December 31, 2009

暮れ

今年も紅白を見つつ夜が更けて、年越しである。そばはもう食した。勿論沖縄そばである。年越しそばで日本そばを食べたことがない。

一年を振り返ろうかと思ったけれど、振り返っても特に大きな変化は何も無かった。
基本的には引きこもっていたので、日常が淡々と過ぎていったし、本もさほど読めず、時たま沖縄への来訪者と酌み交わした。仕事量だとか会う人の数だとか、飲む酒の量だとか読む本の数だとか、非常にスローダウンした一年だったと思う。しかしその分テレビにはよく接した。
体は休めたけれど、弱った。元々やわいけれど、さらにやわくなった。体重は3キロくらい減って、身長は1センチくらいのびた感じがする。頑張る。

ああ、そういえばWeb上での活動としては、ブログを引っ越しました。お手数をおかけしました。そしてついったーを始め、そして特に頻繁にはつぶやかず、Google readerを使い始めては埋もれたり。あっという間に未読が1000+になってるのです。

ぽつりぽつりと考えたことを書いていったり、誰かの言葉をメモしたり、日常を書き留めたり、気ままに更新しておりましたが、温かく見守ってくれてありがとうございました。コメントありがたく拝読しているので、異論反論間違いの指摘等今後ともよろしくお願い申し上げます。

来年の目標は、断酒です。ハードルかなり高めですが努力します。

December 29, 2009

memo:091229

「我思う、ゆえに我あり。であって、汝思う、ゆえに汝あり。とは言ってないということ」

クオリア追記

追記(2009.12.29)

考えに言葉が追いついてなくてひどい文章になってしまったので直そうと思っていたけど、時間をとれないままにコメントつけてもらったので、コメントとエントリとの齟齬が生じないように追記にした。
先のエントリはここ:クオリアって

前エントリで、私は「感情」と「クオリア」を大体同じ意味合いで使っていた。
で、物理主義の人々はその「感情」「クオリア」を、単なる脳の化学反応やらなにやらの作用のため生ずる現象であると前提していると、私は思っていたのに、
先のリンク先の書き方からすると、そういった作用とは別に、精神的なといいますか物理世界とは別に、「感情」や「クオリア」というものを観念しているように見えたから、それって矛盾してないのかなと、思ったってことだ。

同じサイトに、誰かが質問をしていて、その人は、
「エンジンをどんなに分解しても、『走る』という現象がでてくるわけではない、ということと同じで、脳をどんなに分解しても『クオリア』が出てこないってことじゃないでしょうか」
と言っていたのだけど、私もそんな気がする。
で、別に「走る」が出てこなくても、みんなあんまり不思議だって思ってないんでしょ。
しかも、エンジンを分解しても「走る」の起源がわからないから解明できてないとは言わないだろう、と。

つまりその「感情に意味なんて無い」と言った人は、我々は電気信号とかによって動いていて感情もそうで単なる現象にすぎない、ということを言ったのだと思う。ある意味、我々はゾンビである、と言っているように聞こえたということ。だからその感情が残ったりもしないし、死んだら無かったも同然になるのだと冷め切った感じで言い放った、ために私と口論になったりしたわけである。耐久性の無いSDカードみたいだ。
それで私は、たとえそうであっても、他人がそう思っていても、自分が感情に意味を与えて意味があると思って生きていればいいや、と思うようになっていった気がする。私の個人主義である。


確かに、私の周りにいる誰かは「感情」なしで動いているのかもしれない。というかある程度違う「感情」で動いてるとは思う。その差異って、程度問題であろうと思う。出た。程度問題。
あと、外見ではそれがわかんないけども別段支障ない、ということ。でも結局、感情というかそうしようという気持ちが無ければ行動が難しいようになっている(少なくとも私という脳の構造はそうなっている)のでやっぱりそれを「感情」と呼ぶかどうかは別にして、そういう作用が脳内で起こってなければなかなか難しいのではなかろうか(「感情」の定義問題)。
この、外見でわかんなければいいじゃない関連はここで書いた。
dioramic:内心と行動の一致・不一致について思うこと


