May 29, 2010

家族

嘘をつくというのが苦手である。
というか面倒くさい。
一個嘘をつくとあっちでもこっちでも辻褄を合わせないといけないからで、そんな自信は到底ない。絶対ばれる、と思う。なので他の人にもあんまり嘘はつかない。で、多分みんなそうなんだろうと勝手に思っている。

一度、嘘をついて親を泣かせたことがあって、いや言葉通り本当に泣いてしまったのだけど、それから結構私は親に嘘がつけない。隠し事というか言っていないことは勿論あるけど、正面からばしっと嘘をつくことができない。嘘だけではなくて、失望させるかもしれないということをすることができない。これは自分の弱みだとすごく思う。

最近「親子という病」だかなんだかという文章(たしか香山リカ)を現代文の問題で読んで、軽く不快ではあったのだけど、よく言われるように、家族というのはどこの家庭でも特殊で、そこだけに通じる習慣なり雰囲気なり関係性というものがあり、社会とは別の規律というかそういうものがあるところだろうと私も思う。
そして内田樹がこう書いていた。

内田樹の研究室:父親のかなしみ

以下引用
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「母親」の仕事は子どもの基本的な生理的欲求を満たすこと(ご飯をきちんと食べさせる、着心地のよい服を着せる、さっぱりした暖かい布団に寝かせるなど)、子どもの非言語的「アラーム」をいちはやく受信すること、どんな場合でも子どもの味方をすること、この三点くらいである。
「父親」の仕事はもっと簡単。
「父親」の最終的な仕事は一つだけで、それは「子どもに乗り越えられる」ことである。
この男の支配下にいつまでもいたのでは自分の人生に「先」はない。この男の家を出て行かねば・・・と子どもに思わせればそれで「任務完了」である。
だから、「よい父親」というのがいわゆる「よい父親」ではないことが導かれる。
「ものわかりのよい父親」は実は「悪い父親」なのである。
否定しにくいから。
「愛情深い父親」もあまりよい父親ではない。
その人のもとを去りがたいから。
「頭のよい父親」はさらに悪い。
子どもと論争したときに、理路整然博引旁証で子どもを論破してしまうような父親はいない方がよほどましである。
それよりはやはり「あんなバカな父親のところにいたら、自分までバカになってしまう」というようなすっきりした気分にして子どもで家から出してやりたい(それについて文句を言ってはいけない。自分だって、そう言って親の家から出たのである。父親がそれほどバカではなかったことに気づくのはずっと後になってからのことである)。
------------------
以上引用


これはこれで一つの家族論であろうと思う。
うちはこうではないのである。
私はこの家族でよかったと心底おもっているし、家族全員それを公言するような家庭で、もしかすると傍から見れば気持ち悪いくらい仲がいい家族なのだけど、去りがたいということはかなり自分の弱みになっていると思う。居心地が良すぎる。それに、ここを離脱することが愛する者たちを切り離すことになるのではないか、と思ってしまう。私が嘘をついて親を泣かせた時のように、両親を悲しませるのではないかと思ってしまう。特に両親が体調を崩してなどいると、意識していなかった長子としての自覚みたいなものを感じてしまったりする。ある面から見れば足枷。
沖縄に生まれたことと、この家に生まれたことの意味というのを少し考える。例えば実家が埼玉とか神奈川とかあるいは京都とかであればまた状況は違うのだろうし、この家でなければまた違う(考えはじめると結構沈み込みそうでほどほどにしている)。

親が憎まれ役を演じる(演じる必要がある場合だけれど)というのは、必要かもしれない。
なんてことを思う。

May 27, 2010

傷つくということ

普天間問題の落としどころがだんだん見えてきたけれど。
TL上では沖縄クラスタが特に大きく反応していて。
私はコメントを控えた。
ここでも個人的な意見をいうつもりはなくて、というか意見はちゃんとできあがってないので言えないんだけど。
そういう意味でもつぶやくのは止した。

けど、もう一つ理由がある。
この手の話はどうしても感情的になってしまうので避けている。感情的というより、怒ってしまう。傷つくし、腹が立ってしまう。
他の話だと怒ったりすることはあまりない。エネルギー使うからね(省エネ)。それに大体相手の言い分も見えてるから、それもまあわかるよって半分くらい思っているので、怒ったりしない。怒った振りをすることはある。

でもこの手の話は若干見えなくなる。そもそもがごちゃごちゃなのだ。
議論の相手が誰なのかとか、誰が悪いのかとか、いつからのことを言ってるのかとか。
沖縄だけ占領下に置かれた時、第二次世界大戦の沖縄戦の時、琉球侵攻の時から、日本本土への恨み言は続く。
悪いのは米軍だったりアメリカ政府だったり日本政府だったり県内の一部の人たちだったり、する。
語り手は土地を取られた反戦地主であったり、家族を殺されたおばあであったり、復帰の時少年少女であった中高年の人々であったり、日米安保闘争に加わった人々であったり、普天間に住んでる人やヘリが落ちた大学の人だったりする。
じゃあどうすればいいのか、という段になれば、もはやプレイヤーは世界中であって。


