January 31, 2010

落第

このところ絶不調で、寝てばかりいた。
不調も絶をつけると、つきぬけて不調な感じがしてむしろ清々しいな。

で、清々しく不調だったわけだが、その間思いつめたことがあって。
時として思いつめることというのは人間誰しもあるわけで、1,2年前くらいにはその思いつめが頻繁にあったが故にブログ上にそれが表出していたということがあって(こういうのを多分フツカヨイの文章というのだ)、もやもや帝国だったわけだけど、最近は割とさっぱりすっきりなエントリが書けておる、これで少しは真人間に近づいたろうかなんて思っていた。

最近その思いつめたときに思ったのは、

どうも生きてる意味がわからん

ということであった。
かなり罰当たりな考えだし、しかもこれを思ったのは過去に何回もあるけれど、過度に思考を追い込んだ結果でなく単純に本気でそう思ってしまった(過度に思考を追い込むというのをやってしまうのは自分のMっ気だと最近自覚した)。なんだか深い挫折感があった。今更というか、挫折感を認めまいとしてきたことを更に突きつけられるようでもあった。


私はこの前のエントリでも書いたとおり、恋など一時ですぐ醒めるようなものなのになんでするの?意味ないじゃん、と結論付けるタイプの思考をする性質で、できるだけ恋をしないようにしようとする。これを他の面でも考えていくと、いずれ死ぬのに生きてるの意味ないじゃん、ということになる。必然的にそうなる。地球いずれ爆発するのにエコとか意味ないじゃん、とかそういうことになる。
そんな結論は馬鹿だ、と思う。思うけど、思ってしまう自分がいる。
そんなことを言ったって、実際生きているのだし、生きていれば腹は減るし人恋しくもなるのだから活動し、ともかく生きるより仕方ない。
坂口安吾をまだ読んでいる。


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「万事たのむべからず」かう見込んで出家遁世、よく見える目で徒然草を書くといふのは落第生のやることで、人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまへといふやうなことは成り立たない。恋は必ず破れる、女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起り、去年の恋は今年は色がさめるものだと分つてゐても、だから恋をするなとは言へないものだ。それをしなければ生きてゐる意味がないやうなもので、生きるといふことは全くバカげたことだけれども、ともかく力いつぱい生きてみるより仕方がない。
 人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない。歴史といふお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらへて行くのだ。

--------------------------------------坂口安吾「教祖の文学」より

とお叱りを受けた。
安吾って人は、ぶっきらぼうだけれども、全然真面目だ。すごく真面目だ。えらい人だ。
私は不真面目だ。私は周りから言われるから自分のことを真面目だと思い込んでいたけど、本当のところは不真面目だと自覚した。
私は真面目な人が好きだ。

January 23, 2010

うろうろすること

渦中だなと思う。

別に仕事とか人間関係とか権力抗争とかの何にも巻き込まれてはいないのでそういう意味の渦中ではなく(と断るのはおそらく、たくさんのいわゆる「渦中」(火中?)にある友人が思い浮かぶからだろう)、色々な考え方の中にぐるぐると巻き込まれている、しかも自ら、という感じである。物理的なものじゃなく、精神的な。


ともすれば私は堕落の方向へ行きがちであるし、堕落の方向とは逆へ逆へと進みたがってみたりもするし、堕落と名づけずにすっとそれて諦観した気になってみたり、堕落とは何ぞやとそもそも落ちるとか上るとかいう方向というのを疑ってみたり、こういう模索する姿勢に嫌気を覚えたり、もがくことの正当性を考えてみたりする。

自分の感じることに照らしてしっくりくるものに平安を覚えたりはする。それでもしっくりくるというのはいつでもそうとは限らなくて、ある時はそうだそうだと思ったのに次の日になるとなんだこれは愚にもつかぬ、と思うこともあるのであって。


