October 27, 2009

手紙/沈まぬ太陽

これはちょっと今書かなければならないので、書いておく。

数日前から、苦しい。重苦しい。

妹二人の抱える問題のことが大きいが、重なって東野圭吾の「手紙」を読んでしまったことと、映画「沈まぬ太陽」を見てしまったことによる大きな衝撃及び突きつけられた生き方への疑問的なものによって、大きなダメージを被ったからである。

妹たちの件に関しては、その周囲の悪意ある人間たちに腹が立っていて。これは私が腹を立てても仕方のないことなので、解決法を一緒に模索することや感情を共有してあげることを主にしている。しかし彼女らは我慢する。私だったら何か投げつけていると思う。

で、「手紙」。
これはメディアマーカーとmixiでレビュー書いたが、いい意味で重い。苦しいけど、よかった。表現に凝る作家というのは、表現がその本質であったりするので、先を急いでしまうことがない。しかし表現でなくストーリーで読ませる作家というか、ドラマ性のある作品は、話の筋が気になってつい情景の描写を読み飛ばしてインパクトある単語や台詞を拾っていってしまい、フォトリーディングっぽくなってしまうことがある。この作品はその手のものだった。

少しずつ読んでいくごとに心が重苦しくなる。テーマを外れることなくずっと目の前に描き出している。最後の直樹の兄への呼びかけは、心の芯に問いを投げかける。私は、このまま終わらせてはいけないと直感する。

罪と罰である。
家族である。
社会である。
私はこれらを一旦総括して、どういう生き方をするか決めねばならないと思っている。これは今まで実は眼前にありながら咀嚼できず、見ないふりをしていたものであって、しかし恐らくは自分のコアに関わる、自分を突き動かすものに関わる話だと感じる。もしかしたら自分の中にはもう答えがあるかもしれない。それを見つけ出して意識しようと思う。
中学生や高校生の頃はできなかった。大学でも院でもできなかった。けど今なら結論を出すことができるはずだ、となんとなく思う。


「沈まぬ太陽」もまた、私にとっては衝撃だった。
私はこういういわゆる「熱い」映画については、まずは製作者たちの思いを受けとめることにしている。伝えたいことがある、と感じるものについては。
渾身の一撃を食らった感じである。

そしていろいろなものとタイミングよくリンクしたというのもある。
作品中には、日航機墜落事故が出てくる。クライマーズ・ハイ。「沈まぬ太陽」の作者もまた新聞記者であったことは興味深い。そしてその山崎豊子は「白い巨塔」の作者であり、構図としては二人の男のそれぞれに違う道を歩む様が、里見と財前と重なる。
労組側に偏った作品との見方もあろうが、事実懲罰人事や事故は起こっているし、まあそれは日航が悪いとか労組が悪いとかはあんまり関係ないことの方が私が考えたいことなので措く。

そしてこれもまた、犠牲となるのは家族である。「手紙」。家族を守るために、全てを捨てるべきなのか(妹曰くアメリカではそれが最も理想的な男のあり方なのだとか)、そうではなく家族を犠牲にしてでも信念を貫いたり、同志を裏切らないのがあるべき姿なのか(日本はどちらかというとこっちが理想とされがちに思う)。

これに加えて、会社とは何なのか、少し前に書いた、働くとはどういうことなのかということ。
やはり、父親と重なる。

俳優陣もいい。香川照之の役が凄絶である。
3時間半の長丁場だが、お薦めしたい。途中10分休憩がある。

October 26, 2009

更新頻度/或る日の会話/メモ

なんかあのブログって、「更新頻度下げます」って書いたら、更新頻度上がるような気がすんねんけど、みたいなことを、某氏に言われたのですが、遺憾なことに全くその通りで、更新頻度を下げますと書くのは、更新頻度下げるぞ、という決意を表明することによって外からの監視というか、書けない状況に自分を追いやろうとする作戦なのですが、全く効き目がなく、益々欲望のままに書き連ねるという人間的な弱さを露呈してまいりました。なんだ書いてるじゃん、っていう突っ込みは、私にとって、何でもなかった。何のリスクもなかった。そこに早く気がつくべきだった。

しかし、今度こそ、今度こそは、更新頻度下げます。いつもと何が違うのか、それは聞くなかれ、お客人。
更新頻度というか、更新日数を下げます。一日複数postもあり得るけれど、更新に使う時間を短縮する。


そういえば昨日は、ハモりが多い日だった。
異口同音になること、同じタイミングで同じ言葉を言うことだけど。
テレビで「明日の記憶」がやっていて。
これ見たし、もう消そうか、といって消し、DVD playerでCD聴こうということになり。

妹1   「入力何だっけ」
私と妹2 「「2」」
私    「いろいろあるよなあ」
妹2   「何が?」

(間)

私と妹1 「「人生。」」
妹2   「うわー」


あとは家族を家電にたとえると何か、とか。
「お父さん何だろね」
「洗濯機!」
「それ洗濯してるからだろ!(洗濯の大抵は父が仕切っている)」
「じゃあテレビ!」
「見てるからだろ!(父が視聴時間最長で、母に怒られる)」
的な。あと楽器に例えると何かとか。
「学校で生徒に、トライアングルって言われたんだけど」
「微妙だね」
「微妙だね」
「ピアノとか木琴じゃない?」
「でも結構フルートって言われるよ」
「「あー」」
結構フルートに似てるって言われるってすごいな、と思いつつ。

あとユニフォームが揃った!とか。(説明しよう。うちには家着として同じ無地のTシャツが何枚もある。白とグレーがあって、白は数が少ないし、あんま着ないのでアウェー用、グレーをホーム用ユニフォームということにしている。大体、家着なんだからホームしかありえないのに。で、これは誰でも着ていいことになっている。私は大抵そのTシャツを着ているのだが、これが家族全員揃うということがなかなかなく、いつも一人みださー(乱す人)がいた。しかし遂に昨日、全員同じTシャツを着ている状態になった。)
写真撮ろうとか言ってたが、妹の不手際のためSDカード不在で断念した。

しかし院で昔同じようなことをしていたのを思い出した。クラスの友人たちと黒ポロデーと銘打って、黒いポロシャツ着てこようよ、って8人くらいで一緒に学校に着て行って写真撮った。歴史は繰り返す。

ユニフォーム記念日は10月26日に決定した。
いい語呂あわせを考える、みたいになって、もうとめどない。
そういう日々。楽しい。
でも各々問題を抱えているのだ、実は。家族の話はまたいつか書こう。


考えていることメモ。
・火の鳥。永遠ということ。
・手紙。差別ということ。
・家族。困難ということ。

October 24, 2009

Whisky loves Music.