自分でもちゃんとした答えは出せていないくせに、小さい頃からの刷り込みだろうか、この手の話では結構傷つく。
沖縄がそのまま我慢すればいいじゃん、というのはもしかしたら一番合理的かもしれないのに、それを言われるのは傷つく。
米軍みんながレイプ犯だったら出て行けって言うのもわかるけどそうじゃないんだから、そんな問題取り上げてたら基地の問題は議論できない、というツイートがあって、それも無条件に傷つく。
正しさとかは問題じゃない。もしかしたらもっともな意見なのかもしれないけれど、それを考える前にまず傷つく。という話。でも傷つくから発言するなとはいえない。冷静に考えれば、それは分けて考えるべき問題なのかもしれないし(今のところそうは思ってないけれど)。


ああこんなにもちゃんと傷つける話題がある、と思う。
厳密に言えば他人事なのに。


で、特についったーなのだけど、そういう情報をあえてシャットアウトするということについて迷う。
これを良しとしない、つまりあえてそういう意見も読むべきだ、というのが多分素直な気持ちで。
でも私は「~するべきだ」なんてばかげている、とも思いつつもあり。
内田先生は危険を察知するにはストレス・騒音の中にいてはいけない、というし。

多分他の話題であれば、その意見の多様性に触れながら生きていてもそんなにストレスはないのだと思う。だから今後も特にシャットアウトしないと思う。
華麗にスルーのスキル、だな。
ただ、傷つくことができるということは、あんまり傷つかない今、大事なことのようにも思えてしまうのだ。


追記:
「多様な意見」にじゃなくて「意見の多様性」に触れるってとこが無意識に自分の立ち位置を表したような気がしたメモ。
沖縄に生まれたということを少し考えている。

May 22, 2010

完結した自己

たまに、勉強している。
私は法学部で法務研卒なのに、いわゆる政経が全然できていない。やったことはあると思うのだが、もはや12年くらい前の話で、受験科目でもないので、とかいう言い訳。ていうかそのくらいは自分で勉強してしかるべきである。大人ってのはそういうもんだ、多分。
覚えているのは「チェック・アンド・バランス」という言葉を担任が好きだと踏んで正解したクラスメイトの観察眼、くらいだ。

それで、このブログで書いているようなこと、つまり私の「こうなんじゃないかなー」という思いつきがそのまま政経の資料集に載っていたりする。なんだ習ってんじゃん、である。
それはそれで自分で辿り着いているので、まあ同じ考えの人がいたということである程度の自信にはなる(多分)のだけど。たとえば社会契約説なんか、ちゃんとやっていなくて(これはでも結構致命的というか、水曜日のスペル何だっけ、レベルだと思う)、自分で「国家ってそういうもんなんでしょ」って思ってたようなところがあって、でも教科書にはちゃんと書いてあって。
でも結構、そういう詰め込み方の勉強は、理解して頭に入れたようであっても、文字面だけ頭に入ってて中身は入ってない(浅い)ということがままある。というか私の場合そんなのばっかりである。だから、後追いでもう一回実感を伴って理解しないと全然意味が無い。それを今やってる。人生まわり道である。二度手間yeah。


ついさっき、池田信夫氏のブログを見た。
いつもはツイートはスルーしてるんだけど、ブログのタイトルが「自己という幻想」だったので、つい読んでしまったのだった。
ちなみに私は彼のことをよく存じ上げない。勝間氏にかみついたひと、くらいの認識しかない。すみません。
ただ、この文章だけを読むに、論理展開がかなり雑。当然~である、当たり前、等々がめっちゃ出てくるけど、検証はされていない又はかなり不十分(いつかやったことがあるのかもしれんけど、やったならリンクとか貼ってほしい)。
そもそも当然とか自明とか、検証が必要なものについての真面目な文章の中でのこの手の言い回しが私は好きじゃない。そういうのを言っていいのは真面目に検証してからだし、真面目に検証した時点で当然とか当たり前って言葉は使わんと思う。だって検証してるから。こういう言葉ははしょる時に使う不親切文句である。
まあ時間無いんだろうけどね。


池田信夫blog:「自己」という幻想
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51423906.html

----------------以下引用

これは進化論的に考えても当然だ。人間を含む霊長類の生活単位は個体ではなく、数十人の個体群である。特に人間の個体群では分業が発達しているので、あなたが一人で山の中に放置されたら、1ヶ月も生きていけないだろう。したがって脳が社会的につながっているのは当然で、これを著者はソーシャル・ブレインズと呼ぶ。

脳が相互作用するとき、重要なのは認知コストである。脳の重さは体重の2%程度だが、基礎代謝の20%を消費する。これは脳内の膨大な毛細血管に血液を送っているためだが、人間の脳の重さはチンパンジーの4倍なのに血流量は2倍しかないので、エネルギー供給はぎりぎりだ。したがって脳はなるべく新しい行動を起こさないで、習慣に従って認知コストを節約しようとする。人々が互いにこのような保守的行動をとると、規範ができて行動パターンが決まる。