なんだろうな、吟味ということは大事な所作であると思う。
ので改めてすることにしても、坂口安吾という人はかなりの程度正直者であると思う。正直であるということは、いい。特に作家などというものは、正直であればあるほどいいと思う。


内田樹がブログで、自己評価を急がないということについて書いていた。
彼の言ってることがいつもかなりの確度で的を射ている(一面的にしても)ので、とても参考になるのだが著作はまだ読んだことがない。
自己評価を急がない、つまりずっと自分に興味を持って模索し続けること、卒後教育について書いていたのだけれど、ああいう先生に大学でもし出会っていたら、今もう少し前に進んでいたかもなと思う。とはいえこうしてブログでその考え方に触れることができているのだから、いい時代になったものだ。

人生の終わりまで多分この模索は続くのだろうし、多分一生かけても終わらないほど、自分というテーマは大きい。コントロールできていそうでできておらず、仕組みをもわかっていなくて、時間的にも幅があって、今この瞬間も自分という容量が広がり続けている、gmail的な、いや宇宙的な、あれ、宇宙って一回膨張して今度は縮んでるんだっけ?まあいいや的な。

この調子では一生ブログなり何らかの形でいろいろやってしまいそうだ。

申しておきますが、思索などやるやつは、悪霊に引きまわされて枯野原のなかを、ぐるぐる空回りしている家畜みたいなもんです、その外側には立派な緑の牧場があるというのに。
ゲーテ「ファウスト」より


そんなことわかっていても、枯野原のなかをうろうろするのが好きな者もいるのだし、枯野原は意外と枯野原じゃなかったりするかもしれないのである。
ふむ。

January 20, 2010

法律過去未来

ご近所で法律の話が出たので、関連。

悪法も法である、という言葉がある。
wikipedia:法実証主義 に出ていたのでご参考まで。
悪法問題について以下引用する。

法実証主義には、それが正義や善といった価値から法を切り離してしまう(「悪法も法である」)ので、悪法に対する批判的態度を失わせる、といった批判がなされ、また法実証主義は戦後、ナチス体制化における悪法批判の基礎にならなかったとして、自然法学派からの批判にさらされた。グスタフ・ラートブルフの確信犯論が著名。

しかし、法実証主義は、法概念論(法の認識)と法価値論(法の評価)との峻別を主張するのみであって、法価値論の放棄を説くものではない。実際、ベンサムのコモン・ロー批判、ハートのリーガル・モラリズム批判、ケルゼンのイデオロギー批判など、法実証主義者は多くの場合、精力的な悪法批判者でもある。法実証主義は、法の存在条件を社会的事実のみに求めるので、法が法であるというだけで遵守されるべきだとは主張しない。したがって、「悪法もまた法である。しかし、法だからといって従う義務はない/従うべきではない。」というのが、法実証主義の一般的主張である。



この辺の法思想史系を私はちゃんと勉強していなくて、した方がいいとは思っているのだけれど、まあそれは時間がかかるから、ざっとwikipediaによれば上記のようなものであるらしい。
つまり法はただ制定されていて、ルールとしてあるものではあるけれど、その評価は別ですよ、悪い法もありますよ、そういうのは従うべきでないと思いますよ、みたいな話だと思う。その前の自然権思想否定とかそういう流れが私はちゃんとわかっていないので、法実証主義自体に賛成であるというわけではないけれど、まあこの点については同感である。

ただ何を以って悪法とするかというのはひとつある。
昔暴君が作ったもの、みたいな露骨なやつは今は少なくて、ある程度考えられて作られている(と思う)。万人の価値観に合うような法律ではないかもしれないが(だから国会とかで議論してたりいろいろあるのだけど)一応、考えてつくっている。私は特に立法作業を見たことはないけれど、ゼミの教授が立法に関わっていたりしたのでたまにその話を聞くことはできた。し、大抵の法律は少し考えればどういう趣旨で作られたのか推測できる。ちゃんと知りたければ逐条解説が出ているものもあるし、立法者が書いたものを読むことができたりもする。