そしてまた今日もタワレコに行ったわけですが。
何なんだろう、多分田舎者だからなんだけど、タワレコ行くのって嬉しい。
更に言えば、あの黄色地に赤でTOWERとか書かれてるのとか、わくわくする。いやわくわくというか憧れ?格好良さの象徴?ポップなくせに格好良くて、メリハリ効いてて、TOWERなんててっぺんを意識させるような文字列で、いい大人が揃いも揃って”NO MUSIC,NO LIFE.”とか言ってて、こいつらすげー格好いいよ、って思ってて。別に音楽に共感できなくても。

で、今日も今日とてタワレコのポスター(アーティスト撮ってるやつ)がかっこよくて。前より写真がいい。やたらかっこよく撮れてる。で、いいなあってまた思った。かっこいい以外の形容詞が見つからん。

ポスターはこんな感じ
この中だと、indigo jam unitとかエレカシとかいいですね。エレカシの人はですね、早稲田に住んでたから、帰り道見たことがあります。ちっこい神社の立て看板を凝視していました。
永ちゃんもいいね。

で、今度タワレコ行ったら是非bounce11月号を手に取って、真ん中らへんを見てください。
TOWER RECORDS×SUNTORYの広告が、なんかよかった。
一種類のウイスキーに一組のアーティストで、”NO MUSIC,NO LIFE. NO MUSIC,NO WHISKY.”って書いてあって。インタビュー付きで。
エゴラッピン、坂本龍一、山崎まさよし(勿論ウイスキーは山崎)、斎藤和義、Port of Notes、大川毅とワタル・バスター。
確かに、NO MUSIC,NO WHISKY.
合ってるかも、と。
NO MUSICでウイスキーってなんか違うなと。

あ、ついでだけど、サントリーのサイトのWHISKY on MUSICのページの写真がかっこよかった。
これ。



で、無知なままウイスキーとか飲んでるのですが、グレンフィディックとかマッカランとかボウモアとかラフロイグとか、これ全部サントリーが販売してるんだ、と知った。すいませんでした。
なんというか、サントリーっていいよね。広告とか扱ってる商品とか好きですね。ハーゲンダッツとかね。
あと東京支社?サントリーフーズ本社?の立地ね(台場)。閉鎖会社なところとかもね。でもキリンと統合するっていうんでそれは無くなるんだろうけどね。

接吻

世界の名画、みたいな本が家にあって、それに載っていたのを見たのが最初だろう。クリムト。

中学の頃は変わった絵だなとしか思っていなくて、それよりもっと変わっている、ダリとかの方がインパクトで。中学生の美術の時間に隣だった子がダリ大好きだったけど。

美術の時間しか絵に触れなかったし、周囲には絵描きもいないし、絵好きも(多分)いないから、絵のことは全然知らない。無知蒙昧。~派といわれたところでわからない。そんなことは文学であろうと書であろうと彫刻であろうと、あらゆる芸術においてそうなのだが、芸術というものは、考えるな、感じろ、の世界であると勝手に認識し、いかなる表現も受け手の取り方に委ねられているとさえ、思っている。
でも、背景を知ればもっと面白くなるだろうな、というのは思う。

で、クリムト。
私はその後、つまりその本で見て以来、特にクリムトとは縁のない生活を送っていたが、ある日、何かの拍子でクリムトを検索する機会があった。恐らくはネットサーフィンの過程でであろう。

クリムトの代表作「接吻」は、圧倒的な幸福感を伴って私の前に現れた。
中学生の頃には感じきれなかった、幸福が眼前に迫っていた。小さなディスプレイの中にもかかわらず。
恋をする、という経験が、その幸福感をしっかり感じ取るようにさせたのは明らかだった。多分何人もの人が、この絵の中の女性と自分を重ねたと思う。黄金と花のような模様とで彩られた、同じ布にくるまって。
私には当時恋人がいたのだろうと思う(はっきり覚えてないけど想い人はいたはず)。

そして、今この絵を見て感じるのは、一瞬の輝きのようなもので。
当時ほど感情移入できないのがかなしいけど、やはり美しい絵であると思う。
変に大人になってしまったというか、一歩引いてしまったというか。

歌の歌詞なんかが、経験を積む間にわかるようになる、というのはあるけれど、絵でもそういうことがあるなあと、まあ当り前ながら思った次第。そうしてそのわかった!感が、遠くになってしまうこともまた、あるのだなという。

何故かこういうエントリが続いてしまった。
ちなみにクリムトのことを書いたのは、目の前にクリムトの絵のカードがあるからである。他意ない。

そういえばクライマックスシリーズ巨人勝ったね!とか書けばよかったのかなー。

※参考
クリムト:接吻

October 21, 2009

男女間の友人関係の成否について

これ伊坂幸太郎の「陽気なギャングが地球を回す」にあったなあ、なんて懐かしく。
虚構新聞:「2と1は等しい」 数学界で論議

結局この問題、あの本の響野の解説でふうん、って終わってしまったんだけど、納得はしてないよなあと。

ああ、そういえば、全然話違うけど、男女間の友情は成立するかっていう話が出て。これもまた、古い議論ですが。
これは自分の中では結構前から答えが出ていて。というか処世術を身に付けたというか。
これ、また定義問題に行くなぁ。多分「全ての問題は定義問題に帰着する」っていうのはこういうことだろうと思う。

私は成立すると思う。というか成立している。現に。でないと男の子と友達になれないではないか。そうでなければ常に恋人もしくは恋人予備軍ということになろう。そんなことあるわけない。世の中に何人異性がいると思っているのだ。出会う男性片っ端から全員恋人か恋人予備軍なんてことはありえない。とか思うわけで。

屁理屈をこねれば、同性愛者の男女間は恋愛関係に陥ることはないはずだ、とか。
(これもまた男とは何か、女とは何か、という定義問題に帰着させることはできる。趣旨違うのでしない。)

で、定義問題になるというのは、その「恋愛感情」というものをどの程度のものからそう呼ぶかということ、がまずある。恋愛感情とは何か。

あと、友情と恋愛感情は互いに排除し合うのかというのもある(私はこれは互いの範囲がかぶると思う。というか限りなく、恋愛感情は友情に包摂されると思う。感覚では。)。
だから、排除し合わないということなら、恋愛に陥ったって友情は成立している。両立する。
まあ多分、この問題提起者は「友情かつ恋愛の場合は恋愛とみなす」、という主張なのだろうけど。