歴史的にも、自己完結的な自我という概念は、近代西欧(とその影響を受けた文明圏)にしかみられない特殊な意識である。ただ個体群が安定せず、不特定多数と相互作用しなければならない社会では、個人をモナド的な主体とみなして「自己責任」で行動させ、財産権によって彼の自由を守る制度が効率的である。経済学の前提している「合理的個人」とは、このような便宜的な制度にもとづいたフィクションであり、それを自明の前提とした消費者行動理論が実証に耐えないのは当たり前だ。


----------------以上引用


結構どの段落も首肯しがたいところがあるけれど。つながらん。
でも最後の経済学の問題点は、たしかにそこらへん関係あるかもなとは思う。合理的個人とかありえない気がする。


で。
「自己」という完結したものは幻想である、という話。つまり完結していない、という話。
自己と他者は分けられるものではない、みたいな。この話自体はとても興味がある。

このブログの記事自体は、ソーシャルブレインズの本の紹介である。

ソーシャルブレインズってそういう話だったんだ、と思う(全然読んだことはない)。
ミラーニューロン云々の話なんかは、それでも「自己」内の話のような気がする。ラバーハンド実験(自分の腕とゴムでできた腕に同時に刺激を与えるようにしてたら、ゴムの腕だけに刺激を与えた時でも刺激を感じるようになるって話)なんかは確かに触覚と視覚が替わっただけで刺激の他者性がなくなったようにも見えるんだけれど。でも見なかったらわかんないよねと。
えーと、視覚と触覚はどう違うのか?
接触の有無だな。遠隔のものも感知できるのが視覚、できないのが触覚。そういう意味では聴覚、嗅覚も遠隔知覚が可能だから、ある程度の範囲については他者性が無くなりうるのかしら。(でもほんとは、どの感覚器官も接触しないと感知できない。目は光、耳は音波、鼻は何だ、匂い分子かなんか。)

上手く説明できないけど、自分の中での「自己」と「他者」の区別の話って、この知覚の話ではなくて。じゃあ何なのかと言われると難しい。概念的な問題だろうか。
私は勿論「自己」を完結したものとして普段生活している。でも、もしかしたら何かしらの方法で他者とはつながっているのかもしれない、という意識がある。期待のようなもの。それは私が他者の様子を見て認識するというものではなくて。という話。あるいは宗教の話になるのかもしれん。


ペンディング。

May 21, 2010

言い訳

よく私は「フツカヨイの文章」という言い訳をする。これは安吾の言い方を真似たものだけど、安吾の言うところのものではない。
なぜなら、私がこの言い訳を使う時は、酔っているから。フツカヨイの状態ってのは、もう酔ってない。多分。飲みすぎたーっていう後悔はあるけど、酔ってはいない。

眠れないので睡眠導入剤というのを服用するのだけど、それが酔う。私は、お酒では自制が結構はたらく。自制がききすぎて、お酒に強いと思われている(本当はあんまり強くない。普通だ)。けど、この眠剤だと自制がはたらかない。どのくらいかというと、べろんべろんである。傍から見たことはないけれど、多分べろんべろんになってると思う。だって深夜のツイート意味分からんもん。ちなみに今はまだ服用してないから素面である。

眠れないと暇なので、酔ったままついついったーでつぶやいてしまう。それでも満足できないと、酔ったままブログを更新するという暴挙に出る。本当は深夜徘徊したいけど、危ないので(そこは酔っても慎重派らしい)やらない。
よく、酔って記憶をなくすっていう話を聞くけど、私はお酒に酔って記憶をなくしたことはない。なのに、この眠剤に関しては記憶がなくなる。うっすらあるけど何かの形跡を見ないと思い出せない。Tさんが携帯の発信履歴と財布の中身の減り具合を確認して昨夜の自分の行動を推測するのと同じで。
なので、朝起きて自分のブログが更新されているのを見ると、まじで深夜にこびとさんが靴を作ってくれてたみたいな感じなのだ。ほんとにびっくりする。それでいてブログに関しては一応文章の体をなしているので、二重人格か何かかと思う(まあお酒でそういう経験をしてなかっただけのことなんだけど)。

でも結構ね、感動する。あ、更新されてる!って感じである。
何事も、経験するのはいいことだ(つまり記憶をなくすということを)。

そういうわけなので、すみません。

May 20, 2010

リンク

最終更新2011.12.7

久々にリンクも更新してみましょうそうしましょう。いろいろあったなあ。大きなサイトが無くなり、そして他のサイトがブログで復活していたり。そんなわけで、以下勝手に紹介してしまう。(文章はあくまで主観です。)


