February 19, 2010

メモ―価値観の吟味・殺生・貧困

ひとつ。
憤りや怒りが生じたら、それが何故かを考えた方がいいということ。
いつまでも憤っていてはならない、と聖書に書いてある通り、憤りは一時的にはいいけれど継続する価値はない。それよりは憤りの原因を解決する努力をした方が憤りは解消されていい気分になれる。でも憤りが趣味な人は憤っているといいと思う(少なからずいるはずだ)。

で、人間関係での憤りや怒りは意外と自分由来だったりもする。自意識過剰だとか、過剰な期待だとか。誰かが何をしたとか、しないとかいうことに無性に腹が立つという類の。
憤りや怒りの結果、他者に何らかの作為か不作為を強要するという行動はとられがちだけれど、そういうのは対症療法的で、結局それに憤っているとそれと似た状況になる度に憤らなければならなくなる。そういう時効果的なのは「ゆるし」である。あ、また聖書だ。それか「諦め」である。そういう感情の起伏を楽しめるようにすらなるのもいいかもね。

何かを「おかしい」と指摘できる度胸は必要だけど、何かを「おかしい」と思う感覚を今一度疑ってみることは必要だと思う。もしかしたらそれは「そう教えられたから」「皆がそう言ってるから」おかしいと思っているのかもしれなくて、それは自分の意見でもなんでもないからだ。それで検討しても尚おかしいと思うのなら「おかしいだろ!」って言えばいいんじゃないかなー。


ひとつ。
特定の生き物に限って保護保護というのはどうなのかということ。
その一方で無益な殺生も無益よなと思うということ。

希少だと保護しなきゃいけないのか。個体数が多かったら保護しなくていいのか。
食用以外は殺しちゃいけないのか。食用であれば保護しなくていいのか。食用にしている地域とそうでない地域がある場合にはどうか。
質素ならよくて贅沢であればだめなのか。どこからが贅沢なのか。
必要ならよくて不要ならだめなのか。どこまで必要といえるのか。
動物はだめで植物はいいのか。昆虫はどうなのか。
愛らしかったらだめで醜かったらいいのか。
それとも全生物平等に扱えばいいのか。

生活してる中でどこかに線があるはずで。



ひとつ。
絶対的貧困と相対的貧困について。
内田樹の研究室:相対的貧困は解決できるか
以下引用。

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「貧困」とは、私の私的な定義によれば、「どのような個人的努力によっても社会的に向上できる可能性が閉ざされているような欠乏状態」のことである。
定期的な就業機会、教育授産機会を持たないことがその条件となる。
定期的に就業していれば、その人はなんらかの「考課」の対象となる。
考課とはプロモーション機会のことである。
教育授産機会があれば、自己教育によって有用な知識や技能を身につけることができる。
他者から考課される機会を持たす、自己教育の可能性もないような種類の欠乏を「絶対的貧困」と呼びたいと思う。
それに対して、「相対的貧困」とは私が「貧乏」と呼ぶものである。
それは数値的には表示できないし、何か決定的条件の欠如としても記述できない。
それは「隣の人はプール付き豪邸に住んでいるが、私は四畳半一間に住んでいる」「隣の人はベンツに乗っているが、私はカローラに乗っている」「隣の人はスコッチを飲んでいるが、私は焼酎を飲んでいる」「隣の人はパテック・フィリップをはめているが、私はカシオをはめている」というかたちで、どちらも同一カテゴリーの財を所有しているのだが、その格差を通じて欠落感を覚えるということである。
相対的貧困は、物資の絶対的な多寡とかかわりなく、隣人があるかぎり、つねに示差的に機能する。

(中略)

私の経験知は「相対的貧困には手を出すな」と教えている。
「そんなものを政策的に解決しようとしたら、身体を壊すよ」と私の身体がアナウンスしている。
「自分の身体を壊さない範囲で、出会う若い人たちにこまめにプロモーション機会を提供する」というのが、私が思いつく「落としどころ」である。
どのように幻想的なアイディアであっても、個人が固有名で請け負う事業にはおのずと身体的限界がある。
その「限界」が「正解」のもたらすリスクをコントロールしてくれる。
私はそういうふうに考えているけれど、この消息を経済学や社会政策の語法で語ることはきわめて困難なのである。

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以上引用。
先の客観的物資的に補完することと、主観的に補完することについて書いたエントリとリンクした。
dioramic:満足度
私は相対的貧困の方をどうにかすべき、という方に寄っていた気がする。厳密に言うと違うんだけど。
絶対的相対的の話はどちらも物質的なことで分けている、つまりとにかく食べるのに困るくらい貧しいということと誰かに比べて貧しいということ、なのだけどこれはどちらとも貧しいのは「経済的に」である。
私がいっていたのは、「主観的に」貧しい、欠落感のある人をなんとかすることに目を向けるべき、ということで。でもまあ内田氏の論によれば相対的貧困は脳の問題、とのことなので、かぶることになる。

手を出すな、かー。政策じゃなくてそれは文化なり任意のコミュニティでやることなのかもしれん。
経済的に云々というのはやっぱり賃金で家賃で物価で。とにかく地方に仕事がない。都市は家賃も物価も高い。農業の求人とかないのかな。
追記:農業求人ありました。

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