あと、友情というものの定義だ。
人間の関係性というものは、関係というくらいだから複数の人間が関わる。二人だとしたら、そこには2つの主観があり、友情を感じているかいないか、それがどういったものかという主観は2種類あることになる。
それらが両方「友情」だと合致したときのみ、友情は成立するのか。
つまり片方が「恋愛」で片方が「友情」の場合は友情は成立しないのか。ということ。

結論から言うと、私は片方で「友情」と思ってればそれは友情成立ということになる。結局「恋愛」というのは互いの主観が合致しないことには恋人になりえないわけで、なりえない以上、関係は友人なわけで(まあ他人になることもあろうけど)。そういう意味で、その関係性を「友人」にしておくことが可能だと思う。


でもまあ、多分、この問題は、両方が恋愛感情を持たないということがありうるのか、という意味だよね。わかってるよ。
これはまた恋愛感情の定義の問題にしとこう。
でも、友情、あると思うけどな。結局気持ちなんてものは自分にしかわからないわけだから、証明できない。


今思いついたけど、関係性と感情は分けて考えればよいのか。前者は2つ以上の主観が関わっていて、後者は1つだ。
だから、「恋愛関係」「友人」とかは、両者の合致が必要で、
「恋愛感情」「友情」なんかは一方的でも成立する。

上述までの部分を書きなおすのは面倒なので以下結論。


男女間の「友人関係」は成立し、継続することができる。
男女間で「友情」が各々に発生しそれが継続することもある。
男女間で「恋愛感情」が各々に発生することもある(継続するかどうかについては懐疑)。
男女間で「恋愛感情」が発生しないことがあるかについては、各々の主観の問題なのでわからんけど、私見は発生しないこともありうると思う。


というわけで、友情素晴らしい。友愛友愛。
ちなみに、更に上位概念として、愛情があると思う。愛情の中に友情があり、友情の中に恋愛感情がある(ちょっと外れる時もある)のではないかしら。絵が描ければな。


※追記
この問題を考えることの実益って何かしら。
異性と友達になれるかどうかわかるということか?
恋人に異性の友達がいるときに恋愛に発展する心配をするかしないか決めるのか?
よくわからないけど、これ成立しようがしまいが、どっちでもいいなーと、思った。のにこんなに書いてしまったことへの自分の悪い癖を自戒。

October 19, 2009

郵便につながってあれこれ

先日お手紙を頂戴して、嬉しく読んでいた。

一部では、というかちょっと前に堀江氏が郵便不要論をつぶやいていたのだけど(ブログエントリはまだ読んでない)、郵便が不要な人は不要だろうけど、必要な人は必要だ、と当たり前のことを思う。

なんというか、これ不要じゃん、とか、代替可能じゃん、とかって、それはそうなんだけど、制度を語る際には、全体にそれが適用されるんだってことを考えるべきだよなーと、自戒を込めて思った。大人も、子どもも、おねーさんも、だ。おじいさんもおばあさんもね。何かが変わる、というときに置いて行かれがちなのは、多分弱い人たちなんじゃないかと何となく思う。
同じことで、テレビ不要論もあるわけだけど、で、私も今の民放好きじゃないからよくわかるんだけど、テレビが必要な人の方が多いと思う。当り前か。特に、ネットを使えない世代とか人々にとっては、多分テレビは重要な情報源だということが言いたい。
今は、テレビのスイッチを押したら何かしら映って、あとはチャンネル変える、と、音量調整、くらいの操作しか必要無いわけで。その人たちがテレビを見られなくなるというのは、やっぱり駄目だよなあと思う。
糸井さんも前に、テレビ観ててわからなかったことがない、ということを言っていた。誰にでもある程度分かるように、編集して流しているのだと。そうだなーと思う。テレビの罪というのも勿論あるけれど。
あと、テレビは、無料だ(消費の過程で取られてるかもしれないけど一応)。

いや彼は彼のキャラクターで、政治家でも何でもない立ち位置で言ってるってわかるから、いいと思うんだ。影響力ありそうだけど。というか、彼すごく負けず嫌いだなーと思う。


で、郵便は、私には必要で。
紙に文字書いて、包んで、切手貼ってポストに入れたらOKっていう手軽なシステムがね、その間に生じるタイムラグがね、家のポストに入ってるのを見つけた時の嬉しさがね、葉書及びその紙包みの質量がね、必要なわけだ。
働いてるときなんか何度それに救われたかわからん。

貰う側だけでなく、書くときだって楽しい。
前も書いたけど、パソコンと違って修正がきかないところも、勢いにまかせて書いちゃったところも(ブログでも多々あるが)、汚い字も(ごめん)それぞれ味がある。そもそもレターセットを選ぶっていうのは小さい頃から心踊るものだった。近所にいい文具店がほしいといつも思う。沖縄に足りないものは、いい雑貨屋と文具店だ。

まあ実は、今となっては、手紙を書く相手は一人だ。年賀状を書く相手やメールをする相手はいても、手紙となると一人だ。なんで彼女とはメールでなく手紙なのかは、関係の形成過程に手紙というツールがあまりに多く利用されたからであろうと思う。一応メールをしていた時期もあったけどな。
同じ言葉でも、口に出すことと、紙に文字で書くことが異なっているということをわかってたなと思う。

で、忙しくなっても、手紙を書く人でいたいなと思うという話。

文字は、書いた方がいいなと思う。なんとなく。
手紙をたくさん、本当にたくさん書いてきた。小さい頃から、宮古島に住む祖母だとか、転校する前の学校の友達や、同じ小学校の友達にすら。私は二回転校しているので、そのことも関係しているのかもしれないし、でも携帯が普及するまではみんな手紙をやりとりしていた、常に。手紙という手段は、私にとっては親しみ深い。
あと、文字が、特に自分の手で書いた文字の集合が、自分の分身みたいな気がするというのもある。自分の中を通ってきた言葉だし、文字だ。ものを作ってる感覚というか。パソコンで書いた文章をプリントアウトしてみたところで、自分じゃない気がする。ぱっと見自分のだとわからない。