でもこう考えると他の人って、ある程度ゾンビっぽい気がする。得体が知れない、理解できないという意味で。

もしかして他の人に自分の脳内の声が聞こえてるんじゃないかって思ったことはあるな。サトラレ。
トゥルーマン・ショーもそんな感じだよな。

将来的に、脳の仕組みとか結構わかって、考えてることとか思ったこととかを取り出せるようになったら、献体みたいに脳を差し出したりして、その人の考えたことをいろいろわかるようになったりするのだろうか。
今ここで書いてる文章も、脳内の開示なんだろうけど、都合のいいことしか開示しないからな。よく知らない人に告白されたことが昔むかしあったのだが、そういう時って、デューディリしなくていいんですか、と言いたくなる。まあ対価は時間とプライドくらいだからそんなに調査しなくてもいいんだけど、って、結婚相手を親が調査するとかいうあのドラマに出てくる風の話ってまさに軽いデューディリだけど、そういうのじゃなくて人格的にというか。

December 28, 2009

クオリアって

ご近所のサイトで出ていた、「哲学的ゾンビ」なるものの話。
そこにわかりやすい説明のサイトとして挙げられていたのでリンクしておく。

哲学的な何か、あと科学とか:ゾンビ問題

ここでいう「哲学的ゾンビ」とは、
見た目人間だけど、脳という機械である反応をしているだけで、クオリア(体験とか質感を感じること)なしに行動している者
のこと、らしい。わかりにくかったら上記リンクへどぞ。

なぜこれが「哲学的」なのか、よくわからないのだけど。
それってなんというか、当たり前じゃない?って思った。いや自分はそうは思ってないのだけど、ある一定数の人々、つまり物理主義というか科学教というか、そういう人々はそう思っているのだと思っていた。


というか、私は数年前、
「感情に意味なんて無いよ。全ては化学反応と電気信号だから」
的なことを言われたのだけど、そう思っている人々は皆、「我々は皆、このいわゆる『哲学的ゾンビ』なんだよ。だから感情とか、脳が作ってるだけで、意味とか無いよ」って言っているのだと思っていた。そういう言葉があること自体は知らなかったけど。

大体この、クオリアってのは何だ。それこそ脳の作っているものではないのか。
その「意識とか主体的体験」とかいうものそれ自体が、脳の作ってるものだという立場ではないのか君たちは。と。わざわざクオリアというものを観念すること自体が、その物理主義と相反しているのではないか?それ物理以外の何かを認めてるでしょう。

と、その上記のリンク先に対しては思う。


で、関連してクオリアというものが脳の働きの分析によっては解明し得ないという点(と同じサイトに書いてあったので。ここ。)。
これ茂木さんが言ってるなあとは思ってたけど敢えては読んでいなくて、よく知らないのだけど、この人は、脳の分析をしても、クオリアを感じた時にどういう化学反応が起きていたということはわかっても、そのクオリアの起源がわからないから「解明できない」、と言っている。
それって、その化学反応なのか電気信号なのか部位なのかわからんけど、それがわかったということが解明な気がする。
これ前のブログで書いた、「なぜ」には2つの違う意味がある、っていう話だと思う。「なぜ」には「原理」を問うているときと、「目的」を問うているときがある。つまり、「どのように」というときと、「なんのために」ということ。で、先の脳の反応を解明するのは前者にあたるわけである。
後者の「なんのために」は、これはわからないとしかいえない。なんのために生まれてきたのか、とかと同じレベルでわからんことである。というかそもそもその「目的」が存在すると言う前提自体が、「目的」をもった者の存在を肯定していて、物理主義と反している気もする。や、わからんけど。


関連して、最近私は物理とどう関係しているのかはわからないけど、脳の中だけではないなと感じるようになっている。心的なもの、魂的なものがあると思う。それが巡ってるのか一回こっきりなのかはわからないけど、あるっぽいなーと思う。

この前「くるりくるり」とかいうエントリで書いたけど、植物とか虫とか、脳無いけど生きてるし、しかも死ぬし、その生きてる時と死んでる時っていうのの差が魂的なものの内在か否かのような気がしている。
そんなの信じないぞ、というのが流行りだったし、逆に思いっきりスピリチュアルなのも流行ってるけど(そしてそれを食い物にするのは本当にどうかと思うけど)。


