大人になったなぁと思うとき、というトピックで、テレビの番組をやっていて。
コーヒーブラックで飲むとか、いろいろ出てたけど、どういう時かなーと考えてみた。
で、体力をセーブできるようになった時だなと思った。
まだやれるけど長期的に見てだめになりそうだから8割で仕事から帰るとか、まだ飲めるけどやめとくとか、まだ居たいけど睡眠時間考えて帰るとか、まだ考えられるけど休めるためにやめるとか。
そういうのは「まだやれるけど」とかでは本当はなくて、「まだやりたいけど」なのだ。
やりたいことを素直にやるのはすごく気持ちいいし、できればそれをずっとやっていたい。
でも、人には体力にリミットがあって。
私の好きなゲームで、「moon」というのがある。人生において多大な影響を受けた。
昔あったラブデリック(lovedelic)という会社の出したもので、このあと2作くらい確か作って解散し、それぞれのスタッフはバラバラに別の会社に行ったのだけれど、その行った先でも元ラブデリックの人が多めのプロジェクトで作ったりしたゲームを「ラブデ系」とか言ったりする。
ラブデ系ゲームには行動時間にリミットがある。お腹もすく。ゲームプレイ中に食べたり寝たりしなければならない。時間の概念があって、他の登場人物たちも夜は寝たり、ある曜日には飲みに行ったりする。プレイヤーはリミットを超えて活動を続けるとゲームオーバーになる。普通にFFとかのRPGをプレイしたあとラブデ系をプレイした時に、ああそうか、私たちってリミットのある身体で生きてるんだなあと思った。
リミットのある身体。時間的な。質量的な。システム的な。地球的な。
リミットを意識しないで生きてると、時間的リミットが来るずっと前の段階で体力的精神的リミットを迎え、折角の健康的(であるはずだった)身体をうまく使えずにじっと海の底で空を泳ぐ魚たちを羨む羽目になる。
しかし老けたな。
June 10, 2012
June 6, 2012
餃子を包む
咳が最近とまらず、文学的な気分になっているということは既にTwitterにて周知済みであるが、肺結核で亡くなった格好いい人の多いこと。一昔前までは日本人の死因の1位だったのだとか。
まあ、別に結核じゃない。
それで、仕事にも差し支えるので、今日は代休とって、近所のクリニック行って、薬をもらって、家で休んだり、餃子を包んだりしていた。
最近実家の母に癌が見つかって、術後の一ヶ月ほど身の回りの手伝いをしに帰郷していたのだけれど、それでちょっと疲れたみたいだ。 術後一週間くらいでは退院し、現在は経過観察中だが、あまり家と職場をあけるわけにもいかず、戻ってきた。家事って意外と体力使うので、無理して悪化させないか心配だが、まあでも概ねなんとかやっている様子。
こういうのをブログに書くのは苦手で。
基本的に、「誰かの不幸せに 僕の涙はいらないから」という岸田繁の書いたように、ブログを見てくれている方に、無為にご心配をかけるというか、心配することを求めるようなことがしたくないのだと思う。
それにしても、餃子。
この前の週末に旦那さんと見た「トイレット」という映画に影響されている。「かもめ食堂」の流れだが、あれよりかなりPOPで観やすいしなかなかにいい映画なので、是非。
こういう作業はとてもおばあちゃん的だなと思う。さやいんげんの筋を取る、とか、もやしの根っこを取る、とか、うずら豆をさやから出す、とか、そういう、台所に立つのではなく椅子に座って内職のようにやる手仕事。
出来合いの餃子がいくらでも売っているような時代に、家事に手間暇かけている感じ。
丁寧に、手早く、きれいに。しかもいま絶賛咳込み中なので、のどにハンカチを巻いている。ますますおばあちゃん的である。まだ、ねぎは巻いていない。
で、餃子。
薄い皮を手のひらにのせる。
ボウルから具をスプーンですくって皮の中心より気持ち右側にのせる。
ちなみに具はむきえびの叩いたやつと鶏ひき肉とにんにくとごま油と醤油と片栗粉をそれぞれ適量まぜたものにした。
皮の縁に水をつける。
一旦皿に置いて、右からひだを作りながら皮を閉じていく。
破れがないか確認して皿に並べる。
こういうことをするとなんとなく、丁寧に生活しているような気がして。
それでこうして真っ白なダッシュボードに向き合う気持ちになったのかもしれない。
文章は、前の更新と間があけばあくほど書き出しにくくなる。どんな精神状態でどんな言葉をつむぐのが一番適当なのかということを掴みにいくのが遅くなるのである。
散漫だけれどやっと文章を書けた。
それに、最近わからなくなっていた自分が今聞きたい音楽を見つけ出すこともできるようになった。
今は、おはようまだやろう/ゆらゆら帝国 です。
餃子作ってよかったな。
まあ、別に結核じゃない。
それで、仕事にも差し支えるので、今日は代休とって、近所のクリニック行って、薬をもらって、家で休んだり、餃子を包んだりしていた。
最近実家の母に癌が見つかって、術後の一ヶ月ほど身の回りの手伝いをしに帰郷していたのだけれど、それでちょっと疲れたみたいだ。 術後一週間くらいでは退院し、現在は経過観察中だが、あまり家と職場をあけるわけにもいかず、戻ってきた。家事って意外と体力使うので、無理して悪化させないか心配だが、まあでも概ねなんとかやっている様子。
こういうのをブログに書くのは苦手で。