余談だが、院時代も板書は手書きでとっていた(しかし理由の90%はワードを使いこなせないため。関係図とかで手間取る。今となればパワポでノートをとるかもしれん)。
法史学の時間にはA4の白紙に5枚くらい板書をとったので、いつも腱鞘炎になりかけた。
しかし、私はノートの取り方が壊滅的に下手らしい。後で見てもよくわからない。というか、授業というもの自体がほぼ議論中心なので、そうそう体系的に進むわけではなく。問いだけが羅列してあり、結論が出てないとか。直後に見ないと意味をなさないメモみたいなもので。
復習というか、まとめる時間が必要だってことだな。

で、結論としては、手書きとかかなり好きです、ということ。でいいのか。

October 16, 2009

「権利」について

先のエントリにも関連するのだけど、法律をやっているせいで、多分そうでない人よりぽんと「権利」「義務」「責任」「保障」「賠償」なんて小難しいようなシリアスなような言葉が出てきているのかもな、という気づき。
いや実際は小難しくも特別シリアスな顔をしなくてもいいんだけど。

院とかだとあんまり気にならないというか、そういう言葉を使ってもその言葉の意味するところとか、重みが共通しているので、うわ権利とか言っちゃってる、とか、賠償責任?なんか怖そう、なんていうことはないわけだけど(授業でやってるわけだし、それらの言葉を使わないとそういう会話できないし)、そうでない人と話す時に、これはこういう制度になっててとか、こういう趣旨で、とかいうことをつい小難しい言葉でやってしまい、家の中でも、父以外の家族とかに「?」って顔をされたりする。

なんでそういう言葉を使ってしまうかというと、簡単だからだ。説明をすっとばせる。そういう言葉というのはややこしい概念を一語で表したものだから。

で、多分他の学問でも同じだ。そこだけで使われてる専門用語ってのはある。
理系だと割にわかりやすいのかもしれない。SN比とかさ。あとは知らないけどさ。そういう。
SN比って一語で通じればそれですむのに、文系の私がいたためにSN比の説明をさせることになったという、そういう話。

ずっと前に、哲学専攻してた人と話したことがあって、その人が言う「超越」という言葉の意味が、私の理解している一般的な意味ではなくて、全然かみ合わないということがあったりした。
文系学問の専門用語は、多分一般的にも使われている言葉なのに意味が違うということがきっと多いんだろう(推測)。


法学でも、民法の時間に最初にこういうのを習う。

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「善意」「悪意」という言葉が民法上出てきますが、これは一般的な意味とは違います。「善意」は知らないという意味で、「悪意」は知っているという意味です。
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知ってるだけでめっちゃ悪い人みたいなのだ。ちなみに、事情を知ってて(本当はこの土地、この人が持ち主じゃないぽいけど買うみたいな)さらに害意がある人(本当の持ち主に恨みがあって困らせるために買うみたいな)は「背信的悪意者」で、もうかなり悪い人っぽい。「背信」「悪」。まあ悪いんだけど。

あと、「推定する」と「みなす」の違いとかね。
こういうのはばっちり区別できるし明解なのだけど、ニュアンス的に違うんだよな、っていうくらいなら多分山ほどある。法学上では、やたらと何もかも定義されているのである。憲法とは何か、形式的意味の憲法、実質的意味の憲法、とか、行政とは何か、とか、契約とは何か、とか。


で、「権利」とかって普段使う場合は、新鮮さがないというか、「権利」という言葉におそらく内包されているであろう、高揚感とか、自己や他者に対する敬意とか、意志的なものとか、そういうのは感覚的にない。あーそれ不法行為構成で人格権で差し止めしてさ、とか、その権利保護要件ってさ、とか、技術的な話で。用語として使っているわけだ。伝わるかなぁ。

だから、労働は権利なんだよなー、っていうのは、確かに憲法上保障された確固たる権利なんだなーって意味だけれども、文脈的に「労働は権利だ!」「私は労働する権利を持っている、ゆえに働く!」っていう風に思っているわけではないというか。あー伝わるかなあ。エクスクラメーションマークで伝わってほしいなあ。


日常的に、これは私の権利だ!って雄々しく思う場面はそんなになくて。
幸せが語られる時みたいに、権利もまた失って初めてその尊さに気づくものなんだろうと思う。
薬害とか、公害とか、選挙行けないとか、店を営業できないとか、働けないとか、人ごとだと思ってるけど、自分がそうなったら、目の前にその人がいたら、権利があったことに気づくと思う。
そうした時に、雄々しく「権利」を思うのだと思う。

October 15, 2009

労働について

労働って、権利なんだよなーと、今更ながらに思う。

しかも憲法で保障されている権利なんだよなと。

具体的に、A社は私に仕事させろ、とかいう権利はまあ無いわけだけれども、少なくとも国家が労働の機会を保障する政治的な義務はあるというのが、憲法学上の通説的見解ではあるらしい。

多分この労働の権利なるものを習ったのは小学生か中学生かの社会科の授業だったと思うのだが、労働が権利と言われても、ピンとこなかった。労働というか、お手伝いとか作業自体はやっていたけど、それによって対価をもらうという経験がないから当り前ではある。働くことが権利?って感じである。

初めて給料をもらったのは、高校生の頃だった。推薦で大学が決まったので、3月まで塾で中学生のチューターをやったのだった(校則で禁止されていたのかは知らない)。時給がたしか1400円で、結局月末に手渡しで5万円位もらえた(当時自分のコントロールしている口座は無かったから)。高校生に5万は結構大金である。というか、高校生の私に。
その時、ああ、働くってことは、お金がもらえるってことなんだなあとなんとなく実感した。その5万が何に消えたかは全く覚えてないのが無邪気なところである。

で、この、労働とお金が結びつくわけなんだけれども。
大学院を出て、いざ働いてみると、労働とお金は結びついていないような感覚を覚えたのだ。
いや、現実的には結びついているし、モチベーションのベースになっているのだと思うが、給料のため!と思って働いているわけではないというか、そんなこと経理の芳川さんが明細を各デスクに配る時に思い出す程度というか。
働くというそのこと自体がやりがいであり、自己実現であり、楽しい。何も対価がないのにパズルを解くとか、スポーツをするとか、そういうこととほぼ同列というか。いやそれよりも面白い。ずっと複雑だし、期待にこたえる、貢献している、という感覚がある。叱られるのは嫌だったけど、叱られることというのは大概、発展だった。

逆に、DS購入のための出費を補うために短期バイトをしたときなんかは、今日の1万のために、と何度思ったかしれない(いろいろあって、ノリで買ってしまったので予算に計上していなかったのだ)。あれは確実に給料のために労働していた。