こういうこまったことがあるから、改正しましょう、とか、こういうのを解決するために法律つくりましょう、とかで立法するわけだけど、あっちが立てばこっちが立たない、というようにどうしても利害対立というのは出てくる。いいことをしようとしても財源は?となる。血税が、となる。
友人は、政治は最悪の事態を回避するものだ、という。いいことをしようとするならそれは思想や文化の仕事だと。言い得て妙。(ここで言う政治が立法だけでなく行政を含むとは思うしその他諸々も含むとは思う)

だから法が保護しようとするものと自分とが対立する場合、それは自分にとってはいいものではないわけで、価値観的にはそれは守りたくない法律なのかもしれないのだけれど、だからって無視していいという話ではなくて。そういうことになればみんな法律守らないから。
上述の引用の「悪法」は、たとえば誰にとっても「それはダメでしょ」という法なのだろう。引用でナチスが挙げられていたように。
ただ、法律に疑問がわいたときは、なんでそれが法律になっているのかを考えるといいと思う。


前置きが本文みたいになった。

法律というのは、新しいものもあれば古いものもある。古いものの中には、改正された条文もあれば、そのままの条文もある。
で、法律というのは過去の国民の価値観だなあと。過去の国民の意見、というか。こういう風にした方がいい、という。その意見に今現在の人々が従っているというのが不思議な気がして。
いろいろなことが、「法的根拠」を基礎にして論じられるのだけど、その法律というのは昔の今はもう死んでる人々の意見だったりするわけで。それを根拠にすることがどれだけ説得力があるのかしらと。
特に授業で、立法者の意図はこういうものだったからこういう解釈をとるのが妥当だ、とかいう理由付けを勉強したりする時に、え、その人一人の考えに沿うからっていう理由なの、と思ったりした(実際はそれが国会を通って今日に至るまで改正もされていないということで、国民の支持を得ていると理解できるのかもしれないけど)。
だから、法的根拠のところまで辿り着いたら思考停止する、というのはあんまりよくないのう、と思った次第。ああ動く。世の中が動く。

法律の過去性というか。
(勿論、便利だし先人の知恵として大いに使わせていただいていいと思う。)


前に友人が、未来の国民の権利も保護すべきなんじゃないか、という論を立てていたことがあって。つまり、まだ生まれていないけれどこの国や環境を担っていく人々の権利のことを一切考えなくていいのだろうかという話。
最初聞いたときは結構突飛に感じたのだけど、よくよく考えると確かになあと思う。それを、気持ちの上で「未来の子供たちにこんな環境で地球を渡せないよなあ」なんてぼんやり思うのではなくて、法的に権利として考えるみたいな話だった気がする。今存在しない人間の権利というのは本来観念できないのだけど(権利は人に帰属するから)、しかしよく考えれば観念はできる。というか、法人だって観念してるんだから(会社とか団体とかは法人格を与えられれば人間じゃないけど権利を持てる)、未来の人間の権利も観念しようと思えばできる気がする。

未来の人間のことにまで思いを致すなんて視野が広いなと思う。しかし実際法律やら何かの運用やら、何でも先のことを考えてするのはいわば当然のことで、そういうのをしなかったことによるしっぺ返しというか後悔というか先人の後始末とかいうのは今まで人類レベルでむちゃくちゃたくさん経験してるのだ。で、大抵本当は予測できたことが多い(と思う)。
厚労省が結構予算をかけてがん検診推奨しているのも、後々の医療費まで考えてのことだし、そういう予防的なというか、未来のことを考えることの延長線上にその発想はあるのかもしれない。
難しいとは思うけれど。

