June 1, 2010

シック

最近早慶戦があった。

ご案内の通り、早慶戦というのは東京六大学野球のリーグ戦の最終組み合わせの早稲田VS慶應の戦いで、いうなれば巨人と阪神のごとく、往年のライバル、因縁の対決であり、かつ最近は早稲田と慶應が六大学野球の優勝を争うことが多いので、優勝決定戦でもある。
早慶戦は先に二勝した方の勝利で、一勝一敗だと第三戦が行なわれる。今年もそれ。
優勝が決定した暁には、勝利の美酒に酔いながら、神宮から大学までを数千人の学生が練り歩く(酒が振舞われるのは大学についてからだが大抵みちみちコンビニなどで酒を買い飲みつつ歩く。というか試合中から飲んでる)。新宿とかの大通り(車道)を交通規制させながら。しかも校歌だの応援歌だの何かのコールだのをしながら(うるさい)。沿道の人とハイタッチ、ビルからのぞく会社員の皆さんに手を振り、新宿の京王百貨店を見ては慶應倒せコールをする。
ちなみにその後は新宿コマ劇前での天下取りなる男の戦いが繰り広げられる模様だが、遠巻きに見たことしかない。サークルの男の子は1年次ズボンを破られる洗礼を受けたらしい。(最近は警察が厳しいのであんまり激しくないらしい。)

まあつまりは、酔っ払いの大集団的な感じである。しかも学生で社会的には割となんでも許されるような気分でいるのでたちが悪い。

で、私もパレードは4回くらい歩いたことがある。まじで最高である。
(ちなみに、早慶戦はものすごく楽しいカラオケを虚しさを除いて10倍したくらいの感じ。)

特に入学時に早稲田を愛していなくても、早慶戦で応援歌を1回から9回までの攻撃でずっと歌っているうちに、そして優勝などでもしようものならそのパレードで、いとも簡単にえんじ色に染まる。ああ早稲田でよかった、と心から思う。早稲田の人に早稲田好きが多いのは、この早慶戦含め数々のイベントやことあるごとに歌わされる校歌、先輩のそういう雰囲気がそうさせているのである。「早稲田で、ありがとう!」本人のせいではない。


それにしても、早慶ラグビーを見たことも一応あるのだけれど、静かなものである。応援団が力の限り応援するわけでもなく、みんなが立ち上がるわけでもない。そもそもルールがわからない(私見)。反則ばっかりで全然進まない(私見)。そして何その組体操、みたいな(私見)。スクラムを組む意味もいまいちわからない(私見)。テレビで見たほうがずっとまし(私見)。

つまり、早慶戦が早慶戦として成り立つには、早慶であることと大学であることと野球であるということの三つが必要不可欠なのだろうということ(雑な展開)。三位一体。
早慶であるというのはもうそうだろう。よくわかんないけど。ブルジョアとプロレタリアートというか。お互い(というか早稲田側は)いけすかねえと思っているし。まあ何気に他の大学より友達多かったりもするんだけど。早稲田にもいけすかないブルジョアみたいな人とかいるしね。
で、大学生。若い。暇。
で、野球。野球には人を熱狂させる何かがあるし、かつ伝統的に応援するスタイルだとか地元との密着具合だとかがファンにしみついている。

行きたかったなーという話。あ、それだけです。

早稲田つながりで。


最近ブラタモリの再放送で、早稲田をやっていて。タモリはたしか早稲田中退である。
住んでいたところの近くを丁度歩いていた。早稲田通りの方ではなく新目白通りの方(って言ってもわからないと思うけど、メジャーじゃない方)。神田川が流れている方(ちなみに神田川自体は全然きれいじゃない)。あまりに懐かしくてきゅんとなる。恋と間違うのも無理はない。物や場所を思うことも「恋う」っていうもんね。

丁度収録時期が春で、桜が咲いていた。
私はその桜の下を毎日大学まで歩いていた。私は街中ではこわくて自転車に乗れないので歩く。自然と徒歩圏内に家が定まる。そういういきさつ。

ブラタモリが話題なのは、タモリであること、散歩であること、より何より、東京であること、というのが大きいと思う。

まあもちろん「タモリ」であることのマニアックさというかある種のこなれた通っぽさ、純粋さ、もあるのだし、「散策」という比較的広範囲な、大人の遊びの中でも「ゲーム」とか「電車」とかの規定されたものではない自由さを伴うゆえに醸し出される大人っぽさ、もあると思う。
でもそこがもし山梨、とか、沖縄、とか、あるいは名古屋、とかだと違うのだろうと思う。それらは生きない。「タモリ」と「散策」を生かすには絶対「東京」である必要がある。

テレ東でやっていた「アド街ック天国」はそれを証明している、と思う。東京という町がいかに雑多であり多様であり魅力に富んでいるのか、そしてその地域により帯びる色味がいかに味わい深く変化していくか。そしてそれが視聴者それぞれにシェアされているということ。共感されるということ。

そしてそれを断片的に共有している首都圏の人々、地方出身者が、自分の愛着とともに画面から自分だけの思い出を想起させるのである。
この手の映像というのは、実際にそこに生活した人だけが実際の生活風景の中のいくつかとして知っているから楽しめるもので、そこに住んだことがない人には映像から想起されるものがない以上それは映像が映し出す断片的な世界なのである。同じ映像を見るということがその周りのことを思い起こさせるのかそうでないのかというのは、情報量にものすごい差がある。
脳の動きだって違うだろう。測ったことないけどね。

東京という街は、そういう街なのである。沢山の人たちが暮らしていて、沢山の風景や思い出を共有して、電車ではお互いの存在を受容し気遣うような。
東京論をいつかぶってみようかしら。

家族に、東京に行きたいか、と言われる。
行きたいに決まっている。面白い街だ。面白い人たちがひしめいてる。それはもはや期待でなく確信。ついったー見てるだけでもわかる。

永い人に「早稲田シック」とReplyされた。
本質的なことではある。
私は東京シックであり、友人シックであり、その両者に含まれる早稲田シックなのだ。早稲田に暮らした時間と場所とそこでの人々。楽しすぎた。楽しすぎて、書きすぎた。

上京したときは緊張してて東京の面白さに気づく余裕なんてなかったけれど。
8年経ったら東京ナイズされていた。塾でもヤマト言葉で教えてしまう。感覚も、持ってる服も、ゆゆしきことかな。ゆゆしきとか言いながらも、直す気はない。

早稲田シックしかり、東京シックしかり、お台場シック然り。愛しすぎた。人々を、名もない草木を、建造物を、海を、空を、クレーンを。ひたすら東京を。



人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。
-----------------------------------------太宰治

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