最近ベーシックインカムという構想を知った。
これは、国民全員に一律で国から最低限生活できるお金を配る、というもので、年金制度とかは吸収されることになる、らしい。財源は税。だから、働かなくても生きていけるけど、その分のお金は働く人が税金で払う。働いた人は税金も取られるが、自分の自由になるお金は働いた分増える。つまり、最低限の生活は保障された上で、それ以上の生活がしたければ働く、という感じだ。
wikipediaも定義が数行、という段階なので、文芸春秋編 日本の論点PLUSでの記事をリンクしておく。

これが導入されたらどうなるんだろうなあと思ったのだが。みんな働かなくなるんだろうか。
共産主義の例はあれど(あの国々で何が起こっていたのかは勉強不足でよく知らない。今キューバとかで何が起こっているのかも。)、このベーシックインカムの場合は資産がとんとんと均されるのではないし、商品やサービスの多様性も無くならないからな。

で。働かなくていいよ、と言われても、働きたいと思うと思うなあ、ということ。その仕事が好きであればだけども。そのゲームやる必要ないよ、と言われてもやってしまうように。お金は関係なく。
というかお金の面でも、最低限の生活で満足しない人なんて沢山いるんじゃないかとも思う。
一方で病気とか怪我とかで働けないという人もいるわけで。


前に父とした会話を思い出す。
私はその時その仕事が気に入っていて、働くということが面白くて、働きたいから、社会に貢献できるから、働くのだと思っていた(今もかなりの割合でそう思っている)。
しかし彼は、「違う。食べるために働くんだよ。」と言った。
彼にとっての労働は、一次的には家族を養うためのものだった。彼は今までの過程で、そのためにいろいろなものを諦めたに違いなかった。
それが、成り立たなくなるとしたら。働かなくても食べていかれるとしたら。


まあ、実際どうなるのかはやってみなければわからない。面白みもない話だが、財源の問題もある。
そしてものすごく革新的で、推測するには社会、経済、教育、心理等々、影響が多岐に渡り過ぎる。全てのプレイヤーが利害関係を持つというか。
何にせよ、面白い構想だと思う。


余談。
昔のギリシャを連想した。
奴隷制を敷いたが故に、学問が発達したと。
最低限の生活が保障された時に、人々は何を生み出すのだろう。なんて。

October 13, 2009

TOWER RECORDS

久々に那覇の街に繰り出した。

買物は一人に限る。
と、いうのは、一人なら興味のあるものだけを好きなだけ吟味できるし、集中できるし、疲れたら休めるし、つまりコントローラブルだからだ。
そして今日の目的は本屋とCD屋だったので、尚更であった。

しかし、本もCDもAmazonでOKな今、久々に出向いた。特にタワレコ。
超なつかしい。タワレコ那覇店なんて高校以来かもしれない。

高校時代はCDを買うお金もないのに、試験後の開放感に乗じてよくタワレコに行った。
試験と時限数がやたらに多い学校ではあったが、皆陽気でよく歌を歌っていた気がする。

タワレコに行って何をするかというと、当時聴いていた米軍のラジオで流れている洋楽のCDを視聴するとか、友達とCDを薦め合うとか、やたら熱い手書きのポップなんかを読むとか、そういうことだったりした。なつかしすぎる。
タワレコは地域によってカスタマイズが激しいというイメージで(あくまでイメージなのだけど)、沖縄なら沖縄のアーティストをプッシュしていて、バーンとでかくディスプレイしてある。沖縄でだけ流行っている人たちというのもいる。多分どこの地方でもそうなのだと思う。皆いろいろ聴いてたけど、高校ではハイスタがかなり流行ってた気がする。

そんな中、私の目当てはbounceだった。
これはタワレコのフリーペーパーで、というかペーパーというには厚い、雑誌だ。100ページ弱はある。
その月にリリースされたCDの情報が、マイナーなものも拾ってあって、インタビュー記事とかいろいろ載っている。洋楽が多い。タワレコだもんね。
私は全然知らない人ばっかり載っているそれらの記事にはほぼ見向きもせず(知らないアーティストのアーティスティックすぎるセリフを読むほど暇ではなかった)、広告面ばかりを見ていた。
お気に入りはJUDY AND MARYのPOWER SOURCEの広告だったな。
知らないアーティストでも、広告がよければとっておいた。
それで、高校生活のせめてもの潤いにと、表紙もクリアなバインダーの裏側から貼り付けて、表紙にしていた。そんなことでも数学の時間が彩られるから素晴らしい。
皆それぞれに机の上を賑やかにしていた。文具に凝る子もいたし、バヤリースの缶をペン立てにしていたり(なつかし)、ムーミンの貯金箱を置いといたり(これは私だ)、そういや雑誌とか漫画置場もあったな。ベルセルクが並んでたな。

と、久々のタワレコがちっとも変ってなくて、本当にレイアウトもそのまんまで、でも高校生の頃は行かなかったジャズの棚の方へ足を踏み入れた私の方が変わったのだと気づいて、感慨にふける秋。

October 11, 2009

イノベーションというのは、往々にして起こそうと思ってそうなったわけじゃないんだよ

暑い暑いと言いつつも、秋めいてきている今日この頃。沖縄はやっと、秋です。
沖縄の秋は短い。たまに夏に戻ったりしてると、すぐに冬になる。

長崎で見た影絵の話とか、本当は書きたいのだが、気分的に違うので、先のメモを消化してみたい。

「もし~」前提の話、というやつ。
これははてブで見つけた。面白い。

広告β:一方ロシアが鉛筆を使うには


無断で引用。(あとで断っておこうかな)

以下引用----------------------------------

ちょっと好きなジョークがある。
アメリカのNASAは、宇宙飛行士を最初に宇宙に送り込んだとき、無重力状態ではボールペンが書けないことを発見した。
これではボールペンを持って行っても役に立たない。
NASAの科学者たちはこの問題に立ち向かうべく、10年の歳月と120億ドルの開発費をかけて研究を重ねた。
その結果ついに、無重力でも上下逆にしても水の中でも氷点下でも摂氏300度でも、どんな状況下でもどんな表面にでも書けるボールペンを開発した!!
一方ロシアは鉛筆を使った。
実話ではないらしいが、なにか、重要なことが含まれているような気がする。

トヨタだったか、彼らは「なぜ?」を5回繰り返すという。徹底的に考えて、カイゼンを進めていく。この徹底した態度は重要だ。しかしこれとはまた異なる、デザイナーの考え方が好きだ。彼らは、「なぜ?」から入っていって、最後は「もし~だったら」で出てくる。