そういう法律の過去性と未来性について雑感。

もしかしたら、今作ってる法律や改正した法律を見て、未来人は「あいつらこんな法律作りやがって。わかりにくいったらありゃしねえ。」と言っているかもしれないけど。

January 17, 2010

読書傾向

堕落論/坂口安吾 読中。堕落論ほか全12のエッセイが収録された文庫本。

ようやっと手にする機会が。
「白痴」は微妙で、途中でやめてしまった。同じく微妙で途中でやめてしまったつながりの安部公房とイメージがかぶっていて、それは多分「安」がかぶっているせいでもあろうと思う。ついでに言うと、私は「安」という字もあんまり好きじゃない。なぜと言われても明確には答えきれないが好みというのはそういうものである。とにかく、どちらも、合わん、と思っていた。
しかしこれはなかなかに、いやかなり、面白くて。

そもそも私は多分エッセイが好きだ。もしかすると小説より好きだ。エッセイとも評論ともつかないものがおそらく更に好きだ。具体性と抽象性のあいだ。

この前エントリにもした「ワセダ三畳青春期」などはかるーいエッセイで、なんだかフラットで、彼の人柄が出ているにしてもくどくない読み物である。基本的にはあった出来事を書いているから具体的だし、そして具体的なものというのはわかりやすいという意味で、やすらかなものだと思う。軽くて読みやすいではあるのだが、バランスとして、私はその筆者(高野さん)のいわゆる抽象論も聞いてみたい。


理想は、「具体(現象の観察)」→「抽象(理論抽出)」→「具体(適用)」みたいな流れで考えを示してもらえるといいなと思う。というか今思った。帰納→演繹。
それを自分もしたいのだろうし、他の人がやっているそれを自分なりに検証したいのだと思う。

随分趣向は違ってきている。


学校には国語という科目があったと思うのだが、その授業の中で「この文章の主題は何でしょう」ということをよく先生が言っていた。
つまり作者が「いいたいこと」なのだが、へえそんなものがあるのか、と私は思っていた。いちいちそんなことを考えるのか、作品を楽しめばいいんじゃないのか、わざわざ言葉にしなくても各々感じているじゃないか、という気持ちもあった。
国語の授業は、その作品の理解を深めるというより、台無しにしてしまう方が多かった。私は割とフィーリングを大事にしたい方だったのだ、よく言えば。固定化したくなかった。悪く言えば優柔不断である。


で、そういう主題がはっきりしたものというのは確かにあるのだし、国語の教科書に載るような文章は大抵主題がある(のだろう)。
でも説明文とか評論みたいに、「私の言いたいのはこれこれこういうことよ」という、文章それ自体が主題の引き伸ばしになっているようなものならともかく、小説とかというのは読み手に解釈が委ねられているものであろう。たとえば春樹の「アフターダーク」の主題は?「これこれこういうことです」と言い切れるか?言い切るのが果たしていいことなのか?
「筆者の言いたいのはこういうこと」というのを読み手が想像するのであって、「筆者の言いたいことはこういうこと」です、と授業で確定的に教えるものなのか?ワークに記入するものなのか?センターでマークするものなのか?おかしい。
別に「こころ」だって「高瀬舟」だって違う読み方があり得よう。明確な違いにしろニュアンスの違いにしろ。我等に自由を!読み味わう自由を!
ていうか国語の授業は一つ指針としてあっていいけれど、子供たちの解釈を正しい間違ってるというのは少なくとも高校からはしなくていい気がする。

というわけでかどうか、私にとって高校生くらいまで読書は娯楽であった。
文章は分析するものじゃなく、手ざわりを楽しんだり、戯れるものだった。国語の時間に一つの文章を5時間くらいかけて分析しまくる(しかもその分析結果に納得しないこともある)のの一方で、プライベートではそういうことをしないですむようにしたかった。

で、このエントリの流れとしては、読書の傾向が娯楽から学び(分析とか解釈とか)に変わってきたということで収束していく予定だったのだが、結局娯楽に変わりないということに今気づいた次第。

