July 29, 2010

さて、今日の現代文は。
今日は2008年のセンター試験第1問。やたらにもやもやした文章であった。一体何が言いたいのやら。いまいち好きではなかった。

まず、闇について。明るい場所というのは全てが視覚で認識できてしまう、つまり視覚によってものと自分との距離が測れてしまう。それは視覚を軸とした統制である。逆に闇はそうではない。視覚を奪われた途端に我々の他の感覚が活性化し、そこにある空間を感じ取る。
そうして、我々が近代建築などにおいて求めてきた明るい場所では空間が均質化され、距離として把握されてしまう。つまり、失われたものは水平方向の深さ・奥行きである。

的な。
ここから「奥」というものについての考察。
「奥」というのは空間的なものだけではなく、時間的、心理的なものを含む。ということを辞書から引っ張ってくる(どこかで見た手法である)。
「奥」というのはプロセスである。奥に何かの対象物があり、それがクライマックス的なものではない。らしい。
そういうことを、神社の参道を例に用いて縷々述べる。

そういう文章であった。なかなか覚えていて私としても嬉しい(その点について)。
闇の話はまあ感覚的に共感する部分もあるのだけれど、闇というのは深さであるということや、「奥」というのがそのプロセスに本質があるということなどは、ふうんそうかなあという感じである。

そもそも私は、完全な闇というものと離れて久しい。そういう場面はそんなにない。夜中に起きているから、わずかな灯りを頼りに部屋を歩くというのはよくあるのだけれど、物の輪郭くらいは見える。そうではなくて、全くの暗闇。そして、自分の部屋のようにどこに何があるかわかっているわけではないような場所で。そういう暗闇を体験しなくてはならないという気がする。生物として。
なんだかんだいっても、私は視覚に統制されている。視覚に頼りきっている。そうして、視覚により周りの見慣れたものものに頼っている。それが急に見えなくなってしまったとき、やっと自分が一個の個体であることを理解できるような気がする。
手ざわり、とか、息づかい、とか言うけれど、本当に本当にそういったものと対峙するとき、視覚は大きな位置を占めすぎている。

ダイアログ・イン・ザ・ダークというものがあるそうで、東京でやっているらしいのだけれど、これに結構興味がある。院の同期が日記か何かで書いていたものだ。東京に行く機会があれば行ってみたいと思っているのだけれど。
そういう親密さと心細さというか、孤独感と不安感というか、危機感と攻撃性というか、つまり原始的な感じが、闇の中にはある。ような気がしている。

「闇は光の母」という詩が谷川俊太郎にあるのだけれど(頻出)、それは、宇宙の闇は私達を愛していると締めくくる。
闇が我々を包んでいる?闇が空間に溶けている?
私にとっての闇のイメージは、奥行きとか深さではなくて(むしろそれは視覚の守備範囲で)、ただそこにあるもの、すぐ側にいるもの、体をとり囲んでいるもの、で。そうして、闇とは違うものかもしれないけれど、目をつぶると、むしろ自分の内側へと意識が向くのがわかる。自分の中の闇へ。それにきっと体内は真っ暗なわけだし。

「奥」については、何があるか分からないような神秘性、大切にしているような感じ。確かに何かの対象物がクライマックスなわけではないけれど、「奥」に向かうこと、「奥」へ通されることというそのこと自体が。そこを奥とすること、共通に認識していること。そこへ向かうということ。大奥。奥ゆかしい。奥様。
そういえば、「沖」と同根だとか。興味深いではある。沖もまた奥なわけか。


どうでもいいけれど、「イン・ザ・ダーク」と聞くとついビョークおばさんの映画を思い出す。美しい映画。
Dancer in the dark(Bjork - I've Seen It All)

July 25, 2010

鷺ノ宮

書くこと無いので久々に街回顧でも。
えーとこの前が学習院下だったから、次は鷺ノ宮(さぎのみや)だな。

鷺ノ宮というのは東京都中野区。鷺ノ宮は西武新宿線の駅である。急行が止まるので結構いい。

大きな地図で見る

西武新宿線というのは名前の通り、西武電鉄がやっている新宿始発の路線。新宿から、早稲田の近くである高田馬場を通って埼玉方面にのびていく。
鷺ノ宮は高田馬場から7駅。各駅停車だと長いが急行だと一駅。長いとか言うと埼玉から通っている人とかにものすごく怒られる。

