July 13, 2010

出力と沈黙と

その時読んでいる本に文体が影響される、っていうのは結構ある。
あるよね。

今は太宰。
私はなぜだか、「グッドバイ」から先に読んでいた。
恥ずかしながら、私は読んだ本をあんまり覚えていない。覚えるようになったのは本当にここ数年、多分原田和英氏のブログに出会った頃なので2006年くらいだと思うのだが、その時期になってやっと、本を読んだら「おっ」っと思ったところをメモするとか、何度も読んでみるとか、それを素材に自分の考えたことを書くとか(つまりブログですね)、そういうことをするようになった。

先日、内田樹さんのブログでタイムリーにも池谷さんとの対談の話が書いてあったのだけれど(少し前のエントリで「海馬」が池谷さんと糸井さんの対談本で、という話を書いた)、関連する部分を引用する。

以下引用
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スワヒリ語の単語40語を学習して、それから覚えたかどうかテストする。
という単純な実験である。
ただし、4グループにわけて、それぞれ違うやり方をする。
第一グループはテストをして、一つでも間違いがあれば、また40単語全部を学習し、40単語全部についてテストをする。
それを全問正解するまで続ける。
いちばん「まじめ」なグループである。
第二グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、40単語全部についてテストをする。
第三グループは、間違いがあれば、40単語全部を学習し、間違った単語についてだけテストをする。
第四グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、間違った単語についてだけテストをする。
これがいちばん「手抜き」なグループである。
全問正解に至るまでの時間はこの4グループに有意な差はなかった。
まじめにやっても、ずるこくやっても、どの勉強法をしても、結果は同じなのである。
ところが、それから数週間あいだを置いて、もう一度テストをしたら、劇的な差がついた。
「まじめ」グループの正解率は81%。「手抜き」グループの正解率は36%。
まあ、これは天網恢々粗にして漏らさずというやつである。
さて、問題は、第二グループと第三グループはどういうふうになったかである。
第二と第三はやったことがよく似ている。勉強に割いた時間も変わらない。にもかかわらず、大きな差がついた。
さて、どちらが正解率が高かったでしょう。
1分間考えてね。
第二グループの正解率は81%(「まじめ」グループと同率)。
第三グループの正解率は36%(「手抜き」グループと同率)。
これから何がわかるか。
「学習」は脳への入力である。
「テスト」は脳からの出力である。
つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
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以上引用

つまり、出力でパフォーマンスが決まるということ。
こうしてブログにただただ書いていることも無駄ではないとどこかで思っていたところはあったが(つまり自分に対して)、ほほう、と思うではないか。
ほほう、出力かね。
(ここの物言いは江國香織の影響だろう。)

で、これを塾でもやれるかなーなんて考えちゃうところがまた少しあれなわけだけど(この辺の物言いはinoに影響されている)。


もひとつ、面白かった内田節を。
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入力過剰で、出力過少の学者たちは、そのわずかばかりの出力を「私はいかに大量の入力をしたか」「自分がいかに賢いか」ということを誇示するためにほぼ排他的に用いる傾向にある。
せっかくの賢さを「私は賢い」ということを証明するために投じてしまうというのは、ずいぶん無駄なことのように思えるが、そのことに気づくほどには賢くないというのがおそらく出力過少の病態なのであろう。
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使え!というやつだな。手を動かせ!動け!
私、インドア派なんでちょっと。おしゃべりでもないですし。ちょっと。
じゃなくてね。


出力の大切さはわかった一方、沈黙の価値もまた糸井さんにより語られる。

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「沈黙」は、空っぽのことじゃない。
人が生きているかぎり、たえず生まれている感情や、
感覚や、発明や、発見や、思想や、
もっとわからないなにかの泉みたいなもの。

ことばの巧みな人間に、いかにも正当な取引として
なにかを迫られても、臆してはいけない。
誰もが「沈黙」をもって答えることができるからだ。
「断る理由を語ってください。そうでないとフェアでない」
と、ことばの巧みな人間は言うものですが、
あなたの沈黙こそが、答えなのだ。

どうすることもできなくなったときに、
「逃げる」という行為は、
「沈黙」の一種なのだろうか?
逃亡の末に、さらなる「沈黙」が生まれて、
やがてなにかが見えてくることもあるのだが。

「沈黙」は、実力行使と結びつくと暴力になる。
だから、「もの言う社会」で、
「沈黙」は危険視されやすいのではないか。

「黙っていたらわからない」と言われるたびに、
「黙っているじぶん」が否定されていく。
やがて、少しだけ「黙っていない」ようになって、
「沈黙」も大事にせず、「口下手」な人間ができあがる。

宇宙は「沈黙」している。
神も「沈黙」しているらしい。
「沈黙」は、沈黙以外を従えて、
無から無へと進んでいく。
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「闇は光の母」みたい。
「闇は 私達を 愛している」のだ。

それで、卑近だが子どもと接することを考える。子どもの沈黙。その沈黙を尊重したいという気持ち。沈黙してると話は進まないのである。それでも子どもの沈黙に付き合いたいなと思ってしまう。最近の子どもは忙しいのであんまり一人ひとりと話す時間がない。今話しておかないといけないんじゃないか、今聞いてあげないといけないんじゃないか、今沈黙に付き合ってあげなきゃいけないんじゃないか、雄弁でなくたって、本当はハグしてあげたりとか、頭をなでてあげるとかした方がいいんじゃないか。
子どもの不思議な活力。生かすも殺すも回りの大人たちで、そして私はもう大人なのである。

うわ出力してたらこんな時間!もう力出ない。力石のように。まっしろにおやすみあれ。

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