まあなんというか、急にサルトルとかキルケゴールとか読めない私には今ちょうどいい本です。

January 9, 2010

国とかアイデンティティとか

最近気になった記事。
示唆に富む。
いけいけどんどん:内在する戦争

・国に所属するという先天的所与条件に拘束されて戦をするというのはアンフェアじゃないか
これはなんだか面白くて。ここでいう戦というものが経済戦争のことではあれど、同じことで。彼が国をつくるといっている理由も初めて知ったのであった。
国益が定義されてないという話とか、国のコアって何って話とか、関連して気になるというかかなり好みな話題で。


関連して、アイデンティティの話。
先日読んだ「ワセダ三畳青春期」の中に、筆者の彼女であったグローバルな女の子の話が出てくるのだけど、その彼女がアイデンティティを国に(かなり)求めていて、複雑だったというような話。これもさらりと出てくるだけの話題ではあるのだけど、本人と付き合えばきっと割に深い問題であるに違いない。
彼女は日本人の父親とどっか欧米系の母親の間(覚えてないや)にオーストラリアで生まれ、日本国籍を取得しているけれど海外を転々とする生活をしているとかで、日本人であることにこだわり茶道や伝統芸能にも通じているのだけど「私は本当の日本人じゃない」というコンプレックスがあって、一方でオーストラリアに関するプライドも高くて、という話だった気がする。

自分が何人かということ。国に所属しているもしくは国という属性を持っているということ。
何者かであることと通じるとは思うのだけど、あまりに根本というか、確かに軸足を置く国や文化があるというのは大事なのだろうと、思う。前に所属することみたいなテーマで何か書いたなそういえば。
dioramic:属すること
しかし今回の話とはニュアンスがちと違った。

人間は生まれた場所や環境や生まれ持つ特性等々、どうしても先天的な所与条件の下に人生を生き抜く。
これを無視しようとすればできるし、新しく所属するということもできるけれど、ある意味それは後天的なアイデンティティの付与というか、自分を定義しなおすというか、どちらにしろ先天的な基礎の後にあるもので。
つまり基礎がはっきりとしないままに自分を再定義するというのはかなり難しいような気がする。それは修正という形ではなく、選択または創造あるいはその両方であるから。


奇しくも今日、鳩山総理と宇宙の野口飛行士が通信したという話を鳩山総理のブログで見たのだが、そこで鳩山氏が「もし、この小さな宇宙ステーションに世界の人々が乗り込んだとしたら、いま世界で起きているような争いごともなくなるのではないか」と問うたと。
それはどうだかわからないけれど、「国」というものはある程度人間を規定することを認めざるを得ないなと思う。
「国」ってのはフィクションだと、概念的で流動的なものだと一面で思いながらも、領土とか民とか財とかの物質的なものとひもづいているし、何より人の心とひもづいている。あとからどうこうできるものではない、というのも真である気がする。生まれた地が心のある部分を占め続けるというのは。


上記リンク先ブログの筆者であるところの原田氏の「国をつくる」というのを、当初イメージできなかった(国?領土はどうするの?等々)のだけど、今は少しわかるような気がする。既存の「国」を飛び越えるというのとニアリーイコールな感じがする。逆説的だが、国をなくすというか。違う次元での「国」という新概念というか。うーんもう少し勉強せんとやはりわからんけど。
多分自分でビジネスやってる人は、この国という枠組みがいかにも邪魔というか意味のないボーダーに見えるのだろうなと思う。同じビジネスしてるのに国ごとにルールが違うからな。それだけでなく、世界を旅行した人というのは国というものの本質を体感できている気がして、かつその「国って何」的な疑問も体験に根ざしているから、やはりこれも尊敬してしまうのである。


先に提起された問題のメモエントリの予定が。
あたためていきたい。

January 7, 2010

煙か土か食い物

煙か土か食い物/舞城王太郎

読了。
メディアマーカーで感想。

もう一作読んでみんとわからんなあとか思ってるところがまた思う壺的。
永い人からもらったので読むかと思って読んだのだけど、自分じゃ絶対買わなかった舞城王太郎。そもそもああいう文章は嫌いなんだ。それこそ自己満足中の自己満足というか言った本人だけが気持ちいいけど聞いてる人々は胸くそ悪いみたいな言葉。
でも確かに上手かったよ。