* 日記とか雑記とかそういう感じの
 applechan!!の移行先ブログ。社会人になられたご様子で、前ほどではないですが、ときどき更新されます。ゆるい文体、ポリシーめいたもの、意外な点を深掘る深掘る、わざとらしいくらい簡単にしてくれた言葉、しかし中身はキレキレ、ととにかく人をひきつける文章です。ほんと、キレキレです。なんでだろうなーっていう疑問と、それに対する答えをどんどん自分で考えて肉付けしていく様なんかとっても合理的なのに文学的。


* ESCAPE WHILE YOU CAN
 ソニー君です。inoです。最近女の子の父親になったようで、「さらこだま」などの新語が登場しています。パパになったってinoだなあと思います。だっこしながら展示鑑賞。


* raw records
 少し投げやりな感じと真面目さの同居した文章で、ロックな感じです。暴言がすがすがしいです。断定も迷いもすがすがしいです。オコメ富士さんというお名前です。ネーミングセンスにも惹かれます。汚泥の何かしらを研究なさっているようです。頻出:汚泥、ベガルタ、研究室。最近エントリにあたたかみを感じつつあります。


* SPOTWRITE
 ニシカワヒロシさんのブログ。もう一つのテキストサイト「Revolution 1」の文章にも素晴らしいものがあるのですが、こっちはブログであります。結婚してさらに思うのですが、本当の意味で言葉が通じる人です。感動屋で、表現に労を惜しまない。空気感や手ざわりをとことん大事にする人。


* あんたの神じゃない
 ともさんのサイトだったのですが、閉鎖されてしまいました。サイトっていうのは、場なんだなと心から思えるサイトでした。ともさんが元気かどうか知るためにはもはやダイレクトにコンタクトをとるしか手段がないようです。あ、私は、サイトを続けるのもやめるのも自由だと思っています。


* いけいけどんどん
 いちファン的にリンクしているサイトです。かなり影響を受けました。語り口、深掘りしつつも身軽な展開の仕方、いくらでも出てくる本の引用や国々の体験談、言葉。こういう人には追いつけないなと思った。感性もすてき。「国をつくる」などなど面白そうなことを考えてらっしゃいます。


* ひとりしばい
 「あん神」つながりでお見かけした哲学をされている学生さん、かかずらさんのブログです。最近はあまり更新されませんが、文章はストイックなイメージです。厳しいです。逃げ道を封鎖されて行くような緊密な感じ。詰められます。それを読んで襟を正したり、あるいはえぐられるような気持ちにすらなるときも。きっとあらゆることに丁寧なひと。


* 名文迷文
 大学時代のゼミ友FJBのブログです。シンガポールでの勤務を終えて東京に帰ってきたけどあいかわらずいそがしいのかなー。特にこれといって連絡も更新も追っていませんが、元気なんじゃないかなーと思う。

井戸の底 緑色のテクスチャ
 おーん宅人さんこと、ちあこさんのブログ。煙草とお酒のロックなイメージだったけれど、お会いしてみたらふんわり。とても可愛らしいひとです。まだあんまりお話できてないのですが、すごく深そう。


追記:
好き勝手に書きました、すみません。
何かありましたらご連絡ください。

May 19, 2010

欠性態

「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。
-----------------内田樹

これは「言葉を用いる力」という意味の場合なのだけど(たぶん)。

どれだけ言葉を知っているか、とか、どれだけ言葉をリンクさせられるか、とか、どれだけ適切な表現をできるか、とか、そういうものものの裏に、この能力があることが、それらのスキルを上げる力なのだということなのかな、と理解。

欠落に主眼を置くというのはあるなと思った、とツイートしたけれど、欠落に主眼を置いているというよりは、深掘りしているだけなのかもしれないなと今は思う。

つまり、足りないと思う、ということ。
これは「学力」の理解に関しても同じことで、内田さんはこの文章の前の段落で学力についてもこう書いている。

以下引用

--------------------

「学力」も同じである。
ほとんどの人はこれを「成績」と同義語で、点数化し、優劣を比較できるものと思っている。
けれども、学力とは文字通り「学ぶ力」のことである。
それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもあるが本来はかたちを持たないものだ。
というのは、「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できること」、「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」、「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」といった一連の能力のことだからだ。
これらの力は成果や達成では示されない。
学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。
何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶのである。
「おのれの未熟の自覚」、「ある種の知識や技能についての欠落感」、「師に承認されたいという欲望」といったものは存在するとは別の仕方で私たちの生き方に深い影響を及ぼすのである。
「学ぶ力」は欠性的にしか存在しない。