冒頭のジョークでいうと、無重力状態でボールペンが書けないというところで「なぜ?」がはじまる。このまま「なぜ?」を繰り返すと、インクが無重力では機能しない、というところへ行き、そこからインクの液体としての特性がどうのこうの、という方面に解決を求めていくのだろう。でも、「なぜ?」を繰り返すと、袋小路に入っていくことがある。どこかで、「もし」を使わないといけない。「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」。

以上引用----------------------------------


以前に、そのトヨタのWhy5回、というのの関連で、「なぜ」についてというのを書いた。
「なぜ」には複数の意味があって、かつ主体と客体で分かれるという話。
そういう整理をすれば、結構「なぜ」は使える、と個人的には思っている。


で。上記引用の、「なぜ」ではなく、「もし」が必要、という話だが、たとえば、「鉛筆で書けばいいじゃん」という発想は、「もし、ペンでなくてもよかったとしたら」というのの次にくるもの、ではある。
しかし、「なぜ、ペンでは書けないのか」→「重力の力を受ける、インク(液体)だからだ」→「インク(液体)じゃなければいいのだ」→「固体、たとえば鉛筆で書けばいいじゃん」という解の出し方もある。というか、そうなるよね。

で、このジョークの話においては、この「なぜ」より「もし」論法は当てはまらないんじゃないかなという話。引用の後に続くコロンブスの卵の話もそうだ。
いや、「なぜ」から入って「もし」で出てくる、で合ってるんだけど、「もし~でなくてもよかったら」で出てくる、だ、厳密に言えば。
つまり、「なぜ」という原因をつきとめて、その原因というか制約自体を無くせるとしたら?という発想パターンか。


と、いう風にまあ結局のところ、この、なぜ?なぜ?を繰り返すというのは、ある程度有効である。カイゼンと言われるように、既存のものやシステムなんかの「改善」には有効だ。
ただ、仕事をしてた時に、なぜを5回繰り返しても、ある狭い点にしか辿りつけない、と思った。複数あったとしても、それは狭い範囲に過ぎない、と。
で、多分、その「なぜ」で行き着いた場所の制約を否定したりしてみても、やっぱり画期的なことは起こらないことが多い。それは外せない制約だったりすることがほとんどだし。

イノベーションというのは、「なぜ」とその制約の否定「もし~でなかったら」だけでは辿りつけないものなんじゃないか、と思う。かといって「もし~でなかったら」ではなく、「もし~だったら」で辿りつけるかといったら、そういう文法を使ったからといってイノベーションを起こせるわけではないと思う。というか、「なぜ」に続くのは、現状を表す言葉だけど(「なぜやせないのか」とか。)「もし」って思ってみたところで続く言葉が見当たらなくて、その先がまさに欲しているアイディアなわけで、それを思いつくためのハウツーが求められてるんだっつの、ていう話なのやもしれぬ。

妄想力、もしくは貯蔵力とリンク力な気がするな。

妄想力って、つまりイメージする力なんだけど、私はこれが欠落しているので、これ以上説明できない。つまりこう、すごいことしてる人達って、こういう服があればいいなとか、こういう音楽があればいいなとか、こういうシステムがあればいいなとか、こういう世界があればいいな、ってイメージできる人なんじゃないかと思うのだ。推測。

で。もう一つの貯蔵力とリンク力ってのは。
いろんな発想、とか、構造、とか、構図、なんていうのの粋というか、本質を知っていて、それを貯め込んでおけるということ。
そしてそれらを縦横無尽に組み合わせたりすることができるということ。まあここでもイメージ力必要なんだけれども。

後者の方がトライはできそうだなとか思う。まあ何にせよ、インプットがないと話にならないな、と思った次第。創り出すというのは、本当にすごい。

October 8, 2009

こびとさんのこと

前の前くらいの適当なエントリで、考えてることメモみたいのを書いたが、あれは考えてることではなくて、考えようかなと思いついたお題、だ。
ついったーでもつぶやいたけど(このフレーズ最近多いな。ついったログをブログのエントリにもできるけど、好みじゃないのでやらない)、何か書く時というのは、それを具体的にいくつか思いつく時で、かつ文字に起こそうというやる気がある時だ。書けない時はそのどちらかが欠けている時だ。どちらも欠けていることもある。
で、思いつくまではやったよ、というのがメモだ。
これをエントリにするかどうかというのは、やる気とかやる気とかやる気にかかっている。

で、こびとさんの話。
なんだよこびとって、というのは、これである。
内田樹の研究室:こびとさんをたいせつに

引用すると、

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真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。
だから、自分でだって「ぎくり」とするはずなのである。
何でわかっちゃうんだろう。
そして、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。

(中略)

知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。

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この、二重底というのは、わかる気がして。意識下というか。奥底にあるもの。コアのコア。

何かを考える時というのは、意識下のものを意識に持ち上げてくるような感覚がある。探るというか。
テーマが目の前に提示された瞬間は、考えというものはすぐ口に出せる状態ではない。自分がこう思っているとか、こう感じているとか、それが何故なのかとか。自分の考えは意識には上っていなくて、下の方に沈んでいるのを探し出すというか。探し探し話す。
引き出しと言ってもいいし、二重底と言ってもいいし、コアと言ってもいいし、こびとさんと言ってもいい。

あらかじめ答えを用意しているような、たとえばスピーチやプレゼンや面接とかのとき、これはあらかじめ意識に上らせているものを口から出しているだけである。
そうではなくて、議論とかもしくはこういうブログのエントリとか、何かしらを考えるときは、探す。それをなんとか形容して表面に出す。

そして、何か感じたことを表現するときには、こびとさん的なものに確認しているのかもしれないな、とか思った次第。いくつかの形容詞や比喩なんかを用いて、これくらいでまあいいか、とこびとさんが言うのを待つというか。

ちなみに、私のこびとさんは、私が言ったことが相手に誤って伝わっていたりすると、結構しつこく訂正したがる。私は大抵間に入って、完璧に理解されることはありえないわけですし、とか言ってみる。こびとさんは、自信があるときはよく働くが、落ち込むとなかなか大変であるので、私の仕事は彼の自信をなくさないようにすることである。
と、内田さんに倣って分析してみる。

レビュー雑感

あるブログで、何か考えていたことを寝かせてしまうと、本とか読んでるうちに同じようなこと書いてあったりして、自分のもとの考えと混ざるからいやだ、って書いてあったのだけど、書評を書いてて同じようなことを思った。
と、伊坂幸太郎の「魔王」を読了してメディアマーカーに登録して思った。

