December 22, 2010

ボーダー

いつの頃からか、寝間着はボーダーという思い込みというか好みというかそういうものが自分の中でできてるなと気付く。
多分それは、普段外で着る服でボーダー柄を着ないことが関係してるんだろうなと思う。

ボーダーをさらりと着ることが出来る人に憧れた。
高校生の頃雑誌を読んでて、ロハスな感じの落ち着いたボーダー柄をはなちゃんとかがふわっと着てるのいいなあと思っていた。はなちゃんとか、ほんと前からロハスーな感じだなー。ベリーショートなのにかっこいいというより大人っぽくてやさしくて。オルビス。


ボーダーは人を選ぶのです。
はなちゃん的ボーダーにせよ、カエラさん的ボーダーにせよ。
誰が着てももちろんいいけれど、ちょっと諸刃の剣的要素が。線の太さや間隔や色や襟ぐりとか袖の長さとか、間違えるととてもオールドファッション。そういや今ミスド100円だね。

そういう経緯があって、無難に生きているのでほとんど外ではボーダー柄を着用しない。
その反動なんだろうなと思う。
ちなみに靴下もボーダーばっかり。


ボーダーって見ると眠くなる感じするよね。

ボーダーのズボンにボーダーのルームソックス履いてると、囚人のようです。

December 15, 2010

時間のないころのゆめ

最近、ホットソイココアラテ的なものをよく飲んでいる。おいしい。
豆乳をレンジで2分あたためて、ココアひとさじ入れるとできる。

そういえば、子どもの頃は飲み物をゆっくり飲むということができなかったような気がする。
大人たちがゆっくり、一口ずつコーヒーを飲んでは何かしゃべって、ときどき思い出したようにまた一口飲んだりしているのを傍で見ていて、どういう風にすればああいう飲み方ができるのか不思議だった。
飲み物というものは、のどが渇いていたり、おいしかったりして、最初にごくごく飲んでしまうのだった。

今ではもちろん、ゆっくり飲むこともできるし、急いで飲むこともできる。喫茶店で長居したいがためにコーヒー一杯で場を持たせるということもできるし、もう店を出るからってジュースを干すこともできる。大人になると、そういうことはうまくなるなと思う。

つまりは、飲み物が主役じゃなくて、脇役というかおまけというか口実になったんだなと思う。誰かとおしゃべりをするために、とか、小説を読むために、とか、そういうののついでに飲み物があるとなんだか様になるというか。
でも、結局夢中でおしゃべりをしたり小説を読んでしまうときというのは、飲み物を飲んでないなと思う。
子どもの頃って、飲み物が目の前にあると、飲み物に集中してしまってたんだろうな。

もしかしたら、大人が飲む飲み物は、場を持たせるために選択されているのではないか。わざと、ごくごくとは飲めないものだったり、飲んでしまうと勿体ないものだったり。コーヒーとかお酒とか。


最近昔のブログを読み返していて、ああこういうこと考えてたな、とか、感慨にふけったりしたのだけど、とにかく時間の流れの感覚が大分変わってきたなと思う。変わってきたというより戻ってきた。沖縄にいたころに。
たとえば、沖縄に帰ってきて少し経った頃のエントリ「時は金か」にこう書いてあった。

--------------------------
時間って、つぶすものなの?って思っていた。時間を有効に活用する、とかも、時間に有効も無効もあるかい、なんて思ってはいないけど、なんか大人って大変だねと思っていた。
子 供の時は、目の前にはやることが沢山あったし、時間は潤沢にあったから糸目をつけずにつかっていた。学校で授業受けて、遊んで、目の前の宿題とかやって、夕方になったらご飯食べて、また好きなことして、寝て、っていうのを繰り返して、マネジメントなんて考えもせず、ただすくすくと、それでものんびり成長してたよなあと。でもそんな子供時代にも、余所の子はもしかするとタイムマネジメントを叩き込まれて育ったのかもしれない。

で、マネジメントマネジメントって言われると、そういう自然児には適応の限界があるんだよーという話。
--------------------------

で、自然児は自然に戻った。

沖縄には沖縄の時間が流れていて、それはまぎれもなく私の体内に元々流れる時間と同じ速さだった。でも、東京で速めた時計をまた沖縄の速さに戻すのには時間がかかった。時差ボケの二年間。
でもこの二年間って、「時間のないころのゆめ」をもう一度見ることができた、うれしい二年間だったのかもしれない。
ちなみに、「時間のないころのゆめ」というのは、宮沢賢治の「雲の信号」という詩に出てくるフレーズ。

---------------------------------
  雲の信号
               
あゝいゝな、せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸だつて岩鐘だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
  そのとき雲の信号は
  もう青白い春の
  禁慾のそら高く掲げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
---------------------------------

※参考:宮沢賢治の詩の世界:詩碑「雲の信号」
参考エントリ(trace of)

今は、沖縄に戻った頃のように時間を無為に過ごすことに罪悪感もなくなったし、焦りもなくなった。文字通り時間を糸目をつけずに使っている。家族と他愛ない会話もする。買い物にも付き合う。テレビとかもそんなに見たくなくても見ちゃう。時間がかかっても歩く。つまり、時間がもったいない、って思わなくなった。今書いてて思ったけど、時間がもったいないって、結構自己中な考え方だなと。自分のためにフルに有効に使いたい、ってことだよなって。
時間はもちろん有限だけれど、それを切り詰めると人生がきゅうきゅうとしてきて、人生的に何かがマイナスになりそうで、結局とんとんなのかもなと思う。人生を効率的に使おうとすればするほど、その分何かが減ってるような気がする。