かつ、「違うけど同じ」というエントリにもつながる。脳とか体とかの差が今の我々の差であって、それが違い、なのだけど、根本的に体を取り去った後に残る魂的なもののレベルでは多分優劣ほとんどないのではないだろうかと思うに至っている。
そうすると、環境や体のレベルでは生まれつきという自分ではどうしようもないけど、魂レベルでは平等なのかもしれないなどと思うのである。やっと境遇の違う人たちと同じフィールドに立てそうな気がしてきたのである。


で、クオリアってなんだ。何か読もうかな。

December 26, 2009

Fit

昨日はクリスマスである。
クリスマスイブの夜、その前日にクリスマスパーティ自体は終えた我が家の夕食はゴーヤーチャンプルーで、おやつには煮干しばかりを食べ、クリスマスはおだやかに過ぎていった。
それでもクリスマスイブの夜にはやっぱり、昔サンタさんが来るのをわくわくしながら眠った時の気持ちを思い出す。思えば遠く来たものである。テクマクマヤコンとかやってたのである。ティモテ人形をもらって嬉しかったのである。妹のシルバニアファミリーに嫉妬したのである。
今年は全く静かなクリスマスだな、と思った。なんだか神妙になった。


その翌日。昨日。クリスマス当日。
家で寛いでいたら、妹がなにやら妙なテンションで帰ってきた。
「たっだいまー♪」
という具合である。
ちなみに普段妹は疲れきって帰ってくるため「・・・ただいま」くらいのテンションである。

飲みつけない酒でも飲んでしまったのかしらと思ったが、そうではなくて手に大きな箱を2つ抱えている。曰く、「忘年会で当たったんだー」。

「最初はね、当たったのPS3だったんだけど、交換してもらってきちゃった」というちゃっかりした妹の持ってきたのはWiiとWiiFitであった。素晴らしい。PS3も欲しかったけどWiiはみんなでできるもんね。
ゲーム機というのは、今となっては買える金があってもプライオリティの低いものである。
クリスマスイブにゴーヤーチャンプルーとは、と不憫に思った神様がくれたクリスマスプレゼントに違いない。


妹のいる会社は、経費をすごく切り詰めてる割にイベントが派手で、この前も会社(と生徒。専門学校である。)みんなで奥間のリゾートホテルに泊りがけで行ってたし、忘年会もホテル、ゲームの商品はテレビという具合なのだそうである。5位くらいでおそらくBINGOしたのであろう。
これが10年前の私であれば、飛び上がって喜びトリセツに飛びつくところだが、もう26である。そんな子供じみたことはしない。穏やかに喜び、穏やかにトリセツを読み、さくっと接続する。まあ、あんまり10年前と変わらない。この手の機器類は家族の誰も不得手としていて(文系家族)、結局私が接続するまで誰も手を出さないのである。しかし私はやる気の問題だと思う。是が非でもゲームをしたいという心意気だと思う。ひかりTVの時もそうだった。まあいいや。


そしてWiiFitに興じ、各々、目標設定を完了した。
途中、WiiFitボードが逆向きだったというハプニングもありつつ、私は2週間以内に+1キロ(筋肉で)を目標とした。BMIで標準の域にすこし足りないのである。しかし1キロの中身が筋肉か否かはわからないのが難点である。


近頃胃腸がとみに弱り、家人より食事制限を課されている。クリスマスケーキも禁止(生クリーム)、乳製品禁止、肉禁止、揚げ物禁止、冷たいもの禁止である。ヤクルトも飲めない。昨日はみんなが焼肉で私は鮪のソテーであった。焼肉がよかった。焼肉とかもう何年も食べてない気がする。母の気遣いに感謝するも、悲しい。
このままでは正月に餅を禁止される憂き目にあいかねない。正月に餅禁止などなんとむごい仕打ち。
とりあえず、忘年会の飲酒を控える所存。克己。

December 23, 2009

ワセダ三畳青春期

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)/高野 秀行
読中。

面白い。早稲田に住んでなくともわからなくない。
三畳一間のアパートとはよく言ったものだけど、それだけじゃなくて、起こってるエピソードが面白い。
そして11年間そこに居つづけ、世界を旅し、7年間大学生をしていた筆者になんだか励まされる。

