July 8, 2010

二元論の功罪

人間が最初、喃語(乳児が発する「あーあー」などの声)とともに、手足をつかって言葉を表現するのに、言葉を習得した途端にそれが身体的特性を離れて、もっぱら理知的なものとして扱われるのは奇妙なことだ、という文章があった(前に何かのエントリで書いた)。

あれがどうしてかというと、というところで何が書いてあったか忘れてたのだが、今日授業があったので確認したところ、言葉というものが書いたとたんにテキストとして一人歩きを始めるというところにあるのではないか、というようなことが書いてあった。
つまり、遺産としてテキストを残せるというところに、人の身体を離れて言葉を遺せるというところにその理由がある、と。むしろそれで人間は言葉により他の動物より優位に立てたのだと。言葉が身体を離れてしまうと。

言葉が身体を離れてしまう、このことが、人間が発明した言葉というものなんだと。あるいは文字か。いわゆるテキスト。
この前の「世論とはそれを最終的に引き受ける人がいない意見のことである」という内田樹氏の言葉とリンクする。

この文章はこのあと、キリストの「聖書」がキリストという生身の人間を離れてそのテキストとしてひとり歩きし、そして古くなってしまったそのテキストを解釈するということがまず言葉を学習するということの手順になった、みたいな話になっていったような気がするのだけど、この辺で「パンドラの匣」を読んだので混ざっているかも知れぬ。
「パンドラの匣」では、キリストこそ最初の自由主義者であったのではなかろうか、という話が越後獅子によって嵐の夜に件の「健康道場」なる結核療養施設で行われるのだが、そこら辺もちょっと整理しておかねばならん。自由主義の下りは結構感心した気がする。


言葉がもっぱら理知的な、身体をおろそかにし、しかも身体を離れて一人歩きさせるということを、私は無責任なのかしら、と思ったりもする。

例えばブログの匿名性。
これなんかは自分の文章を誰のものとリンクできないように(しかし仮の名はあるわけだが)して、文章だけをひとり歩きさせている。むしろ文章ありきで、文章を読んでその書いた人を想像する、もしくはそれすらもしない。そこにはそういう文章を書くような人、という情報しか与えられていない(私はまあ名前自体は本名ついったーで出しているし早稲田だの沖縄だの院だの素性が知られる情報自体は読んでくれてる人ならわかるとは思うのだけど)。つまり、私は文責を負わない。

で、ついったーのbot。私はkotobanobotというbotを作ってつぶやかせているわけだけど、これらに収録された言葉達はもはやこの人にすら呟かれておらず、私という一個人の独断と偏見によりついったー上で紹介されているわけである。しかも140字というぶつ切りにされて。もはやひとり歩きというかなんというか。
わたしとしてはあまりにartなので紹介したくて紹介してるのだけれど、ぶつ切りにされた文章の本当の話者からはよくは思われておらぬかも知れぬ。文脈っていうのはあるし、それは文章全体を読まないと意図がわからないなんてことはたくさんある。で、だからこそ、私は切ってしまうのだろうと思う。そこだけを読むことが、想像力をかき立てるから。そこだけを読んでもわからないから抽象的になって、そのレベルでああそうか、ってことが起こるから。詩的なものを目指しているのかもしれない。

しかしついったーというもののRT。ひとり歩きも甚だしい。聞き手すら特定されていない。つまりそういうものなのだ、ついったーっていうのは。

でだ。ついったーは措いといて。
もう一個文章があって、デカルトの二元論の功罪を説いていた。つまりデカルトは身体的物質的世界と精神的霊魂的世界を分けてしまった。しかしそれはこの後の科学が発展する際に大きな功績があった。一方で、デカルトはそれらがまったく連動しないものであるという暗黙の了解を与えた。実際にはそれは違っていた。身体は精神に影響する、というか、精神の作用は身体の作用である。

この二元論の立場をだね、先の話に当てはめてみるとするならば、言葉が理知的な(精神的な)ものであって、身体的な世界とは別の世界にある、という考え方が出てくるわけだけど。
どうだろうか。実際そうなんだろうか。
理知的な言葉、口先だけを動かして話すこと、頭を使って言葉を駆使すること。
腹から声を出すこと。表情でも語りかけること。ハグをすること。
多分、言葉が上手になればなるほどなかなか触れ合わないんじゃないか。身体的とか精神的とかそんなん一緒くたにコミュニケーションとしていい気もする。

分けるとか無理無理思想があちらこちらで花開いている感じがする。無理だよ。
私はモラリストにもなりたくはない。

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