ああ、もう大丈夫だなと思える今日この頃。

December 9, 2010

くるりのこと。

僕は今、語ろうと思う。
くるりのことでも。

このブログでも何度かというか何度も、ツイートの方でも何度も、くるり絶賛だったわけだけど、つい最近くるりの特集があった。NHKで「SONGS」という番組があってそれにくるりが出ていたのである。まあ30分番組なんだけど。

リビングで見ていたので、家族もいて、家族からはくるりのよさがわからないなー的空気が発せられていたので、よさを伝えてみようかとも思ったけれど、やっぱりやめた。言葉にすると、石になります。そのとおりだ。


くるりというのは、大ファンだ、と言うのに不向きなバンドである。よくわからないけど、そんな気がする。
くるりを好きだと言う人たちは、何気なく好きなことが多いような気がする。
でもよくよく考えてみると実は根深いところで、性格レベルで浸透しているようなところがある。
例えば東京事変なら、例えばイエモンなら、例えばナンバーガールなら、例えばハイスタなら、それはすごく意識的な自覚的な、コミットの仕方がある気がする。意識的にこのスタンスが、この世界観がとてつもなくツボなのだということが言えるような気がする。言葉にしやすいというか。このバンドのこういうところがすごく格好いい!という風に。そして傍目にもそれを好きだということのイメージが持ちやすい、良くも悪くも。この人はイエモンが好きなタイプなんだなあっていう。
でもくるりはそこらへんのインパクトがすごく薄いような気がする。

くるりというのは語るのに不向きなバンドである。
彼らの新しいアルバムは、「言葉にならない、笑顔を見せてくれよ」というタイトルなのだけど、本当に彼らの音楽のよさというのは言葉にしにくい。し、言葉にできない何かを楽曲に盛り込むのが本当にうまいと思う。そういうものを大事にしていることがよくわかる。

だから、聴けばわかるさということでもない。いや、聴いた方が早いんだけど、聴いてもすぐにはわからないこともたくさんある。私も多分わかっていないことがたくさんある。
でもなんだかその空気感が好きで。流れる時間の早さがしっくり来て。音の一つ一つが耳にしみこむ。
そして、巧いとは言いがたい、時々裏返ったり少し頼りなかったりする、でも素直な声が心に直接ふれる。巧く歌おうとしないところが、余計にその歌詞のシンプルさに似合う。
詞もいいのだけど、岸田繁は本当に深遠な真理を理解し確信して書いているわけではない、と思う。ただ、言葉にできない何かを、言葉と行間で(むしろ行間で)なんとなく汲み取って、あとは音楽でその感覚を表現しているように思える。
くるりのすごいところは、そこだ(私見)。言葉にできない何かを、音楽と言葉と言葉じゃないもので表現している。言葉の違った使い方。村上春樹の短編集「神の子供たちはみな踊る」の中の「かえるくん、地球を救う」での、かえるくんの言葉をなんとなく思い出す。
「ぼくは純粋なかえるくんですが、それと同時にぼくは非かえるくんの世界を表象するものでもあるんです」
ついでに「あしか祭り」からも。
「真の意味は、つまり我々のアイデンティティーとしてのあしか性を確認する作業はこの行為の連続性の中にこそあるのです。祭りとはあくまでその追認行為にすぎないわけです。」


飽きが来ないのもいいな、そういえば。本当にいろんな曲がある。アルバムごとに変わる。けどアルバムの中でも結構いろいろ。
たとえば「THE WORLD IS MINE」とかには、「WORLD'S END SUPERNOVA」も入ってるし「男の子と女の子」も入ってるし、「GO BACK TO CHINA」も入ってる。

これまでにもチャレンジングで格好いいバンドはたくさんあったと思うしそれはそれでいいのだけど、それを見ながら焦りもせず(いやわかんないけど)自分の世界観を表現し続けてきたのは本当にすごいなと思う。何かから影響を受けるということは大いにあれど、結局くるりの音楽になっている。だから多分、私は飽きもせずギャップに驚きもせず、くるりを聴き続けていられる。

結局くるりのよさを、伝えることはできなかったと思う。でも、くるりをいいと思っている人の共感を、もしかしたら得ることができるかもしれない。
そういう類の文章というのはある。

December 6, 2010

最近、一連の大きな大きな出来事があって、まだ収拾ついていないのだけれど。とにかく。
何か記事を書こうとすると、それが心の真ん中に、生活の真ん中に居座っているので、どうしてもそれを無視して何か書くというのに違和感があって。

まだその感覚をちゃんと表現することが出来ない気がしている。迂闊に言葉にしてしまうと、後悔する気がする。言葉にするというのは本当に、切り捨ててしまうことかもしれない。けど、書いてしまう。


すごく大切な人を見つけた。

誇張じゃなく、人生の見え方が、世界の見え方が変わった。息がしやすくなった気がする。
自然になじむ。気持ちが伝わる。言葉が通じる。

諦めが悪くて、頑固にこうやって生きてきてよかったなと思う(こうする以外の方法で生きてこられたかは疑問だけど)。逃げたり、ぶつかったり、悲しい思いをしたり、でもどうにかこうにかやってきてよかった。
こんな風に生き方が全て報われるということがあるのだなと思う。

神様はいるな、と思った。

キャラじゃないけど、今回はとにかく。ご報告まで。