その本の話を少しすると、いつもの永い人は(なんかやたら沖縄にいるのだ)似たようなエピソードを語ってくれて。無断転載。


彼は、「衣食足りて礼節を知る」という言葉から、「住はもしやいらないんじゃねーの」的なことを思い、「俺は住を放棄する」と高らかに宣言し、賃貸借契約を解消してしまった。多分22歳くらいの時だ。
そしてしばらく公園とかファミレスで夜を明かしていたが、季節は冬、風邪を引き、さすがに「住は必要だ」と思うに至り、大学近くの不動産屋に入って「安いやつから順番に見せてくれ」と言った。
最初に連れて行かれたのは一階に老夫婦のいる下宿。一階部分は6畳。至近距離にねぎを刻むおばあさんがいて、不動産屋さんが「こんにちは」と言うも何故か完無視。二度言うも完無視。「今日はダメみたいです」という不動産屋さんをせきたて、二階に上がると、6部屋ある。つまり1部屋1畳。「1万6千円です」。それで、やめたらしい。
結局彼は4畳半の部屋に住んでいたが、風呂もなし、寒さが厳しいので暖房に光熱費がかかり、ある日銭湯代と光熱費を計算してみたら6万を超えており、それでなぜ世の人々が6万も7万もする部屋に住むのか実感をもって納得がいった、という話。
でも結局そこに2年住んでたという話。

それ本とかにできますね、と言うと、早稲田なんてそんな人いっぱいいるんだよ、との答え。確かにそんな気もする。私の周りにいなかっただけか。


あとはひどい先輩の話も聞いたがそれも面白かった。ひどかった。
麻雀やってて彼女を2時間待たせて、待ち合わせ場所に行ったが、もうパチンコの時間だったので彼女に「5千円貸して」と言ってすぐに立ち去ったとか、彼女の実家に住みついてぷらぷらしていたので彼女の父親が心配して職をあてがったところ、就職してすぐに彼女と別れるなど、あまりに自由すぎる。
それで私が嫌だと思っていたまちがって付き合ってしまった人も、そんなにひどくなかったのかなと思える次第。上を知るのはいいことだ。


それでなんだか楽しくなった。いい本です。

December 20, 2009

Japan:船員「皆さんもう飛び込みましたよ」

クリスマスである。

クリスマスって、毎年散々批判されつつも結局、みんな結構無批判に祝ってるものみたいで。

そして先日ついったーで見たカップルの会話(もうすぐクリスマスだから別れたくないってやつ)見て更に思ったのだけど。

よくよく考えるとクリスマスってなんでこんな恋人と過ごす日みたいになってるの。チキンとケーキ食べる日みたくなってるの。雰囲気?バレンタインもそうだけど。
イエス・キリストの誕生日だからお祝いするのだよ。2日前の天皇誕生日はそんなことしないじゃないみんな。いいのか。建前上いいのかそれで。天皇誕生日をケーキとかご馳走とかで祝う家庭とかカップルって聞いたこと無いんだけど、あるのかしら。国旗掲げるおうちはあるよね。

そして私もまた、そういうものだと思っていたわけで。普通に恋人とケーキ食べたりお台場行ったり横浜行ったりしたわけで(いずれも先方の希望)(いずれもカップルだらけ)(お台場に住んでいた友人が当日になって「今日お台場では恋人がいない人には人権がないから家から出られない」という理由で飲み会をキャンセルした)。

慣習というのは不可思議なものだ。
皆がそうだから、というのは結局ものすごい動機たりうるのである。結局。

くるりくるり

この前、庭の雑草を抜いていて、ふと、これ抜いた瞬間も生きてるよなあと思った。
林檎を齧って、ふと、この林檎って瑞々しいけど生きてるのかなと思った。
花を切って活けている時花は生きているのか?
植物とか昆虫って脳ないのになんですごく普通に生活を営んでいるのか?彼らの中にあるのは何だ?生きてる時と死んでる時の違いは何だ。
人が死ぬのはいつなのだ。

とかいうことをよく思います。

そして、ああ巡ってるなあと思います。
マクロで見ると結局ずっと生きてるなあと思います。
壮大な環のひとかけらを担っているわけです。
精神世界にまで思いを馳せるならば、有機交流電燈のひとつの青い照明なわけです。ひかりはたもち、その電燈はうしなわれ。

