September 1, 2009

派派

今週の、ダーリンコラム(ほぼ日の)で、「派は、いらない」っていう文章があった。

海派、山派?
犬派、猫派?
‥‥みたいなこと、よく言うでしょう。
対立して、それぞれの立場をよく言って、
相手のことを批判しつつ聞いていくと、
おもしろい考えがたくさん仕入れられる。
というようなねらいがあったんでしょうかね。

でも、言うことがだいたい決まり切ってくるんだよね。
よく言いそうなことを、ただ言い合う。
これが、あんまりおもしろくないんだ。
昭和の時代のおやじたちが、呑み屋で、
「おれは信長だ」だの「おまえは家康」だのと、
唾を飛ばして言い合ってたんだけどね。
そういう、ある種の、素朴な「ことば遊び」なんだよな。

てなわけで、派で遊ぶのは、もういいんじゃないの?という感じのコラムだった。

私はつぶあんかこしあんか、と言われれば、断然つぶあんなのだが、つぶあん派に何も属さなくったって、なにもこしあんを目の敵にしなくたって、と言われれば、そりゃあそうだ、と言わざるを得ない。以前に書いた属することっていうエントリにも通じるのだが、属することによって仲間意識でうれしい!ってこともあれば、無理矢理敵意を抱くっていう契機にもなりうるということのささやかな証左。

関西では、関東では、九州では、東北では、こうだ!っていうやつ。ドロケーだ、ケードロだ、マックだ、マクドだ、エスカレーターは右だ、左だ、的なのに似ている。まあ、似てるなって思っただけである。

派閥っていうのは、属するためにわざわざ作るようなものだなと思う。出身大学まで、学閥にしてしまう。仲間意識っていうのは楽しいんだけれど、排除を伴うと寂しい。というか勿体ない。

派ってのは、組織なり構成員の数が大きくなればなるほどできやすいものだろうなと、まあ自民党を見て思ったわけだけれど。いや自民党に派閥ができるのはそれだけではなくって、その歴史の長さと、政権与党であったがゆえの行政との関係もあるとは思うのだけど。


昔は女子の方が派閥を作りやすかった、と思う(今は逆だと思う)。私はその派閥が全然好きではなかったのだが、なんか組み込まれていて、一緒に帰るとか、教室移動は一緒だとか、同じクラブに入るとか、そういうのがあって、別の派閥の子と帰ったりなんかすると、気まずくなったり、激しいと糾弾されたりするのだった。意味がわからん。小学校や中学校で顕著だったけれど、ああいう幼い頃というのは、より動物寄りで、なわばり争い的な本能めいたものがあるのだろうか。だとしてなぜ性差があるのだろうか(あるような気がするのであるという前提を置いている)。

男の子たちは、仲良しグループはあっても、排除し合っていなかった気がする。女の子は排除し合っていた気がする。裏切りとか、言われた気がする。もしかすると、恋愛のときに生ずる独占欲を、恋愛という過程以前のものとして、友人に向けているのではないか。仮説。あくまで仮説。ドラフトのドラフト。

恋愛というものを考えていた時に、結構前だけど、ああ、恋人をつくりたいっていうのは、何をおいても私を優先してくれる人を作りたいってことなのか、という結論を出して、その思考過程をそのまま口に出していたら、一緒にいた友人に、「当たり前じゃん」と言われた。そういうものを、小さい女の子は友人に求めているのかもしれない。女の子は、小さい頃も今もそういう対象を必要としていて、それが恋愛以前は友人に、以後は恋愛の相手に、求めると。男の子は、そうでもないと。仮説。

で、私は今ではこの「当たり前じゃん」と言われた考え方とは違う考え方をしている。いや、「恋人をつくりたい」というときはもしかすると、優先して一緒にいてくれる人がほしい、ということなのかもしれぬ(そういうケースもある)。でも、実際「恋人ができる」ということはまた別で、優先して一緒にいてくれる人だから恋人になるわけではない、勿論。恋人ができるというのは、なんというか、インスピレーションの問題で、そういうことを吟味している場合ではないというか、些細なことというか、同価値性がないというか。つまり「そのひとを好きである」ということと、「一緒にいてくれるか」ということは、言うまでもなく前者のウェイトが無茶苦茶に大きいので、意味無いね、ということ。

に、しても、脱派閥か。どっちDo you like的な話を、派にして遊ぶのは、でもやってしまいそうだなーって思う。

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