November 26, 2009

問題提起

で、この前問題提起に終始するのってどうなの的なことを書いた。
というか、批判だけするのはどうかと書いた。
でも、基本的に問題提起することというか、気づくことは大事だと思っていて。それをどれだけブレークダウンしていけるか、というところも大事だと言いたかったのだが。これを考えていて、なんで問題提起することがいいことだと思っているのだろうと、思った。

問題を探すことというのは、実はあんまり幸せなことではないかもしれない。まあ何を幸せとするかはあるけど、安らかに穏便に生きることが幸せと仮に措くならば、それとは相容れない。
気づいてしまうこと、疑問に思ってしまうこと、それは順応に抵抗することな気がする。順応というのは生きるために環境に適応するということで、それに疑問を抱くことは精神的に順応に抵抗しているのだと思う。
ランプで生活していた頃に、ランプに問題があると意識した人がどれくらいいたのだろうと思う。ランプ便利だなー、暗くても字が読めるし、いい時代になったよなーくらい思ってたんじゃないかと思う。それが順応するということ。
これに対して、煤の掃除が面倒だとか、いろいろ問題を見つけていた人というのは、このままではよくないのではないかという疑問を持っているから、精神的に充足した気分ではないと思う。でもこれが問題意識を持つということで。
そこから生れ出るものというのは時に、よりよいものである。問題意識を持つことで、その問題をクリアするという目的が生まれ、それを達成することによりその問題をクリアした新たな段階へ進むことができるのである。
これが、私の脳内での、「問題意識を持つこと=いいこと」の構図な気がする。


でも、先の例に見たような商品の話では、これが発明になって先駆者利益で物理的に金銭的に儲かるんだけど、商品ではなくて、ある考え方(制度とか、生きる姿勢とか)に対して問題意識を持ってしまった場合、特に儲かったりしないよなと。逆にその分精神的には順応に抵抗してるわけだから平和じゃないよなと。考え損だなと。
問題を発見すればするほど、安穏とはしていられない。
それがもし自分の内側にこんこんとわき出るような問題意識なら、有無を言わせず自分を突き動かすのだろうけれど、そしてそれは仕方ないのだが、そういう真剣な問題意識であればある程、苦しい。損な気がする。クリアできればいい。けどできないことも沢山ある。


で、そもそも、なぜ考えるのだろうと。気づいて、それに答えを得ようとするのだろうと。

一つには、考えるのが好きだからだなと思う。気づくのが好きで、誰かの気づきを聞くのも好きで、それを自分なりに解答するのが好きなのかもしれない。それぞれの段階での、「ああなるほど」とか「ああそうか」が多分好きなのだろう。つまりは自分にとって新しいものに、感動したいのだろう。

また、一つには、暇なのもある。時間がある。

で、一つには、必要だからというのもある。何かを決めるときに、関所みたいに問題が寝転んでいてその一つずつを道を選択していかねばならず、そのために考えている。
これは、世界と自分の間の折り合いをつける行為だと思っている。
何かの問題が身に迫ったときに、私はこういう姿勢で行く、こういう考え方で行く、ということを理屈をつけて(もしくはろくにつけずに)決めるということ。
たとえば私は人には特に期待しないことにしているけれど、それも、「人は信用できないものではなかろうか。人に期待をするべきか。」という問題があった上で採った方向性で。それはもしかするとある人にとっては考えなくていい問題なのかもしれない。けど、私にとっては考えなければならない問題だったので、それに答えを一応出してそういう風に生きている。
ここでは考えることは処世の手段である。これに答えを暫定でも出していないと、その度悩むことになる。


という、問題提起についての問題提起。を考えてみた。

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