December 16, 2009

お金持ちになるということ

お金を稼ぐって、お金を他の人から奪うってことなんじゃないのと急に思い立つ。何かと引き換えにせよ、一応。
お金持ちになりたいという願望は、他の人々からお金を巻き上げたいってことなんじゃないのと。


でもなぜお金持ちになりたいのかと聞かれて、お金をつかってより良い生活をしたいからだと答えるならば、それはお金をつかいたいからってことだから、それすなわちお金を他の人に渡したいからだってことになるな、と。それなら奪って渡すってことで、とんとんなのかしらと。

つまりは「たくさんのお金が自分を通っていくようにしたい」と思っているのか、と。1得て1渡すよりも、10得て10渡したいというか。それが100なり1000なりになればbetterというか。

たくさんお金を稼ぐ方法は数あるけれど、大抵何かしらの価値を相手に提示してその対価としてお金をもらう(株とか為替とか遺産相続とか、なんか違うのもあるけど)。そしてお金を使うのもまた価値に対して今度は自分が対価として払うのである。
そうしたら、「たくさんのお金が自分を通っていく」ということは、自分にも周りにも多くの価値を生むことを要求しているということになる。自分が大きな価値を出し、別の大きな価値を買う。そして世の中はカチに溢れる。勝ち。


カチカチ言い過ぎだよと思っているし(自分含め)、みんな厳しすぎるよねと思っているので、せめて私は「人に甘く自分に甘く」を座右の銘として掲げているわけで。人に厳しく自分に厳しくなんて、なんだか不幸な気がするのです(なので着信拒否などという厳しい沙汰は取り消さなければならないのかもしれません)。
価値の亡霊。価値観の違い、なんてさらっと違うのが当たり前のように言う一方で、価値が普遍固定のもののように扱われたりする。かなりアバウトに使われてる言葉だと思ったり。


余談。
カネ、カネというけれど、カネは道具だから。
金本位制ってあったけど、つまり貨幣は金に交換できるという保証があるから安定するって話だけど、でもよくよく考えてみれば、金に交換できるよって言われても交換したくないよなあと思って。金持ってても何も楽しくないもの。金、食えないし。金の価値ってどれだけなのか?普遍的なものっぽく設定してたみたいだけどそうでもなくないか。まだ米とか小麦とかマイケルの音楽とかの方が汎用性ありそうじゃないか。まあ昔の話だけど。
今って紙幣自体に価値があるって考え方なんだね。銀行券は、株券や手形みたいな有価証券とは違う扱いなのだね。でもどう考えてもあの紙自体に価値があるというよりは、何らかの価値を表章していると考えた方が自然な気がする。米1キロ引き換え権分とか。


今日はこんなところです。

December 15, 2009

飲み込め

怠惰シーズン中。ダウナー。

食べるのすら面倒なのに、忘年会とか行けるのか。
年を一緒に酒で飛ばして忘れるほどの時間も共有していない人たちとの忘年会。

忘年会って会社にしっくり来る気がする。いろいろあったけど、叱ったり叱られたりミスったりほんといろいろあったけど、水に流してまた来年よろしく的な。会社というか組織というか。嫌なこともあるけど互いに必要とするから。
友達とは滅多に嫌なこと無いもんな。友達との忘年会は、年末を理由にした飲み会だな。ふむ。

世界は広いから、苦手なものから逃げていられた。けどこれからもそうできるかどうかはわからない。
「落下する夕方」で華子が言ってた。逃げるのは苦しいと。早くゲームオーバーにならないかなあって思っていたと。
ああ、いつか逃げることについて書こう。逃げるというのは何かしら深い気がする。直感的に。
「逃げる」という言葉の罪悪感、格好良さ、終わりのある感じ、ツケが回ってきそうな感じ、危うさ。螺旋。追っ手。守るもの。
鬼ごっこが嫌いだった。逃げるのが苦手だった。あの苦しさ。鬼の方が楽だ、あの遊びは。

以上。

December 14, 2009

違うけど同じ

BSつければ韓国ドラマという具合の今日この頃だが、我が家でもいくつか見ていた。
というか私が東京にいる間に家族が見ていた。冬ソナ以外は時代劇が好きらしい。で、その中にNHKでやっていた(今はBS TBSでやっている)「チャングムの誓い」というドラマがあるのだが、これは私も結構好きで。その中で、主人公が子供時代に女官見習いをしている場面が出てくる。見習い仲間の中には意地悪な子もそうでない子もいるのだが、その時は皆一応、横一線で。しかしその後運命の波が翻弄し、敵同士になったり、ある子は側室になったりで、同じ宮中にいても全然違う人生を送る。皆一緒だったのに全然違う人生を歩むんだよね、と母と妹と話していた。


