August 19, 2010

先哲の書

内田樹の「子供はわかってくれない」の文庫を読んでいる。少しずつ。

ブログを読んでから本を読むと分かるのだけど、ブログのクオリティは本並み。ということはブログを遡って読んでも、読み物としては十分に満足ができる(もちろん、学術書ではなく一般に平積みされているやつである)。
私が彼の著作を好きなのは(彼を好きかどうかはわからん)、正直だからである。正直でいてかつ私の気がついていないことをどんどん平易な言葉で突いてくれるからである。読んでてわくわくする。なるほどねーと日に何度も膝を打つ。

そうして、彼の正直な記述によれば、彼の言説はどれについても程度の差こそあれコピーといえなくもないのだとか(彼は彼のブログの文章をコピーも引用もすべてフリーにしている。彼が言っていないことを言った、と言うのはやめてほしいけれど、それ以外ならいいと。)。ほかの誰かが言っていたことを自分の尺度に切ったり圧縮したりして焼き直しているだけなのだ、と。
だとしてもだ。それらの「誰かが言っていたこと」というのはつまりインテリにもほどがあるよというような哲学書だったり社会学者の本だったりするわけである。そういうのを読んで理解して自分の血肉にして、しかも平易な言葉で語り、かつ今の社会に応用させて考えられるならこうだ、という具体まで持っていけるというのは並大抵の勉強量ではないと思うし、並大抵の才能でもないと思う。

で、そういうのをいとも簡単にコピーフリーにして、それでも別に自分の言葉や考えがより多くの人に広がるのであれば、それはいいことだ、と考えているのである。器がでかい。そうだ。器がでかいというのはもう私にとって最大級のほめ言葉と言っていい。男前、とかもうれしいけれど、器でかいなーはかなりうれしい(言う人が素敵な人なら尚更だ)。器がでかくなるためには窮窮としていてはいかん。子供たちに家がばれたくらいで、やばいなーと思ってたんじゃでかい人間にはなれん。

で、内田樹礼賛みたいになったけど、あくまで人間っぽいところもいい。あの人は聖人ではない。ついったーなんか見てるとすごい普通のおじさんである。しかも少しかわいげのあるおじさんである。

で、少しずつ読んでいて、だんだん、もったいないなあという気がしている。
自分がもしかしたらこれからいろんな本を読んで体験する中で得ていくであろう気づきが、この本によって次々に明らかにされていく。自分で気づく体験を奪われる気がしたのである。
数学の問題とかで、自分で解いたときってすごく嬉しいじゃないですか。その嬉しい!っていう体験をせずに、先回りして解答解説を読んでしまっているというような。あーなるほどね、はーそうするのかー。という納得はあるのだけど、できた!っていう喜びはない。まあ程度問題なんだけれども。
ってこれ前に書いたな。ガイドと気づかずに自分で解いたと錯覚することと、ガイドを明確に意識して解くことと、どっちにしろガイドがあるはずで、それは程度の問題なのだと。で、受験のときは時間が限られているので後者を採択することはまあ悪くない、みたいな(結論は忘れた)。
で、人生も時間限られてるんですよね。そしたらこの後者を採択するのはまあ悪くないのかも、しれない。そのために先哲は書を残したのだから。

手っ取り早すぎてなんだかな、と思った次第。
内田氏もまた「アウトサイダー」(コリンウィルソンの)を中学のときに読んでその手の思想家の重要性だかを大体理解でき、請け売りで雑誌部で一目置かれる存在になれたというけれど(早熟である)、私は20歳を過ぎても理解できなかった。大体、中学生の頃なんて、テニス少しやった後は少年ジャンプを読んでたまに塾行って因数分解かなんかしていたような生活だったのである。地域間格差と世代間格差を思い知らされる。あるいは、能力の差を。
そんなわけで、原田和秀氏も薦めていた「アウトサイダー」、リベンジしてみむとす。

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