レビューを書くのは、勿論他者へのご案内というのもあるけれど、自分がそれを読んでどう感じたのかをメモっておくという機能も重視していて。その時の感覚というか。
でもこれの前に「おくりびと」ノベライズ版を妹から又借りして読んでしまった時は、原作かどうかを知りたくて検索してしまい。検索してる間にいろんな人の レビューが目の前を横切ったために、完全なる読後感とは違ってしまっている。というか、もう読後感とかどうでもよくなってしまって、説明に終始している。

考えていたことでもそうで、というか、私はあんまり自分の考えをあらかじめ持っているというタイプではないけれど、この考え方とこの考え方を踏まえて、こ ういう自説はいかがでしょう、という感じで書くことも多い。つまり、参考文献を示して、それと自説は差別化する。同期するときもあるけど。で、やっぱり私 も分けて考えたい派なのだろう。とか思った。

メディアマーカー
http://mediamarker.net/u/soh15/

October 7, 2009

はてブ

使い方があっているのかはよくわかっておりませんが、はてなブックマーク導入しました。
何気に素敵ですな。あのツール。ある意味ポータルというか。
タグでしぼって検索すると、読みたい分野かつ質のなかなかにいい記事がたくさん読める。

http://b.hatena.ne.jp/sohsh/

あと、Google readerも。
sで始まるメインアカウントでGmailつながってる人とかは共有できるんだけどなー。公開にはしてるんだけど。このブログのアカウントだと二重に作業しないといけないので微妙、ということで、はてブです。

FYIも兼ねてるので、ほんとは自分のはてブを表示できるウィジェットがほしいけど、ぱっと見無いっぽい。

October 5, 2009

memo-tweet

いとうせいこう氏のtwitterでのつぶやきがなんかかっこよくて彼のイメージ変わったのでメモ。

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ひるがえって中上健次の文の緊張感は改めて凄いなあ。さっき触れた物書き(俺はこれ以後二度と触れないし、読む気もない)の「時計の針は(略)ためらいがちに時を刻んでいる」なんて低俗な文を死ぬまで一行も書いてないもん。たった一度も。失敗作の中でさえ。

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俺、読書家なんてひとつも尊敬しないな。読むべき水準以下のものを読まない努力の方が、ずっと大事。

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シンガポール→鈴鹿 GPもだ

妹が、出張でシンガポールへ行って帰ってきた。

妹は専門学校の講師を4月から始めたばかりなのだが、安い給料の割に多忙で、家族で励ましながらも、そんな会社やめてしまえと口々に言っている。

今回は修学旅行の引率とかで(彼女はCAとかを目指すクラスの担任である)、企業見学とか空港見学をしてきたらしい。一流のおもてなしを見るために、ホテルはマンダリンオリエンタルである。いいなー。
で、いろいろ面白い話も聞けたらしい。仕事というのはどんな形でも勉強になる。
ひとしきり、いろいろ話を聞いたあと、妹が、「あ、そういえば、お土産があるの」というので、マーライオンのキーホルダーかなーと思ったら、これだった。





こ、これは。

「なんかね、シンガポールで探したんだけど、あんまりよくなくて、帰りに関空で乗り継ぎだったから、関空で買っちゃった。」

そうか。新しいね。

「あえての虎。」

うん。

「巨人グッズも探したんだけどね、無かった。羽田にはあるのに。」

うん。関西じゃ確実に売れないからね。
東京ドームに、上原は裏切り者って落書きあったしね。


でも何気にかっこよかったのでうれしい。中身はゴーフレット。


私が巨人を好きなのは、知ってる選手が多いからだし、いい選手が多いからだから、他のチームでも知ってる選手やいいなと思う選手は応援するのだが(阪神で言えば鳥谷とか鳥谷とか鳥谷とか能見とか林とか)、阪神ファンは好きじゃない。いや、違うな。阪神ファンは好きだ。面白いから。しかし巨人に異常に食ってかかる人たちが好きじゃない。うーん、違うな。厳密に言うとそれも面白いから好きなんだけど。
巨人が優勝した日に、「中日優勝おめでとう」ってつぶやく人とか(ファームのウエスタンで中日が優勝した。巨人は別リーグで、イースタンで優勝した。)、子供だなー、って思う(その人のことは嫌いじゃないんだけど)。いやーでも今考えたら嫌いじゃないわ。
まあ、今年は巨人ちょっと強すぎたな。虎にはあんま勝ってないけど。
阪神ファンは巨人ファンに強く出れるけど、巨人ファンは阪神ファンに強く出れないみたいのが、なんかある。強者と弱者という立場上というか。
アロンソファンだとシューマッハファンに強く出れるとか、ルノーファンだとフェラーリファンに強く出れるとか、あるけど逆はちょっと大人気ない感じがする。それも同じ原理で。でも結構フェラーリって昔弱くて、その時から思い入れあったり、フェラーリの車自体がラブな人っているから、意外と熱い人多いんだけど。
院の時のエクスターン先の担当の人もフェラーリ好きで、めっちゃ鈴鹿行ってて、ファンのためのツアーも当たってイタリアで乗ってきたっていうから、その嬉しそうな写真見ながら「私はフェラーリはちょっと」とか言えるはずもなく。


そうそう、F1鈴鹿はペナルティでアロンソ、バトン、バリチェロあたりグリッド降格だった(たしか)。
でも健闘した。でも10位以下って日本人ドライバーしか映らない。あとクラッシュの時。悲しい。
トヨタは予選でグロックがクラッシュして出られなかったからトゥルーリ1人だったけど、ちゃんと2位につけてよかったと思う。1位はレッドブルのベッテル。あれ、翼をさずけるやつ。3位はハミ。
今季は大分チームの力関係が変わった。コンストラクターズポイント、ブラウンGPが1位でレッドブルが2位だもの。ブラウンGPとか元ホンダでMBOしたチームなんだけど、ホンダの時は全然勝てなかったのに。

最近考えてることメモ。
・こびとさんの話
・「もし」。前提の話。
・浪費について
・魔王について
・親友について

October 4, 2009

国歌聴き比べ

F1は鈴鹿が始まっている。
予選Q2でのグロックのクラッシュは心配だが、何よりアロンソがフェラーリに移籍するというのが個人的には衝撃的というか。確かに彼には競争力のあるマシンに乗ってほしい、力を発揮してほしいというのはあるんだけれども、どうもあの跳ね馬と赤さが私の好みでないのである。赤いだろう、いくらなんでも。赤すぎるだろう。ルノーもちょっと前青一色もなあとは思っていたけど今のカラーリングはpopでかわいくて好き。まあいいや。

