October 19, 2012

ペンディング

一連のツイートで普段だいたい思ってることは言えちゃっているのであんまり書くこと無いんだけど、あんまりああいうのばっかりツイートすると偉そうに見えるから、ブログで残りを書こうとおもう。

自分がすごく辛いなあという時期をすごした経験が良かったと思えるのは、今そういう状況のまっただ中にいる人の気持ちがいくらかでもわかるということと、割と中立的な立場から、つまり自己弁護ではない(まあ周りからそう見えるというだけだけど)立場から、その気持ちを言えるということだ。

以前はどちらかと言えば、すごいなぁと思う人たちの思考を観察したり、言っている言葉に感銘を受けたり、そういう人たちのそういう部分を少しでも取り入れたいとも思ったり、という方面にばかり関心があった。それは勿論それがかっこいいからだし、かっこいいものに惹かれるのは仕方がない。理由なんて無い。
勿論、今だってかっこいいなと思うし、なんだか新しいものを見れば興味は示す。

以前と変わってきたのは、そうじゃなくて、なんだかうまくいっていない人、悩みを持っている人、弱みを抱える人、まあそんなの程度問題で誰でもそうなんだけど、言い方を変えれば、そういうものに真っ向からぶつかってる人の気持ちの方に寄り添うことのほうにより関心がある。同情とも少し違う。なんというか、同士というか、辛そうだな、きついだろうなっていう気持ち。


単純に、誰かの事を考える余裕がそれまで無かっただけのことなのかもしれない。
自分の抱える問題でいっぱいいっぱいで、自分をどう解決するかばかりを考えていた気がする。私はどうしたいのか、どういう能力があって又は無くて、どういうビジョンがありえて、世界の中でどの位置にいればよくて、どの方向に力を注げばいいのか、そういうこと。
そういうのを考えて考えて能力の許す限り考えた痕跡が前のブログだ。

そして、それらの問いに答えが出たかというと、出なかった。

答えは自分の中には無かった。
厳密には、答えは「動いていない」自分の中には無かった。
多分、答えは動きの中にある。生きている、動いているその軌跡の中に、そこで発生する感情とか出来事の中にちらちらと、ある。
でもそれを体系化して、ひとつの原則として圧縮して抽象化して、「これが真理です」と言ったとしても、誰かがそれを本当の意味で理解するためには、実際に動いて経験するという解凍作業がこれまた人生の長い時間をかけてかかる。

こういう話を書くと、「こころ」の一節を思い出す。
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「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
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上で書いた、昔はかっこいい人に憧れてそれを追ってわくわくしていたのが今はそうではなくうまくいっていない方に寄り添いたいと思う、という話は、実は同じものを違う角度で見ただけの話で。
私がかっこいいと思っていた人々は、その人柄や、知識の豊富さや、経験の豊かさや、技術の高さや、思想や、頭の良さが、かっこいいのだと思っていた。
でも多分、そうじゃなくて、そのありあまる能力を、掛け値なしに誰か行き詰まっている人のために使っているから、かっこいいのだった。
誰も味方がいない、言葉の通じない外国人の被告人のために。震災の被災者のために。派遣切りにあった人のために。いじめにあっている子どものために。

私の意識が、その人達をかっこいいと思う方ではなく、その人達を突き動かしている対象へ移動したのは、至極当然といえる。私の能力でできることはたかが知れているとはいえ。
とりあえず、無理やりまとめると、いろんな問題はそこら中にあるんだけど、その全てをペンディングにして出来ること少しずつやっているとちょっとずつ答えをチラ見せしてくれる人生って楽しいなと思う。

まあ、マクロで見るとね。