July 29, 2010

さて、今日の現代文は。
今日は2008年のセンター試験第1問。やたらにもやもやした文章であった。一体何が言いたいのやら。いまいち好きではなかった。

まず、闇について。明るい場所というのは全てが視覚で認識できてしまう、つまり視覚によってものと自分との距離が測れてしまう。それは視覚を軸とした統制である。逆に闇はそうではない。視覚を奪われた途端に我々の他の感覚が活性化し、そこにある空間を感じ取る。
そうして、我々が近代建築などにおいて求めてきた明るい場所では空間が均質化され、距離として把握されてしまう。つまり、失われたものは水平方向の深さ・奥行きである。

的な。
ここから「奥」というものについての考察。
「奥」というのは空間的なものだけではなく、時間的、心理的なものを含む。ということを辞書から引っ張ってくる(どこかで見た手法である)。
「奥」というのはプロセスである。奥に何かの対象物があり、それがクライマックス的なものではない。らしい。
そういうことを、神社の参道を例に用いて縷々述べる。

そういう文章であった。なかなか覚えていて私としても嬉しい(その点について)。
闇の話はまあ感覚的に共感する部分もあるのだけれど、闇というのは深さであるということや、「奥」というのがそのプロセスに本質があるということなどは、ふうんそうかなあという感じである。

そもそも私は、完全な闇というものと離れて久しい。そういう場面はそんなにない。夜中に起きているから、わずかな灯りを頼りに部屋を歩くというのはよくあるのだけれど、物の輪郭くらいは見える。そうではなくて、全くの暗闇。そして、自分の部屋のようにどこに何があるかわかっているわけではないような場所で。そういう暗闇を体験しなくてはならないという気がする。生物として。
なんだかんだいっても、私は視覚に統制されている。視覚に頼りきっている。そうして、視覚により周りの見慣れたものものに頼っている。それが急に見えなくなってしまったとき、やっと自分が一個の個体であることを理解できるような気がする。
手ざわり、とか、息づかい、とか言うけれど、本当に本当にそういったものと対峙するとき、視覚は大きな位置を占めすぎている。

ダイアログ・イン・ザ・ダークというものがあるそうで、東京でやっているらしいのだけれど、これに結構興味がある。院の同期が日記か何かで書いていたものだ。東京に行く機会があれば行ってみたいと思っているのだけれど。
そういう親密さと心細さというか、孤独感と不安感というか、危機感と攻撃性というか、つまり原始的な感じが、闇の中にはある。ような気がしている。

「闇は光の母」という詩が谷川俊太郎にあるのだけれど(頻出)、それは、宇宙の闇は私達を愛していると締めくくる。
闇が我々を包んでいる?闇が空間に溶けている?
私にとっての闇のイメージは、奥行きとか深さではなくて(むしろそれは視覚の守備範囲で)、ただそこにあるもの、すぐ側にいるもの、体をとり囲んでいるもの、で。そうして、闇とは違うものかもしれないけれど、目をつぶると、むしろ自分の内側へと意識が向くのがわかる。自分の中の闇へ。それにきっと体内は真っ暗なわけだし。

「奥」については、何があるか分からないような神秘性、大切にしているような感じ。確かに何かの対象物がクライマックスなわけではないけれど、「奥」に向かうこと、「奥」へ通されることというそのこと自体が。そこを奥とすること、共通に認識していること。そこへ向かうということ。大奥。奥ゆかしい。奥様。
そういえば、「沖」と同根だとか。興味深いではある。沖もまた奥なわけか。


どうでもいいけれど、「イン・ザ・ダーク」と聞くとついビョークおばさんの映画を思い出す。美しい映画。
Dancer in the dark(Bjork - I've Seen It All)

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