似たようなことを、新生児室でたくさんの赤ちゃんを見てて思った、と母が言った。
生まれた時は、皆同じ産着を着せられてて、同じ時間に母乳をあげて、同じような透明な箱に入れられて並んでるんだけどね、それぞれが退院して家に帰るっていうときには、ある子は本当にお金持ちのお家で、家族が迎えに来て、すごくかわいらしい服を着せて大事に大事に連れて行かれたりするし、ある子はお下がりの産着をささっと着せられてお母さんだけでぱっと連れていかれることもあるし、もう本当にその時からそれぞれ違う人生を歩むんだなあって思ったんだよね、と。

そうよなあと、思った次第。

妹は、最近告白していたのだけど、中学生くらいまで、みんなは自分と同じ気持ちなんだと思っていたらしい。その感覚はよくはわからないのだけど、曰く、「今日は曇ってるからみんなももやもやした気分に違いない」とか「今日は体育があるからみんな楽しい気分に違いない」とか思っていたらしい。
もう一人の妹が最近告白していたのは、「小学生の頃、誕生日が同じだと血液型も同じだと思っていた」というもの。そして彼女は未だに干支が言えない。

意外と違うんだよね。人って。
一緒だと思ってると、驚く。小さい頃というのはそういう驚きの連続だったような気がする。段々そういう驚きは減っていくけど、それは多分似たような人が集まっていくからじゃないかと思う。コミュニティにしても学んでいるものや就職する業界にしても。最初はそういう共通項がないまま、同じ地域というだけで集まった集団の中にいるから、合わないのかもな。

沖縄のために何かしたいって思ってきたんだけど、実際東京から帰ってきてみて、昔のこと思い出したり妹たちの話を聞いたりして、別に特に沖縄の人々が特に好きって訳でもないなと思い、ていうか学校でいじめとかレイプとかの問題を起こす子達なんかはかなり嫌いだったしなと思ったりして、モチベーションが下がったことがある。そんなのばかりとは言わないが、一定数いる。そんなのよりは、東京で頑張ってる人たちの方が好きなのである。
とか思ってしまう。でも理解してみたいとは思う。あまりに理解できないけど、もしかしたら同じ人間だから、理解できるかもしれない。少なくとも、尾崎豊が理解できないのは、理解してみたいと思う。太宰を弱者と切って捨てないこと。

人間、違うんだけど、ある意味同じだと思いたい。
何かは同じなはずというか。

デーツ2件

立て続けに院の友人とデートする機会があった。意外と皆さん沖縄に来るのだ。

一人は雑談王の人。久々に院時代に戻ったような既視感。場所は違えど、全く同じ感覚。
しかしとにかく素晴らしい雑談スキル。雑談以上でもなく以下でもない、ポジショニングの妙。
雑談というのは人によると、ネタがなくなってきて単なる言葉の発し合いのようになったり、探りあいになったり、思い出話になったり、口説きになったり、自慢話になったり、経験の告白になってみたり、つまり異質の何かになるということがままあるのだが、彼と話している時というのは全くそれらにならない。雑談以上でも以下でもないというのはそういうことである。
どうでもいい話をさらさらと流しながら穏やかにハイな状態のまま楽しく散策やお茶をする。彼の偉大さはそれができるというところにある。ある意味無欲というか。深入りしないというか。むしろ雑談それ自体のみを愛しているのではなかろうか。ある意味貪欲ではある、雑談に対する飽くなき追求。なぜ彼があんなに記憶に残らない話を何時間も続けられるのか、一度分析してみたい。彼と話をした時間というのはもう何百時間、いや千時間以上だと思うのだけど、記憶に残っているのはUFOに詳しいらしい、くらいのものだけである。重要な示唆を得たこともないし(これは私の側の問題という可能性もあるが)、ゆえに惚れることもない。

残念ながら、誰も彼に恋愛感情など抱けまい。彼は常に女子に取り囲まれていたが、浮いた話は聞いたことがない。皆彼をマスコットと認識していた。後援会もあったわそういえば。しかも入ってたわそういえば。


