはいるけれど、少し疎外されたような感じがする。向こうのほう、という感じ。逆に「自然」と言うと、この身近なところに軸足を置きつつ、この世界全体、人知の及ばないところまで全て「在る」もの、という感じがする。まあ言葉の感覚が違うという話なのだろうけど。
もしかすると、私の場合、宇宙<自然、だけど、彼の場合は、自然<宇宙、なのかもしれない。

余談。
昨日書こうと思ったはなし(現代文の問題文章)の一つには、この「言葉を定義すること」というのがあって、「科学的」というものをどれだけ厳密に設定することが出来るだろうかという話であった。言葉を定義したところで変遷するのだ、というような話。嗚呼、本当にそうだろうか。
私はおそらくは、ある言葉について定義をすることはできると思う。ただ、その定義の中身の定量的な部分が変化するのだと思う。まあ「科学的」という言葉については定義するのが難しいだろうということは思う(そもそも定義してfixしてしまおうという意志がないのだし)。そうそう、定義は固定なのだ、あるいは枠組みの固定なのだと思う。


で、インタビュー。
もう一つは、詩の力について。

詩というものについては二つの意味があって、ひとつは詩作品という形式のことを指している場合、もうひとつは詩情ということを指している場合。前者の意味での詩形式というものでの表現は、力として衰えているとは思う、しかし後者の意味での詩情というものは、もしかするといろいろなものに含まれていて、それはずっと存在し続けるのだろうと思う。という話。

私も、そうだろうなと思う。今どき詩作品というのはなかなか目にしない。あったとしてもベストセラーにはなかなかならなくて、小説なんかのほうがやはり娯楽としては満足を得やすいのだろうと思う。理解もしやすいし。
その一方で、詩情(彼は言い換えて、英吾で言うpoetryですが、と言った)については、いろいろなものに含まれていると思う。同意である。しかし詩情という言葉の曖昧さもまたある。詩情というのは、いわゆる詩的な情感ということであろう。詩的とは何ぞや。これもまた、詩を読むことにおいてしか理解できないものであろう。なんとなく言い得ている、なんとなく浪漫がある、なんとなく表現として暗喩的である、そういったもの。
そういう意味で村上春樹は小説家であると同時に詩人でもあると、私は思う。

詩のことをえらそうに書いたけれど、私はそんなに詩を読む方ではない。谷川さんの詩も、ちゃんと読んではいない。いくつか知っているのがあるというだけのことである。
他に読んだものといえば、宮沢賢治と尾形亀之助と草野心平と中原中也と、まあそのくらいである。
わけのわからない詩はわけのわからない小説よりも読むのが苦痛であるゆえ。


谷川さんは今回もいくつか詩を朗読していた。彼の特有の口調で。全く軽やかで素朴な読み方で。軽やかっていうのはとてもいいことだ。
彼の詩って結構突飛な感じもするのだけど、割と「ああ」っていう感じがする。納得感がある。おそらく、詩の面白みというものはこの納得感にあるのではないかしら、と思う。詩というものが元来わかりにくくできているために殊更。彼の詩はとても原始的というか根源的というか、ある意味あまり詩的でないというか。
私なんかは「朝のリレー」でふうんと思い、「20億光年の孤独」にぐっときたタイプである。今日朗読していた「私」という詩集の「さようなら」もよかった。
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もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥にとけよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう
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一部抜粋。

彼はもう83歳らしいのだが、上手く年をとりきれていないということを言っていた。昔の年寄りってもっと落ち着いていたし、構えがあったのだけど、自分は全然そうでない、と。それを良くないと思っている、と。
そうして、死というもの自体をあまり怖いと思っていない、と。例えば小さい時は母が死ぬのが怖かったし、そのあとは恋人、妻が死ぬのが怖い、というように、自分の愛する者が死ぬのが怖かったけれど、しかし自分が死ぬのは自分がいなくなってしまうということだから、あんまり怖くはないのだと。それに、向こう側に行ったらどうなるんだろうという興味もあるし、とのこと。まあその前に苦しかったり痛かったりするんだろうからそれは嫌なんだろうけど、と。今健康だから言える贅沢なことですね、と仰った。

ああ、そうだなあと思う。至極真っ当というか、正直だ。
私は私の愛する人が死ぬのが怖い。離れるのが怖い。自分が先に死ぬならそれは味わわないからいい。でもそれってかなり自分勝手なのだ。家族は悲しむのだから。

泥にとける、空に消えるのは、でもよかった。戻っていける。永遠に銀河の風に吹かれるわけだ。