基本的に、「誰かの不幸せに 僕の涙はいらないから」という岸田繁の書いたように、ブログを見てくれている方に、無為にご心配をかけるというか、心配することを求めるようなことがしたくないのだと思う。
それにしても、餃子。
この前の週末に旦那さんと見た「トイレット」という映画に影響されている。「かもめ食堂」の流れだが、あれよりかなりPOPで観やすいしなかなかにいい映画なので、是非。
こういう作業はとてもおばあちゃん的だなと思う。さやいんげんの筋を取る、とか、もやしの根っこを取る、とか、うずら豆をさやから出す、とか、そういう、台所に立つのではなく椅子に座って内職のようにやる手仕事。
出来合いの餃子がいくらでも売っているような時代に、家事に手間暇かけている感じ。
丁寧に、手早く、きれいに。しかもいま絶賛咳込み中なので、のどにハンカチを巻いている。ますますおばあちゃん的である。まだ、ねぎは巻いていない。
で、餃子。
薄い皮を手のひらにのせる。
ボウルから具をスプーンですくって皮の中心より気持ち右側にのせる。
ちなみに具はむきえびの叩いたやつと鶏ひき肉とにんにくとごま油と醤油と片栗粉をそれぞれ適量まぜたものにした。
皮の縁に水をつける。
一旦皿に置いて、右からひだを作りながら皮を閉じていく。
破れがないか確認して皿に並べる。
こういうことをするとなんとなく、丁寧に生活しているような気がして。
それでこうして真っ白なダッシュボードに向き合う気持ちになったのかもしれない。
文章は、前の更新と間があけばあくほど書き出しにくくなる。どんな精神状態でどんな言葉をつむぐのが一番適当なのかということを掴みにいくのが遅くなるのである。
散漫だけれどやっと文章を書けた。
それに、最近わからなくなっていた自分が今聞きたい音楽を見つけ出すこともできるようになった。
今は、おはようまだやろう/ゆらゆら帝国 です。
餃子作ってよかったな。
April 20, 2012
haru
押し黙る季節。
沈黙ということ。
適した言葉を見つけることが出来ない。
そもそも言葉を発するのが適当でないと感じる。
何か言葉にした瞬間に後悔してしまう気がする。
本当はそうではない、と次の瞬間に言ってしまいそうな気がする。
そうした態度を見せることが一切正しくない気がする。
確かなものだけが手の中にあり。
それを握り締めている限り大丈夫。
そんな風に思う。そして押し黙っている。
「絶対」の脆さを測りながら拒んでいたこと。
椎名林檎の「ギブス」という曲をはじめて聴いたのは高校生の頃、理解したのが大学生の頃、腹落ちして自分自身の思考となりかけたのが院の頃、開放されたのが社会人1年目、手のひらに載せることが出来てきたのがここ最近。
---------------------------------
あなたはすぐに絶対などと云う
あたしは何時も其れを厭がるの
だって冷めてしまっちゃえば 其れすら嘘になるじゃない
---------------------------------
「絶対」を信じたが、実は「絶対」が無いことを悟り、しかしその「絶対」を求め、さる後に「絶対」を諦め、「絶対」という概念自体を厭い、「絶対」という概念を意識的に忘れ、「絶対」という概念を思いつくという事象の方へ興味が移り、「絶対」は一概念としてつまり「信念」とか「快楽」とかそういったものと同じレベルまで落ちてきて、やっと「絶対」の呪縛から解放される。
そうして得たとても大切なかたまりを、かけがえのない確信を、私は「絶対」と呼ばずにおこう。
沈黙ということ。
適した言葉を見つけることが出来ない。
そもそも言葉を発するのが適当でないと感じる。
何か言葉にした瞬間に後悔してしまう気がする。
本当はそうではない、と次の瞬間に言ってしまいそうな気がする。
そうした態度を見せることが一切正しくない気がする。
確かなものだけが手の中にあり。
それを握り締めている限り大丈夫。
そんな風に思う。そして押し黙っている。
「絶対」の脆さを測りながら拒んでいたこと。
椎名林檎の「ギブス」という曲をはじめて聴いたのは高校生の頃、理解したのが大学生の頃、腹落ちして自分自身の思考となりかけたのが院の頃、開放されたのが社会人1年目、手のひらに載せることが出来てきたのがここ最近。
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あなたはすぐに絶対などと云う
あたしは何時も其れを厭がるの
だって冷めてしまっちゃえば 其れすら嘘になるじゃない
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「絶対」を信じたが、実は「絶対」が無いことを悟り、しかしその「絶対」を求め、さる後に「絶対」を諦め、「絶対」という概念自体を厭い、「絶対」という概念を意識的に忘れ、「絶対」という概念を思いつくという事象の方へ興味が移り、「絶対」は一概念としてつまり「信念」とか「快楽」とかそういったものと同じレベルまで落ちてきて、やっと「絶対」の呪縛から解放される。
そうして得たとても大切なかたまりを、かけがえのない確信を、私は「絶対」と呼ばずにおこう。
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