-------------------
以上引用


で、さらにこう続く。


以下引用
-------------------
だが、それを励起し、支援し、開発するための実践的プログラムはもちろん存在する。
経験を積んだ教師はそのことを知っている。
悪い方の例だけを挙げるが、例えば「成績が悪いと社会下層に格付けされる」という恐怖心は学習の動機づけとして間違いなく有用である。
この「恐怖心」は実際には「未来において自分が失うかもしれないものについての欠落感の先取り」という複雑な心理操作を子どもに要求している。
そして、経験が教えるのは、恐怖心の強い子どもほど高い確率で「ガリ勉」になるということである。
この子どもの「学ぶ力」の中核にあるのは「恐怖心」である。
「先取りされた喪失感」もまたある種の欠性態であることに違いはない。ただ、それは同学齢集団内の競争で相対優位をめざす以上の目標を持たない。
だから、「恐怖心の強い子ども」は自分の成績を向上させるのと同じ努力を(場合によってはそれ以上の努力を)競争相手の成績を下げるためにも注ぐことになる。
私はそのような努力を「学ぶ力」とは呼びたくない。
----------------------
以上引用


これはそうだな、と思う。しかしともすれば言ってしまいそうなことでもある。このままじゃ高校にいけない、とか。まあ、塾で。

競争心に結びつける、というのもあると思う。これはいわゆる欠性態なのだろうか。
私の中にこれがなかったとはいえない。積極的にけしかけられた覚えは無いけれど、順位を出すというそのこと自体がもうそれなのかもしれない。

最近接して思うことは、子どもってかなりピュアである。こんなことで嬉しそうにするんだ、とか、嬉しさをこんなに素直に顔に出すんだ、とか、感動すらおぼえる。

大学生の頃とちがってちゃんと大人目線な自分にも結構おどろく。いつの間に。

May 18, 2010

動物は、やせる

脈が速いということは前からお伝えしておりましたが、良くなる気配もなく、速い脈のまま暮らしています。毎日がどきどきです。心臓がどきどきしていると、精神的にもどきどきしているような気分になるから不思議。心と体はつながっている。常時つり橋効果が期待できるのに、周りにいるのは子どもばかり。まるで大人のような顔をして仕事をしています。


最近生物の教科書で見た文。
「交感神経優位になると、動物は、やせる。」
ああ自分動物だったなと思った。

何かしらの原因で、そういう風になってしまっているようだ。どういう作用が起こってて今こうなってるのかという説明はいろんなところで読むことができるのだけど、それをどうやって治せばいいのかというのはいまいち。

で、何故痩せるのかというと、本曰く、たんぱく質の分解が早く進むためとのこと。
この他胃弱も進む。胃腸の働きが鈍るのだとか。昨日(控えめに)食べたカップ焼きそば半分が胃に大きな打撃を与え、そのショックから今だ立ち直れない(胃が)。お粥(おかゆ)。そういえば民法に小粥先生っていたなあ(こがゆ)。名前小粥なのにキレキレと評判だった。

摂取のスピードと量が制限されてるのに、たんぱく質分解のスピードが速いとか、困るんですよねそういうの。

京都の大学生、じゃなかった医者の人、巴里ジェンヌになってないで、メールとかで何かアドバイスください。

May 16, 2010

「すこやか」ということ

書くといったんだから書いてしまう。

江國香織の「ホリー・ガーデン」という作品がある。私はこの作品が好きで、もしかすると一番好きな作品かもしれない。最近の江國作品は実は読んでいない(がらくたとか。)。
「ホリー・ガーデン」を読んだのは確か大学1年の時で、その当時はそんなに好きじゃあなかった。それはいろんなことが理解できなかったからだ。つまり話の筋は追えるとしても実感を伴う「腑に落ちる感じ」がなかった。それは江國作品では理解できないのとおんなじことだ。

で、その作品の中に、こういう下りが出てくる。

「『あやしい』というのがどういうことなのか、誰も知らないなんて不健全だ、と思った。不健全。そうだ、ほんとうに世の中は不健全だ。」

それから、こういうのも。

「『忘れっぽいっていうのはすこやかなことだよ。』」

私はどっちも共感するわけだけど。


「すこやか」というのは江國さんがまあまあ使う表現で、必ずひらがなで書かれている。そのセンスを私は好きである。それで私もたまに使わせてもらう。
単純さ、のびやかさ、凝り固まっていない感じ。自然体。割といいイメージだ。正の方向。すこし、小ばかにしているかもしれない。単純だなあ、という風に。
で、すこやかってどういうことだろうと思う。

あることが「すこやか」であるとしたら、そのあることを突き詰めることが尚「すこやか」か、というとそれは「すこやか」ではない、と思う。突き詰めるということがすなわち病的であるからだ。
たとえば、「忘れっぽい」ということが「すこやか」であるとして、「忘れようとすること」は「すこやか」じゃないと思うということ。そこに人為的な当為的な、つまり「~すべきだ」というような意志が加わったところで、自然体ではない。「すこやか」であろうとすればするほどに、遠ざかってしまう。「すこやかさ」というのは志向できないと思う。
自分が自分に素直に生きやすくしようとすればするほどに、また、自分の善の意識に忠実になろうと思うほどに、ぎくしゃくしてしまう。病的になってしまう。考えれば考えるほど「すこやかさ」から遠ざかる。もしかするとそれを一番に求めているかもしれないのに。


