July 9, 2011

某都民

久々に、もうほぼ更新されてないと思って行っていなかったところのリンクを誤ってクリックしてしまい、そしたらあら、久々に見たら更新されていた。
うちみたいだけど。

私が多大なる影響を受けたブログ、「いけいけどんどん」である。
もうほんと、この人の思考の飛躍がつらつらと綴られる文章にはグッとくる。ひらりひらり。
ああ、こんな文章を書ける人がいるんだなあ、よかったなあ、と思う。

この手の文章は小説では読めない。新書でもない。つまり本では読めない。近いのはエッセイや評論だけれど、それでも体裁を整えてしまうのが商品。
テーマやストーリーの縛りが、その生きた思考をそのままに読み手には伝えてくれない。作りこまれたものも勿論素敵だけれど、いわゆる即興に溢れた、落としどころの特に決まっていない、まったく自由な、生の、有機的な、言葉たち。
わくわくする。ぼんやり思ったことがどんどんつながってその人の中にしか無い思考回路でふくらんでいく様。

例えば私の中の「有機的な」という言い回しは、どうしても会社法の時間にやった「事業」の意味ででてくる「有機的一体としての財産」から来ている。あと、江國香織の「海」の認識であるところの「有機的なにごり水」。
だから、私が「有機的に」とつかうときは、会社と海がイメージされている。
そんなの読み手には全くわからない。それを開示することもない。でもそういうのを整えず、赴くままに言い訳もせずにどんどんつなげていくのを見るのが、楽しい。まあ、私は。
そんなわけで、久々の原田氏節
「議論のセクシーさ」

色気は大事である。
私はいつか友人に、職務経歴書をレビューしてもらった際、「いいんだけどさ、色気がないね」と言われたことがある。ほんと、大人ってうまいこというわ。

July 7, 2011

書くということ

文章を書くということに飢えるという時期は確かにある。
その時はなにがなんでも書かなくては気がすまず、書くことがないときでさえ書くことがないということを書くのである。

その一方で、書くことに着地できない時というのもある。
そうだ、書くことはある意味着地なのだ。
でも、着地しないでいたい時もある。

書かなければ忘れてしまいそうなこと、しかし書いておき自分の軸に取り入れたいことを書き続けることによって、というかそういう行為それ自体を反復しているうちに、なんだかそういったことが身についてしまった。
身についたというのは、書いていることそのものというよりは書けなかったことも含め、行為とか時間とか思考することそれ自体とかが、血となり肉となったという感じ。だから、特に書かなくてもよくなってしまったのかもしれない。
同時に、あまり読まなくなった。読んでいるのは安吾の堕落論ばかり。

次のフェーズと言ってもいいのかもしれない。けれど、フェーズと言ってしまうことが今の自分にはしっくりこない。反発がある。反発があるようである。感情というより現象として。
名付けるということ、括るということ、軸で切るということ、それらが。今までそうやって世界をなんとかかんとか理解しようとしていたのに。発見をしては楽しくてそれを書きつけていたのに。

全てを放しておきたい、そうすることが自分を自由にするということな気がしている。

でも文章が好きなことに変わりはなくて。読んでいたいし書いていたい。それがアイデンティティのような気もしている。

July 6, 2011

近況など

今日はじめて、刀削麺というものを食した。
刀で削いだ麺である。はじめてなのに一人だったからきゃっきゃできなかったけど、すぐ前の卓に中国人、じょんぐおれん達がいたので、ちょっとときめいた。本場みたいじゃないか。どうして中国の人は坊主が伸びたみたいな髪型をしているのかしらと思いながら、パクチーと一緒に刀削麺をほおばった。
まあそんな感じですね、最近は。
晴れて試用期間が終了し正社員となり、まあ仕事内容などは変わらず、少しずつ別の範囲にもお呼ばれしつつルーティン。


先程テレビで、器の大きい、ということについて言っていた。
あなたは食事へ行ったときにメニューをすぐ決められますか、という質問で。
心理学者の人が、アメリカでいうキャパシティというのは、あることを決めずにずっと考えていられることなのだと言った。
だから即断即決したがるのは器が小さいと。即断即決をしたがる人は往々にして人にもそれを求めると。
だから決められないというのは、それを保留にしておける余裕がある人なのだという意味で器が大きいとか。まあ食事はあんまり関係ないと思うけど。

アメリカでは、というその話を鵜呑みにするとアメリカっていうのはほんとにわかりやすいなあと思う。日本では、たとえば「器が大きい」っていうのはこういうことだ、というのはすごくばくっとしている。それを決め打ちするというのはあんまりしない。どの単語に関してもそうな気がする。
九鬼周造という人が「いき」の構造という本を書いているけれど、それは「いき」つまり粋というのを詰めて分析し言葉を尽くし感覚に訴えなんとか一つの本で総体を捉えようとしたものである。3つの要素を挙げ、それについて説明を施し、できるだけその言葉の持つ空気を写し取ろうとしたものである。それでも一冊本書けちゃうのである。
端的な、というのを嫌うような気がする。それはつまり、取りこぼすのを嫌う、固まるのを嫌う、ということなのではないか、と思う。

誰かと何か仕事をしようとすれば、それは言葉をツールとして使わなければならないわけで、そのときには確定的に決めないと意思疎通をいう用をなさないわけだから、そりゃあちゃんと決めた方が効率はいいと思う。
けど日常的に、決めなければならないというのは、嫌がるような気がするのである。それこそ無粋というか。ばくっとしとけば対応できるじゃない、というような。
法律だって解釈でいろいろやるもんな。アメリカは判例でばしばしケースを要素化して決めていくけれど。

日本人は四角四面なんてイメージが少しあったりするけれど、全然フレキシブルだと思うよ。フレキシブルすぎて読めないのかもしれないよ。

全てを決める必要はないそしてどのみちそんなことできない

決めずに置いておくのはキャパシティが広いってことらしいし、いいんじゃないでしょうか。
しかしゆるいな。ぬるくゆるびもてゆけば、わろし。ってぬるいしゆるいし、って思ってた中学生の頃。