July 6, 2010

観光客について

昨日は大蛇に巻かれたり(ニシキヘビとの記念撮影)、躍動する若者に感銘を受けたり(エイサー演舞)、花笠持って顔の大きさを比べられたり(琉装で記念撮影)、所謂ココナッツジュースを実から飲んだり、これでもかというほど観光客然とした一日を満喫した。

私は一応沖縄出身なのだけど、いわゆる観光地にはあまり行かないし、詳しくもない。高校生までしかいなかった上に今も車の免許を持っていないので、生活圏内も狭い。だから、結構観光地なんかに行くと、へえーそうなんだーっていうことが沢山あるし、それはそれで感動する。

で、永い人なんかと一緒にいると、標準語なので私も観光客と思われいろいろ説明される。沖縄では紅型という染物があって、とか。そうですか、と言いながら小学校のとき図工でやったなあと思い出す。母の友人は紅型作家でよく作品もいただいているのだけれど。私は言葉も服も結構東京ナイズされているし、顔も沖縄っぽくない、と思う。

でも最初、観光客と思われることがどうも嫌だった。大学生の頃はさらなり。
私は地元の人間で、他所の人とは違うのだ、何にも知らなくてただ遊びに来ているわけじゃないのだ、沖縄県民として嫌な思いも味わったし戦争体験なんかをずっと語られて育ってきたのだ、という気持ちがあったのだろうと思う。ただ沖縄にリゾートしに来る人たちが阿呆らしく見えたし、客だからといって観光地で働く地元の人たちに偉そうにするのもやたら傲慢に見えたのかもしれない。

ただ、今は少しそういう感情が薄れてきている。
程度の差こそあれ、私も観光客だろうと思ったからだ。
座間味島にいったとき、それを思った。座間味とかそういう離島の人は、私達が沖縄の人と県外の人を分けているのと同じように、さらに本島の人とその島の人を分けている。本島から来た人間は、本土の人より近いけれど、結局観光客なのである。島のことを何も知らない。数日だけ辺鄙な離島の自然を楽しんで、便利な都会へ帰っていく。
こうなってくると、もう観光客というのがどこからなのかは程度問題になってくる。その土地に生まれれば現地の人なのか、育っていればいいのか、何年以上住めばいいのか、言葉が訛っていればいいのか、顔見知りならいいのか。

もうひとつ。
私は観光客という響きが否定的ニュアンスを含んでいることを知っていたし、自分の感情とそれを同化させていた。観光客というのは都合のいい人々であり、お金を出してその地域のいいところだけを体験し、わかったような気になってあちこちで吹聴してまわり、みんながみんな揃って同じような場所へ行き体験をし同じようなお土産を買っている、傍から見るとばかみたいだ、という。まあいつもそう思っていたわけじゃないけれど、極端に言えば。
誰かにそうやって表明したことは一度も無いけれど、言葉にするとするならこういうことになるのだろう。
そして自分も違う地方へ旅行して観光客になった場合には同じことが言えて、でも地元の人にそう思われることは恐れていた。ばかな一観光客にはあまりなりたくなかった。

でも、最近観光客として沖縄を歩いてわかるのだけど、観光客の人々は意外といい人たちなのである。ちゃんと挨拶をするし、ありがとう、というし、沖縄を純粋に楽しんでいるし、勉強熱心だ。私なんかよりずっと。ガイドブックを何冊も読み込んでいたり、琉球の歴史についてよく聴き入っていたり、目の前に現れた珍しいものを記憶に焼き付けようと食い入るように見たり写真を撮ったりしている。暑さすら楽しんでいる。沖縄っていいなあ、なんて言う。
それで、都会では日々忙殺されていたりするのだ。

それで私は、最近観光客に思われても、観光客然として楽しむようにしている。だって私だって何も知らない。一生懸命説明してくれる、接客してくれる人に、「私地元です」なんていってがっかりされたくもない。
それで、観光客です、みたいな顔をして歩いていく。来週も接待。

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