関連して「健全」ということ。
どのくらいの人が共感してくれるのかはわからないけど、健全という言葉自体がもう不健全な感じがする。
健全というのはいわゆる「社会一般から見て」健全、という文脈で使われている気がして、それはつまり「偏見」とか「常識」とかそういった固定されて押し付けられた、小さい頃から学校やテレビで刷り込まれた概念に従順に従っているようで、それは不自然だと思うわけで。
という考え方すらも今まで読んできた文章が「健全」という言葉を皮肉る文脈で使っていたから、という刷り込みなのかもしれないと思うと堂々巡りだけど、この際措く。

そういう私の理解からすると、「健全」という言葉は「不健全」という使われ方をする限りにおいて肯定される。


この作品は数ある共感できる作品の中でも、一番共感できるような気がする。できてしまう。それは嬉しさでもないし悲嘆でもない。でもどちらかといえば後者に近い。

「いったん所有したものは失う危険があるけれど(果歩はそれを、身をもって学んだ)、所有していないものを失うはずがないではないか。だからこそ一切所有しないで暮してきたのだし、ともかく自分がいま中野を失うはずはない、と、できる限りの理屈をかきあつめて果歩は思った。」

この所有しないというのは(言い方の是非はともかく)、多分今の私のスタンスであるし、そしてそのスタンスがこういう事態を処理しきれないだろうということもまた、この文章で明らかにされる。
大学1年でこんなのわかるわけない。でも、同じ大学1年のときにすでにこれを一番好きな江國作品だと挙げていた同じサークルだった子と、今ならもっと語れるかもしれないのにと思う(この子は1年でサークルからフェードアウトしてしまった)。江國作品のどれどれを好き、というのは(他の作者でもありうるけれど)、ある種の告白・暴露であると思う。
と、大学1年の頃を思い返す。あの頃はもっと「すこやか」だったのにな、と思う。キャンバスは塗られたら白には戻せない。

May 14, 2010

bot作成メモ

昨日はbotのメンテナンスにいちにち使ってしまった。
というのも、昨日からbotのwebサービス(http://twittbot.net/)がメンテナンスをしていて、その後ダウンしていて。サーバーの負荷が大きいらしく、新規の利用はできなくなっている。
で、安定させるためにはそこに依存しない方がいいかなと思ったのだ。思っちゃったのだ。それにそこのサービスだと、新しく入れた言葉を何度か繰り返してpostしてしまうので、ちょっと心証としてよくなかったというのもある。

それで悪戦苦闘の末、親切なサイトのおかげでちゃんとできました。以下作業メモ。


ブログとかは基本的にはサービス利用すればいいし、他のwebサービスはいわゆる利用者側に立ってれば楽だし何の知識も要らないから、HTMLを大学の1年で授業でやった以来ノータッチなわけで。
そもそも用語がわからん(cron?)。言語もわからん(php?)。プログラミングとかできない。


そこで、easybotter(http://pha22.net/twitterbot/)というスクリプトをを親切な人が配信していたので、それを使わせてもらってプログラムの部分についてはクリア。文句集を移管。ここのサイトに最終段階までの道筋は書いてある。ほんとにみんなすごいよね。えらいよ。無料だもの。

適当に無料レンタルサーバーでphp使えるところを探す。(@PAGES:http://atpages.jp/

そこにFFFTP(http://www.vector.co.jp/soft/win95/net/se061839.html)でup。

で、そのweb上のファイルにアクセスすることでtwitterに投稿されるという仕組みなので、手動でもいいのだけど、定期的に(1時間に1回とか)というのは無理なので自動でアクセスしてもらえるcronってのが必要だとか。これはそのサーバーの機能にはついていない。ので、Google App Engine(GAE)ってのを使う。なんか開発者向けの何かしららしいということしかわからない。
参考にしたのはここ。:Google App Engine(GAE)でcron動かすやり方をゆとり向けにまとめてみた

GAE登録して、EclipseっていうソフトDLしてそれでスクリプト書いて(コピペ)、cronの設定。そのあとはGAEに上げて(デプロイっていうらしい)、動作確認して終了。めでたし。

May 11, 2010

PDCA

今に始まったことではないが、私には定期的に振り返りをする癖というかそういうのがある。ある一定の時期は目の前のことで精一杯だけど、人生そんな時ばかりではない(サンプル数:1(私))。
そういうわけで、何かしらひと段落ついたときとか、ひまーなときとかに、引いて見てみるということをする。俯瞰。鳥瞰。あ、飛んだ。

そうしてこの癖にしたがい、最近の自分を見てみたというわけである。

で、時間が経つにつれて、引く距離(飛ぶ高さ)というのが長くなるなあということ。
それは生きた長さが長くなるのだから当然なんだけれども、イメージ的にはGoogle mapで広域になっていくようなイメージ。
かつ、最初は直線なのに、少し経つと平面になり、更に立体になるという感じで。


