November 28, 2009

俳句に思う

今日、NHKの俳句の番組で、「冬紅葉(ふゆもみじ)」を題に句会をしていた。
それで、冬紅葉という言葉は、あるいは冬紅葉というものは、風情のあるものだなと感心した。
冬になっても散り残った、濃い赤色の葉がぽつりぽつり。豪奢なあの紅葉の鮮やかさではなく、風の吹きぬける青空の下散り残るわびしさ。


句会というものがどういう風に執り行われるのかはよくわからないし、その番組でやっていたようなやり方がスタンダードなのかもよくわからないが。
その番組では、主宰者がいて、その人が事前に「兼題」として上記のようなお題を出して、それを使った句を参加者の各々が詠んでくる。会ではそれを誰の作ということを伏せて、句だけ読みあげ、一人につき2つずついいと思った句を選ぶ。それで多くの人に選ばれた句がやはり高評価を得、例えば4点句、3点句、といった具合に呼ばれる。それぞれが感想を言い合った後に、誰の句だったのか名乗り出る、というもの。
へえ、と、なんだか面白かった。

一番票を集めたのは、

鉄工所跡のあおぞら冬紅葉

というもので、目にくっきりと浮かぶ風景と、少し寂しい感じがいい、みたいな感じで人気があった。
他にも

冬紅葉まだそのままの母の部屋

とか

はさみおり冬もみじ葉や古き本

なんかがよかった。
この回の句はここ

月並みなことを言うけど、本当にセンスのいい俳句というのは、17文字でありありとその風景や気持ちまで喚起させるのだからすごい。作ろうとしてみるといかにできないかがわかる。たった17文字、しかも題があれば残る12文字とかを埋めればよいだけなのに、その何万もの言葉の中のどれを選びどう配置するかというのは。いやはや。

で、芭蕉の句はやはりすごいのだなと。有名な句というのはよく知っているから、改めて感動したりしないけど、実はすごい。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る。
和歌もまた。まあしかし究極は俳句だ。

勿論受け手の想像力を多く必要とはするけれど、想像の余地が広いからこそいい。
小さい頃、挿絵のある本が好きではなかった(まあ、今も好きではないな。できれば表紙も絵がない方がいい。)。他の友達が、絵がないからこの本は嫌、というのが不思議だった。大体挿絵とは違った風景や人物や部屋を思い浮かべていたから、それを挿絵に壊されるのががっかりするのだった。そういうのと多分同じだ。
写真はそれを完璧に写し取ってしまうから、その枠の外側や風や温度や匂いに思いを馳せることはできるけど、その枠の中の視覚に関しては動かせないような気がする。

言葉で写し取ろうとすること、でも言葉では取りこぼしてしまうこと、その取りこぼしたであろうものにまで想像を及ぼすこと、というのが、いいなと思う。作者の意図しない解釈がもしかしたら出てくるというのもいい。

多分俳句だから、制限されているから、その言外を読み解こうとするのだと思う。そういう、相手に大胆に任せる芸術というのは、作り手と受け手との間の信頼が感じられるものほどよい。芸術は基本的に自分勝手なものだと少し前まで思っていたが、ここのところ大分印象が変わってきた。

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