November 20, 2009

言葉と実体の乖離

また夢の話で恐縮なのだけど、先日夢の中で、「『嘘』という言葉自体は嘘じゃないということ」について考えていた。経緯は知らない。
夢の中で考えるとろくな判断をできないのだけど、このトピックだけ覚えていた。で、起きてからちゃんとした頭で考えたら、あ、ほんとだ、と思った。
「嘘」という言葉自体は嘘ではないなあ、と。「嘘」という言葉自体は本当だなと、つまり、本当に「嘘」だということ。

同じように、「怒る」という言葉は怒ってないし、「悲しみ」という言葉は悲しんでいない。「林檎」という言葉は林檎ではない。あたりまえのことだけど、言葉とそれの指す何かとの乖離というか。


そのことと。


人間には共感という機能がある。連想でもいいかもしれない。
「怒る」という言葉で本当に人が怒っている状態を想起したり、自分が怒っているのと同じような感情を覚えたりすることができたりする。
「林檎」という言葉で、赤く実る林檎の実を想起したり、齧ったときのみずみずしさや欠片の食感や香りを思い出すこともできたりする。


隣の隣のブログ(「朝凪に似た音」)くらいで、「詩のボクシング」という番組の話が出ていた。詩を朗読して、より伝わった方が勝ち進むというものらしく、この優勝者の女の子が話したという文章

言葉というのはとても不思議で、よく物語に思い浮かべた物をかたちにする
魔法がありますが、言葉はすべて、この具現化の呪文だと思います。
色、お菓子、うれしい。
かなしいという言葉を心に浮かべた時、無意識に「かなしい」を
再現している一瞬がある。言葉はそういった気持ちや、いろいろな物の小さな缶詰めみたいなもので
耳や目から受け取ることで、心の中でぱちんとふたを開けるのだと思います。
けれど、疲れている時などにおしゃべりの中で
あ、いま空っぽで出してしまった、とはっとする時があります。
言葉の中に何も入れないまま缶詰めの缶だけ渡してしまった感覚。
それは言葉ではなくてただの音で、「なんとなく」しか入っていない。
わたしはそういう時とても悲しくなってしまって落ち込むのですが、それでも
いつか「風」ということばに風を感じられるような
「やさしい」という言葉に本当にやさしくなれるような
そんなふうに言葉を話せるようになれたらいいなと思っています。



これはつまりは、同じことを言ってるのだなと思った。
私はこの言葉と実体の乖離を、そのままに受け止めていて、彼女はこの言葉と実体の乖離をうめたいと思っているのだという違い。
言葉の可能性を認めつつも自分は探求しない私と、言葉の可能性を信じてそれを探求する彼女。


小説家というものについても、関連して思う。
司馬遼太郎は、昭和について語っていた。番組全部を見たわけではないのだけど(しかもこれは当時に全9回くらいでやっていたらしい)、昭和を語らせれば語るべき本当にいろいろのことを彼は持っていた。自分なりの考えを持っていて、その骨組みを、本質を、自分の言葉で語ることが出来た。その最中に、彼は、「僕は小説家ですから」ということを言った。彼は端的にその本質を語ることが出来るけれども、その表現手段として、小説という形態を自らの方法として選んだのだということだと思う。自らの伝えたいことをより効果的に他者に伝えることが出来る方法として。

私はかねてから、なぜ小説家は小説家になったのだろうと思っていた。それこそよく読んでいる江國香織にしても、村上春樹にしても、遡って芥川や太宰や漱石にしても。
単に独自の世界が書きたいのか、言葉遊びがしたいのか、現実とは違う理想を表したいのか、自分の存在した爪あとを残したいのか、誰かを感動させたいのか。
彼らが小説を方法として使うという選択に、何故かしらと思っていたのである。
自分の考えや感じたことを書きたいのであれば、それを端的に書けばいいのではないかと思っていた。それこそ評論や随筆のように、特にフィクションにしなくても、ストーリー仕立てにしなくても、いいのではないかと。
多分、小説でしかできない伝え方がある。小説にすることによって、その伝えたい命題を具体的事例と結びつけることができる。感情を徐々に移入することで、深く伝えることが出来る。とかいろいろあるんだろうと思う。
なんというか、ある意味奥ゆかしい感じもする。芸術にそれを潜ませるということ。

つまり私は無粋な人間なのだ、残念だ。


要は表現の話なのだと思う。今は言葉にフォーカスして話を進めているが、言葉だけじゃなく、音楽、音、踊り、ジェスチャー、絵、建築、いろいろの表現方法がある。
才能のある人というのは、それらのいずれかを使って効果的に表現をすることができる。
先の言葉の例で言えば、言葉を普段の意思疎通として使う以上の効果をこめて発信するということ。
たとえば江國香織のエッセイ「都の子」なんかを読んでみるとその一語一語がいきいきしている。

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夏になると、だから私はいつも少し勇ましい気持ちになる。今年もまた新しい緑がこんなに溢れているのだから、それに対して心を閉ざすわけにはいかない、と思うのだ。
そういう緑は木ばかりじゃなく、実にそこここに顔を出す。カエルやかまきり、とかげなど、華奢で繊細な小動物の緑や、シャンプーやしゃぼん玉液の透明な緑、気泡の入った、あつぼったいガラスのコップのうす緑。鮎のたで酢のやわらかな緑や、お新香の胡瓜の緑(実際、お新香は夏の愉しみの一つだ。目にしみるほど鮮やかな、胡瓜のきみどり、茄子の紺。ぬかの風味が絶妙のきゃべつ)。それから、野球場の芝生の緑。

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効果的な漢字とカタカナとひらがなの使い分け。バランス。緑であったりみどりであったり。しゃぼん玉。きゃべつ。
私などは先に漢字で書いた単語を後でひらがなで書いたりしてはいけないのではないか、なんてつまらないことを思ったりするのだけど。
この人の文章を好きなのは、その単語を文を丁寧に扱うというのが大きい。丁寧すぎるくらいだ。まあ一方で雑にというか、端的に言葉を扱う文章もその確度さえ気に入れば好きなのだけど。勢いとか、誠実さとか、文章には実にいろいろなものが込められている。


それにしても、言葉にそのものをこめて送り出すということの難しさよ。
彼女の言葉を借りれば、私は空っぽの缶詰ばかりを放っているような気もする。適当なことばっかり言っている。丁寧に生きるという言葉をよく聞くが、多分こういうことなのだと思う。

ただでさえ言葉を使うのに難儀しているというのに。

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