最初は混沌の海の中にある。乳幼児期。時間の流れとか、これから先とかをあんまり考えなかった時代。光景、音、匂い、そういう刹那的なものの混ざり合いでできている時代。

気がつくと、ある直線が見えてくる。直線上を生きている。というかそこまでしか見えない。そこまでしかカメラが引けない(カメラ?)。段々その直線が長くのびていく。よく比喩的に使われるのは線路であるが、まあそんなもの。

あるところで、岐路というものがあることに気づく。そこで平面での認識になる。自分がどのあたりに位置しているかというのが平面上のある一点で認識されるようになる。一緒にいた人が平面上の別の場所に位置しているのが見える。

そのうち、平面ですらなくなって。他の軸が見えてくる。立体的に自分の位置を把握する。年齢的に分野的に内面的に、遠くの人も見えるようになる。

で、最近。
私は凡人なので4次元以上のイメージはできないわけだけれど、立体以上に複雑化してきて、軸だらけというか、むしろ軸がなくなるというか、そういう感じになって。

最初は沖縄に引っ込んだとき、ある座標軸からぽつねんと離れたような感覚でいた。東京あるいは大阪、本州の都市圏がメインストリームで、そこから離れたところで静養する、というような。で、いずれはまたそこへ戻るものだと思っていた。支流が本流に合流するように。
で、私の進むべき道は法曹であるべきだという思いがあったので、法曹になるという軸から今どのくらいの距離にいるのかというような感覚で自分の位置を認識していた。それが遠ければ焦ったし、寂しかった。
だけれど、ここ最近そういう位置把握が、違うなと感じるようになって。勿論その法曹軸からの距離を測ることは可能で(まあ大雑把でも)、それに意味が無いわけではないけれど、それ以外の軸が自分のすぐ脇を通っているような気がしたりする。し、もしくはその軸自体が錯覚で、軸なんて無いのかもしれないと思う。だだっ広い空間だけ。もしくはただの点。

なんか、最近、星みたいだなあなんて思ったりする。宇宙のこと考えすぎて。
木星も土星もアルタイルも競ったりしないしどっちが優れているということもない。どっちが先んじていてどっちが遅れているとか、上とか下とか、そういう軸は無い。爆発して死んだり、燃えたり、生まれたりする。ぶつかって互いの中身を分け合ったりとかね。

で、まあ、結局混沌の海に帰するのかもしれない。
ドラえもんのポケットって胎内回帰願望かしら、っていうセリフが、カンガルー日和/村上春樹、にあることを思い出す。


たとえ話をするようになるってのは、なんていうか10年早いと思うんだけど(たとえ話って大人がやる感じする)、やってしまうなあ。ジェンガ然り。多分そういうお年頃だろう。

そんなわけで振り返りおわり。

宇宙浪漫譚

深夜というのはどうやら谷川俊太郎が降りてくるらしく、宇宙とか孤独とかについて思いを馳せてしまうがゆえに、おばあちゃん、その話前にも聞いたよ、という感じになるので、実の無い(つまり重複した)エントリは取り下げた。

いったい、私は「宇宙」だとか「光年」とか、そういった言葉が好きだ。今の今まで気づかなかったけれど、好きだ。思えばプラネタリウムも好きだし、未来館が好きなのは多分宇宙っぽいところが好きなのだし、会社のデスクトップはJAXAかどっかの地球の画像だったし。


多分、人の手が届かない感じがいいのだろう。非日常。
真空、とか、無音、とか、光、とか。
得体の知れない感じ。それは深海のように気味の悪いものでもなく(深海は生物があまりにすごくて)。
ものすごい重力とか、風とか、温度とか、もうとにかくスケールが大きい。言葉の意味の通り、スケールが、大きい。

ものすごく遠いとか、そういうことに憧れのようなものがあるんだろう。宇宙の写真は大抵きれいだし。

最近地学をやって、ああ、地学って結構ロマンあるんだなあと思った。私は地味な断層面の計測がどうも脳にこびりついていて、地学の地は地味の地だなとか失礼なこと思ってた。謝る。ダイナミックだし、ロマンがあるよ。大気圏の温度変化だとか、カンブリア紀とか。とし子が宇宙へ行ったのもわかる(わからない人はスルーしてください)。会社法のダイナミズムなんて高が知れてる。


それで、そういう言葉群が好きなのだということ。宇宙好きであるということに気づいたポイントはいくつかある。

行政法の学者に、藤田宙靖先生という人がいて、私はこの人の基本書を使っていたのだけど(つい最近まで最高裁裁判官)、この人の何がいいって名前がいい。いや、すごい人なんだけど。基本書とかもかなりいいんだけど。名前がいい。これで「ときやす」と読むんだけど、宇宙先生と呼んでいた(院内で)。