そういう話をしたいのではなくて、今日は国歌について。
昨夜頭痛により眠れず、小澤conducts世界の国歌/新日本フィルハーモニー交響楽団をiPodで聴いていた。このCDは、長野五輪の際に使われた小澤征爾指揮の新日本フィルが演奏した国歌集で、かなりいい。かなり綺麗だ。
何故このCDを持つに至ったかというと、2005年頃私は上記アロンソをかなり応援していて、ほぼ毎GP観ていて(大抵深夜の録画だけど。スカパー熱望していた。)、マイミクの方ならご存知だろうが、mixi日記はF1ばかりという有様であった。ていうか、F1放送してくれてフジテレビありがとうって思ってたけど、同時に実況と解説というか番組に右京はもういいから、とか、永井大がなんで司会なんだとか、シューマッハシューマッハってうるさいよ、とか、フジテレビに難癖つけていた、若かったのだ。

そんな中でアロンソが優勝すると、かつ生放送だと、スペイン国歌が聴けた(録画だとカット。あと、ルノーだったのでフランス国歌も流れる)。彼は唯一のスペイン人ドライバーで、かつスペイン国籍の企業(チーム)はF1に参戦していないので、スペイン国歌が流れるということがすなわち彼の優勝しかありえないのである。
それで、スペイン国歌聴きたいなあと思い立ってこのCDを手に入れることと相成ったわけである。

このCDには全部で67の国歌が収められている。
で。
スペイン国歌は何度も聴いたが、日本の国歌はあまり聴かなかった。
ご存知の通り、日本の国歌は「君が代」だが、「君が代」というその字面、響き、それがものすごくイデオロギッシュというか、なんとなく触れてはいけないものというか、こわいもの、みたいな感覚もあったし、私自身がその旋律が暗い、というか、重い、と思っていたのだった。好んで聴く音楽、ではなかった。

CDを通して聴いていると、明るい曲、鼓舞するような曲がほとんどを占めていることに気づく。アメリカやフランスはよく聴くので皆知っていると思うけど、ギリシャとキプロスの国歌(この2つの国は国歌が同じである)はまるでワルツだ。イギリスとリヒテンシュタイン(この2つも同じ曲。歌詞が異なる。)も明るいし、勿論スペインも明るいし、まあとにかく明るい。その地方の民謡がベースになっていたりしてお国柄は出ているのだが、正統性というか、一体感というか、感動的というか、そういう感じなのだ。

その中で、目を引いてしまうのが、日本と、イスラエルだ。

イスラエルの国歌は、Hatikvaといい(読み方は知らない)、希望、という意味らしい。
この曲は、タイトルに反して、もう、とにかく暗い。悲哀に満ち満ちている。何事かと思うほどに美しくかなしい旋律である。ユダヤ人達の放浪の歴史が刻み込まれている。彼等の念願かなっての建国の際につくられた曲にもかかわらず、とにかく悲哀に満ちているのだ。これから前を向いて、この国を新しく、立派で健やかな国にしていこう、と、そういう感じではないのだ。アメリカとかほかの国はそんな感じなのに、イスラエルは違う。重荷を負って、罪を背負い、この辛く苦渋に満ちた世界を、生き抜いて見せよう、わが同朋たちよ、という感じである。
そういえば、イスラエル民謡の「シャローム」も悲しげだ。
もしかしたら、彼等の世界観なのかもしれない。興味引かれるところである。

そして、日本。
日本の国歌を改めて聴いてみた。歌詞は入っていない。
他の国々の国歌を聴いた後にこれを聴いて、ものすごく美しい、と思った。気づかなかったが、あの旋律は、すごい。なんだかわからないけど、他の国とは一線を画している。
もののけ姫の世界を彷彿とさせるような、豊かな森が目に浮かぶ。穏やかで、終始静かな、盛り上がり過ぎることなく、しかし厳かな。終わり方の妙。後を引く。日本らしい曲だと思う。

小澤征爾が、オーケストラでやったというのがまた良かったのかもしれない。彼がこれらの演奏をする上で一番大事にしたのは、彼や編曲者の解釈でやるのではなくて、その国の人が聞いてよかったな、と思われるものにしなければならない、ということだったと、ライナーノーツには書いてある。音楽を愛している日本人が、日本人がこれを聴いて、よかったなと思うようなものを作ろうとしたら、こうなったのかと、思った。

「君が代」って聞くだけで顔をしかめる人達が結構いるので、君が代をこれだけ褒めちぎったのも初めてだけど、音楽に罪はないのだ。本当にそうだ、音楽には罪はない。
歌詞だって特に悪いとは思わない、というか、狂ってるとかばかげているとかは思わない。歌詞は古今集の賀歌からとったとされているらしい。結構きれいな詩だと思う。
天皇の御世がずっと続きますように、っていう歌だけれど、戦争に負けたから、その指揮をとるのに天皇も加担したから、国民の団結を強めるために使われたから、国民がそれに丸めこまれて強制されたから、そんな歌詞はもう見たくもない、ということなのかもしれない。そう思う人がいるのも当然といえば当然なのかもしれないし、それは心から理解はできないまでもなんとなく理解はできる。
私も音楽を強制するのはいかんと思う。強いられるのが嫌いだから、これも嫌いだ。


音楽って、歌詞がなければ、意味を考えなくていい、自分で意味を与えられるものだからいいなあと思っていたのだが、その旋律自体が意味をもった、国単位で思い入れがこもった音楽というものが、あるなあという発見。
でも、それの意味をとっぱらって、純粋に音楽として聴いてみたら、楽しいかもよ、という提案。
スペインの国歌なんかは、私にとってはアロンソに関連する曲、ただそれだけだったから、普通に好きになったんだと思う。

2009WBC決勝の「君が代」がちょっと違った感じでなかなかよかったので、ぺた。映像なし、音楽だけで聴いてほしい。

WBC決勝 不思議なアレンジの君が代(youtube)



・参考
スペイン国歌(youtube)

アメリカ合衆国国歌(youtube)

フランス共和国国歌(youtube)

ギリシャ共和国国歌(youtube)

キプロス共和国(youtube)

イギリス(グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国)国歌(youtube)

リヒテンシュタイン国歌(youtube)


イスラエル国歌(youtube)

日本国歌(youtube)