もう一人は同い年の、常にモデルのような体型を維持している女の子。しかし気さく。
沖縄で会うのは初めてで、かつかなり久しぶりにもかかわらず、やっぱり既視感。会話の雰囲気が全然変わらない。沖縄料理をつまみながら、ここは馬場か早稲田かという風情。
そういえば、サシで話すことが多い。ある女の子とは、サシ飲みするか、という時に、互いに「サシ飲みやって話すこと無かったらどうしようか」と心配する感じだったのに、この子とはかなり自然にサシ飲みする。飲みというか語らいというか。サシがしっくり来るというか。
私はどうも女の子相手だと気を遣う。男の子には気を遣わない。社長とかなら気を遣う(けど酔ってくるとやっぱり遣わなくなってくる)。でも彼女に関してはあまり気を遣わなくて済む。彼女が自然だからだと思う。気を遣ってると思わせない感じ。

就職の話、ブログの話、めんどくさい人の話、等々。
めんどくさい人というのは、私が生まれて初めて着信拒否した人で、皆に共通してめんどくさい人なのだけど、たまにその人の隣に住んだり自転車を借りたりできるという猛者(女子)もいて、先のエントリにも書いたようにめんどくさいことが嫌いな私は感心する。
めんどくさいことというのは往々にして、それをこなすといいことがあったりする。
飲み屋でおじさんに絡まれたときに、上手に相手をしてあげると飲み代がタダになったりする(先の猛者にはよくあることらしい)。そういう。どっちをとるかで、私は確実にめんどくさいことから逃げるタイプである。飲み屋でおじさんに絡まれたら速攻で帰る。だってめんどくさいじゃん!飲み代タダとかいっても、そういう商売の人に比べたら安いじゃん。
多分彼女もめんどくさいこと嫌い派だと思う。めんどくさい人について、今や寝癖の段階で苛っとくるらしい。わかる。超わかる。

そういえば、先の雑談王が会った直後におそらく買ってくれたのだろう本が送られてきた。
親切なおじさんから本が届く(2回目)である。私がtwitterで、困窮してるからツイッター本は立ち読みします的にかわしたから(本音はツイッター本あんまり興味無かった)、「本を買うお金も無いかわいそうな子」という認識になったらしく、本買ってやるというので、じゃあ誰かに貸しっぱなしで返ってこない文庫の宮沢賢治詩集がいいです、と答えたら、詩集にプラスしてマイジョウオータロウの本も送られてきた。ぱらぱらと立ち読みした時点で買うことは無いなと思っていたけど、まあ読んでみるかもしれぬ。というかこれお薦めという趣旨なのだろうか。

December 10, 2009

怠惰

全てが「面倒」というところに行き着くことに気づき、そしてその「面倒」は食においてかなり大きく作用することに気づき、しかしそれは結構根本的に侵してはならない領域であることに気づき。

怠惰こそ敵。怠惰こそ自らを蝕むもの。死に至る病、もう一個ありましたよキルケゴール先生、的な。

しかし怠惰だ。
私の一日はほとんど怠惰でできている。たまに勝てる。大概勝てる時というのは他者が絡む時である。しかし人間関係というのは時にもっとも面倒である。働いているある時期に、この種の人間関係は今無理だな、キャパシティオーバーだな、と思ったのが彼氏彼女関係である。厳密に言うと、面倒な彼氏彼女関係である。
実はその時期、好きではないのに嫉妬するという経験をした。恋の厄介な面だけ抱えそうになった。これは割に合わないと早々に解消した。こういうこともあるのか、と思った。出来る限り嫉妬だとか憎しみからは離れたところにいたい。面倒の極みだから。

話が逸れた。

怠惰とのんびり、もしくは怠惰と寛ぎは、違う。怠惰はリラックスではない。
だからといって何事も怠惰を追い出して勤勉へ転換しろというのは無理だから、生きるのに必要な限度で怠惰を追い出すべきである。Maybe。

ある意味省エネなのだと思う。最小エネルギーで動いていたいのだと思う。なぜかはわからない。登校時のコーナーリングと通じるところがあるのかもしれない。


こうやって間が開くと、文章がすらすら出てこなくて困る。