谷川俊太郎が宇宙詩人なんていうのも、わかる。いいね、と思う。

「万有引力とは ひき合う孤独の力である」

「いつ始まったのか 私たちは  誰が始めたのか すべてを」

ぐっとくる。

ぐっときたので、「芝生」を載せる。

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芝生


そして私はいつか

どこかから来て

不意にこの芝生の上に立っていた

なすべきことはすべて

私の細胞が記憶していた

だから私は人間の形をし

幸せについて語りさえしたのだ

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HALCALIの「芝生」という曲で本人が朗読している。
ここで言う芝生は、誰もいない芝生だ。
キャッチボールとかフリスビーとかピクニックはしていない。ただ、急に気がつくと芝生の上に立っていて。樹があって鳥がさえずっていて空は晴れ渡っている。雲もいくつかあるかもしれない。じかんのないころのゆめをみているかのようなのどけき陽射し。


昔渡嘉敷島で、圧倒されるような星空を見たことがある(離島の都会で無いところ、特にさとうきび畑の真ん中とかでは、大抵圧倒されるような星空がある)。
合宿か何かで、みんなで芝生に寝そべって流れ星を数えるのだけど、なんというか、じっと見ていると、星達の遠近感を感じられるようになってくるのだ。
そうしていると、まるで背中で地球に貼り付いているような、今重力が何かのはずみでふっと無くなったら、ひゅるひゅると星達の側へ行けてしまいそうな気分になる。
空を飛ぶ、と言ったら、空から地表を眺めるのだろう。そうではなく、上へ、外へ向けられる意識として。

という宇宙のみなしごの一人であるところの私のこころをオープンにしてみたり。


こころよ、では、いっておいで
-------------------------------「こころよ」八木重吉

May 7, 2010

タスク考

小さい頃はよく遊んだ。
沖縄だけらしいが「昼か夜か電信か」という遊びとかだるまさんとかキックベースとかせみとりとか、いわゆる外で遊ぶ遊びもやったし、トランプとかUNOとかオセロとかドンジャラとかのカードやボードゲーム、ぷよぷよとかテトリスとかRPGとかのテレビゲームもやった。

で、いつしか、勉強ばっかりの生活になっていて(高校時)。
まあ毎朝6時に起きるのが辛いというのはあったけれど、勉強自体は苦ではなかった。面白かったから。


その時に気がついて愕然としたことは「遊びも勉強もタスクって意味では同じじゃん」ということ。

遊びというのは、暇で暇で仕方ない子どもとか、仕事と別のことがしたい大人とかが、新たにルールを定めてタスクをつくってそれを達成することで喜びを得たり暇をつぶしたりする行為なんだ、と。
つまり、あえて自分で進んでタスクを作ってこなしているのが、遊びなのだ、と。まあ言い方はどうあれ。

たしか、ぷよぷよか何かをやろうとして気がついたのだった。
クリアすることを目標に、クリアの先に何か実になること(お金になるとか受験で役立つとか)があるわけでもないのに、せっせとこなすんだよなあと。これって自分で設定して自分でこなしてわーいって言ってるってこと?と。


それ以来、あんまりゲームをしようと思わなくなった。こうやって省エネ人間ができあがっていく。
何にでも意味を見出そうとして、見いだせなくて、人生全体にそれが広がって、今や人生は壮大な暇つぶしだと結論するこの体たらく。

しかし、人生が壮大な暇つぶしだとしたらだよ、タスクというのは寧ろ重要で。これがなければ生きているのは暇で暇で、暇すぎて死んでしまう。


人間が生きるために食わなければならないことや寝なければならないことも、タスクで。
家の掃除や食器洗いや洗濯も、着替えも化粧も買い物も、友人とお茶することもメールを返すことも電話をとることも、電車に乗ることも書類を読むこともパワポでお絵かきすることも、ブログを更新することもついったーでつぶやくことも。


タスクという言い方がよくないなら、TTDでもいいし、ToDoでもいいし、お楽しみでもいいし、やりがいのあること、でもいい。うん、お楽しみっていうとポジティブなイメージだな、悲壮感がなくていい。

タスクとお楽しみの違いは、自分がそうしたいかどうかという点だけだ。で、それはかなり自分に依存してることで。いわゆる気の持ちよう(私はこの文句は好きではないけど。気の持ち方ってのはその人の聖域のような気がする。軽く言ってくれるなと思う)。

なんと、この世はお楽しみに満ちている!


そんなわけで最近はゲームもちゃんと楽しむことができる(ソリティアとかだけど)。
近頃死ぬほど暇な時間を過ごしたからだと思う。ここ数年焦がれていた状態だったけれど、暇は思ったより幸福ではなかった。タスクは、あるいはお楽しみは、存在すべくして存在しているのだ。

最近高校時代の勉強をしているけれど、高校時代勉強が楽しかった理由がわかった。単に面白いからだ。あ、同語反復。
少なくとも、あれは半分タスクであったかもしれないけど、半分はお楽しみであった。
勉強とか学問というのは人間の暇の産物だと思う。人間は暇には耐えられない。多分学問が生まれたての頃、あれは完璧なお楽しみだったに違いない。