October 27, 2010

女の文章とか感性とか

妹が、

「江國香織と椎名林檎は似てるよね」

と言い、

そういう考え方もあるか、と

思った。


センター96年本試の第一問の評論を読んで真っ先に

「ああこれは女性の文章だ、絶対にそうだ」

と思い、実際そうだったのだが、ほとんど読んだことのない人の文章であった。

なぜわかったのかしら(でも多分、皆さんが読んでもそう思うと思う)。


そういう女性の思考の類似性を思う。
正確にいえば、そういう表現する女性の思考の類似性、か。


96年の本試の第一問は、「女」と「鬼」についてであった。
まず、古典文学や芸能における鬼は女を通して人間と交流することがある、という話。鬼の無垢な部分、優しさの部分が女と近接しているからだという話。
次に、女が鬼に変わる話。奥州黒塚の鬼の話、というのを持ち出す。
公家の乳母をやっていた普通の女が、まあいろいろあってそれと知らずにわが子を殺してしまう。で、狂気のあまり殺人を犯し続け、それをある僧侶に見られるところで羞恥憤怒の極み、
鬼の性をあらわし僧を殺そうと追いかけるというもの。
それを受けて、筆者。

「それを見られたことの怒りと羞恥に思わず鬼へと変貌する刹那には、怖ろしいというよりはむしろ哀しく美しい要素がまじっている。」

「いささか怠惰に、自在に、拡散しがちな現代の自我は、次第に希薄化さえしはじめているようで、時にあの、古い女が鬼となっても遂げようとした激しい昇華の一瞬は、それゆえにいっそう魅力的なのではないかと思わせられる。」

出典:馬場あき子「おんなの鬼」


こういう、感性。
女であるからこその鬼への眼差しというか。
女が鬼になるというときの悲しさ。美しさ。情熱。激しさ。大抵、女は激しい羞恥のために、もしくは激しい恋慕のために、鬼になるのである。

比喩的に用いられる「~の鬼になる」というのもまた守るべきものがあってなるものなのかもしれないが、そういうものは男性的なものである。

古い女の押し殺していた自我のフラストレーションが爆発した姿が鬼なのだと。


私は男も女も特に文章に違いなんてないという風に思っていた。というか、男女間で書く文章の性質が変わるということを認めるのが嫌な気がしていた。
それはそういう女性だからそういう文章を書くのであり、高村薫なんかものすごく男っぽい小説を書く、と。逆に男性の紀貫之は「土佐日記」を書いている。


女なら、女が鬼になるということに、同情や悲哀や切なさや美しさを感じることができる。そこまでのフラストレーションを爆発させることのできるほど耐えに耐えた姿、それを爆発させた昇華の一瞬は魅力的ですらあるのである。それは私たちの仲間であり、私たち自身がそうなっていた可能性だってあったわけだから。

でも男は、女が鬼になるということには恐ろしさをしか感じないであろう。こわいわ。
恋愛小説の名手に女性が多いのはそういうわけで。


この評論の終盤に差し掛かるにつれて、結構この人の文章にほほうと思った。

評論なのに感性で、艶があるように感じられる表現というのは色気があってよい。

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