December 29, 2009

クオリア追記

追記(2009.12.29)

考えに言葉が追いついてなくてひどい文章になってしまったので直そうと思っていたけど、時間をとれないままにコメントつけてもらったので、コメントとエントリとの齟齬が生じないように追記にした。
先のエントリはここ:クオリアって

前エントリで、私は「感情」と「クオリア」を大体同じ意味合いで使っていた。
で、物理主義の人々はその「感情」「クオリア」を、単なる脳の化学反応やらなにやらの作用のため生ずる現象であると前提していると、私は思っていたのに、
先のリンク先の書き方からすると、そういった作用とは別に、精神的なといいますか物理世界とは別に、「感情」や「クオリア」というものを観念しているように見えたから、それって矛盾してないのかなと、思ったってことだ。

同じサイトに、誰かが質問をしていて、その人は、
「エンジンをどんなに分解しても、『走る』という現象がでてくるわけではない、ということと同じで、脳をどんなに分解しても『クオリア』が出てこないってことじゃないでしょうか」
と言っていたのだけど、私もそんな気がする。
で、別に「走る」が出てこなくても、みんなあんまり不思議だって思ってないんでしょ。
しかも、エンジンを分解しても「走る」の起源がわからないから解明できてないとは言わないだろう、と。

つまりその「感情に意味なんて無い」と言った人は、我々は電気信号とかによって動いていて感情もそうで単なる現象にすぎない、ということを言ったのだと思う。ある意味、我々はゾンビである、と言っているように聞こえたということ。だからその感情が残ったりもしないし、死んだら無かったも同然になるのだと冷め切った感じで言い放った、ために私と口論になったりしたわけである。耐久性の無いSDカードみたいだ。
それで私は、たとえそうであっても、他人がそう思っていても、自分が感情に意味を与えて意味があると思って生きていればいいや、と思うようになっていった気がする。私の個人主義である。


確かに、私の周りにいる誰かは「感情」なしで動いているのかもしれない。というかある程度違う「感情」で動いてるとは思う。その差異って、程度問題であろうと思う。出た。程度問題。
あと、外見ではそれがわかんないけども別段支障ない、ということ。でも結局、感情というかそうしようという気持ちが無ければ行動が難しいようになっている(少なくとも私という脳の構造はそうなっている)のでやっぱりそれを「感情」と呼ぶかどうかは別にして、そういう作用が脳内で起こってなければなかなか難しいのではなかろうか(「感情」の定義問題)。
この、外見でわかんなければいいじゃない関連はここで書いた。
dioramic:内心と行動の一致・不一致について思うこと


でもこう考えると他の人って、ある程度ゾンビっぽい気がする。得体が知れない、理解できないという意味で。

もしかして他の人に自分の脳内の声が聞こえてるんじゃないかって思ったことはあるな。サトラレ。
トゥルーマン・ショーもそんな感じだよな。

将来的に、脳の仕組みとか結構わかって、考えてることとか思ったこととかを取り出せるようになったら、献体みたいに脳を差し出したりして、その人の考えたことをいろいろわかるようになったりするのだろうか。
今ここで書いてる文章も、脳内の開示なんだろうけど、都合のいいことしか開示しないからな。よく知らない人に告白されたことが昔むかしあったのだが、そういう時って、デューディリしなくていいんですか、と言いたくなる。まあ対価は時間とプライドくらいだからそんなに調査しなくてもいいんだけど、って、結婚相手を親が調査するとかいうあのドラマに出てくる風の話ってまさに軽いデューディリだけど、そういうのじゃなくて人格的にというか。

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