しかし2010年最初の一冊がこれっていうのがなんというか。

January 3, 2010

古きよき

あけおめでござい。ことよろでござい。


最近、「古きよき」ということについて考えていた。

古いからいいのか?という話。

古いから退屈なものというのもある。
昔は紅白の演歌のときは退屈で裏番組を見ていたし、歌舞伎や狂言も退屈で、クラシックも流れている分にはいいけどあえて聴こうとはしなかった。日本舞踊や琉球舞踊や民謡もそうだ。

古いからいいというのも勿論ある、と思う。

で、「古い」と「いい」がなんか混ざってるなと思って。
「古い」ものって権威というか、権威は言いすぎだけど、由緒正しいというか、正統性というか、そういうものが備わる。そしてそんなにいいと思ってなくても、それを否定するのははばかられるというか。敬意を払うべきというような思いがあって。
で、「日本」と「いい」もまざっているな、つまり「沖縄」というある意味異文化地方からの「日本」への憧れのようなものもある。
混ざっていると言うよりは、含まれているの方が適切かもしれない。

たとえば。

前々から、京都という場所に憧れているふしがあった(私は大学は本当は京都に行きたかったが結局受験すら叶わなかった)。だいたい京都という名からしてよい。
鴨川の川沿いに並ぶ黒に近い茶色をした木造の家々とか、古い寺院だとか、仏像だとか、着物だとか、いいなと感じてきた。それは日本というもの、歴史というものへの憧れに近いものだったかもしれない。
同じように短歌や俳句に同じように風流を感じたり、紅葉や桜にも心惹かれた。

それらは沖縄には無いもので。
しかし本やテレビでは度々登場し、これこそ日本の文化であり誇りであるというような価値観の中で育ったわけで、視覚的にもわかりやすく、とにかく若い時分には憧れたものだった。
そのころ私はカラフルさが好きではなく、とにかく色の明るいものが苦手だった。小中高生というのはなぜか明るい色のものを着たがるのか親が着せたがるのか、みんな子供らしいピンクやブルーのものを身につけていたりして。今気づいたけど私は今でもピンクの服を持っていない。昔よりは色の許容性は広がっていると思うし、他人が何を着ていても全く平気なのだけど。

話が逸れた。

私は最近演歌が結構好きになってきた。
演歌が好きになるなんてありえないぜと思っていたのに。確かに美空ひばりは聞いていたけどあれは特別だと思っていた。
古くさい歌謡曲なんて気恥ずかしくて化粧も衣装も古くて。おじさんやおばさんが、またはおじいさんやおばあさんが、大御所だからってそんなに売れてもないのに紅白の枠いつも半分持って行きやがって、と若い頃は思っていた。
今はおじいさんおばあさんどころか、もう死んだ人に出てほしいとすら思う。

琉球舞踊にしても先日首里城で見てから、目から鱗が落ちたかのように感心した。あれはよいものである。
前にご近所のブログで、人間の身体の動きこそ究極的な素晴らしい芸術だ的なことをおっしゃっていたのだけれど(UNIQLOCKについての言及)、私も近頃同じことを痛感する。


で、こういう古いものの良さをわかるとき、今まで霧がかかっていた感性の部分が急に反応するようになる感覚がある。そしてその時、それまでそれに覆いかぶさっていた「古い」というフィルターが薄れるような気がする。良さの一部に格下げされるというか、単に特色の一つになるというか。


良いものだからこそ、「古い」と思われるようになる現在の私にすら到達する力を持っているということは、頭ではわかっていても、ちゃんと腑に落ちたのはごく最近である。

といったようなことを紅白を見ながら考えていた。

こんな具合に混迷を極めつつ今年も歩んで参る所存であります。