西武新宿線に関する覚書。
・定期が安い
・西武の選手のポスターが貼ってある
・西友がある
・沿線の家賃も比較的安い
・住宅街で住みやすい
・マンションは家族タイプも充実
・新宿まで一本だからそこそこ便利
・朝と終電が激混み
・西武新宿駅が微妙な場所にある(JR新宿駅が遠い)
・西武新宿駅の地下街も微妙
・スポーツセンターとか飲み屋とかあるにはあって何気に便利
・ホームとホームをつなぐ橋がない場合もあるので乗り過ごした時は注意。


鷺ノ宮は急行が止まる、とはいえ田舎である。駅前こそマックだとかケンタッキーだとか総菜屋なんかがあるけれど、少し行くともう住宅街、だし、駅がそもそもかなりぼろいし寂しい。夜とか。コンクリートに弱弱しい蛍光灯の灯り。辺りは真っ暗。酔っ払い。なぜか祭りでもないのに商店街にはいつもちょうちんが下がっていて、街灯の代わりなのだろうと認識していた。
実はここに住むことにしたのは、大学に近いというのも勿論その理由だったけれど、その時恋人がその沿線に住んでいたからでもあった。さすがに同じ駅にはしなかったが、何かと便利だった。ちょっと会おうと言えばそこら辺のマックで会えるし、本屋でお互い本を選ぶのもCDショップでお勧めをおしえあうのも便利。マンネリ化した愛の生活。いつも一緒。昔はこういうのがよかったのだ。今思えばうっとおしかっただろうな。

彼のバイト先の草野球大会で試合見に来る?っていうんで、行ったのだけど、彼以外全然知らなくてアウェー感半端なく、いたたまれない感じになったというのももういい思い出。
草野球は全然面白くなかった。彼はキャッチャーだったから全然見えなかった。

鷺ノ宮のアパートの管理人さんもおじいさんだけど、ちょっとおねえ言葉を使った。なんだかやたらに褒められた。N響のチケットが届いては「オーケストラなんて素敵ねえ」とか、遅く帰れば「勉強熱心だねえ」と褒められた。娘さんがオリエンタルランドに勤めているとかで、すごいじゃないですか、というと、照れながら「全然。総務だもん」と言った。いよいよそのアパートを去るという時には、抱擁された。結構びっくりした。けどお気持ちはありがたく頂戴した。

女子だけのアパートだったが、全然仲良くならなかった。話をする機会もなかったのである。実はこのアパートだけでなく、学習院下のマンションも、中野新橋のゲストハウスも、大井町のマンションも、そしてこれから書くであろう目黒のマンションも、全然仲良くならなかった。なぜかしら。結構フレンドリーなのに。会わないからかな。

そのアパートはフローリングで、ベッドと机以外何もなかった。1階で少し怖い。オートロックではあるが意味無い。塀を越えたら入れる。

深夜雪が降って来たことがあった。積もるのを見たことがなくて、とっても嬉しくて着替えて外へ出た。寒い。ビニール傘を差して、アパートの周りを歩く。誰にもさわられてないきれいなさくさくの雪に自分の足跡を残して歩く。その記憶が鮮明に残っている。

その頃は、くるりの「ワールズエンドスーパーノヴァ」あたりが出た頃で、アルバムの「The world is mine」を聴いてた。そうして、EGO-WRAPPIN'の「満ち潮のロマンス」も聴いてた。どちらも名盤。

ここに住んでいたのは2002年頃。大学2年。大学では刑法各論だとか債権総論だとかをやってた。多分、物権も。バイトは家庭教師(1年の秋から3年の終わりまで)。オリジン弁当のお世話にもなっていたような気がする。
OKスーパー(かなり安いが野菜は高い)は常に何かが割り引きなので(しかも7割引とかある)うれしかった。最初からレジ袋有料の店で、ここにはよくお世話になっていた。段ボールもいろいろもらえた。
新青梅街道を越えるといなげやというスーパーがあり、ちょっと大きな買い物(タッパーとかフライパンとか)はここで。ドラッグストアもあった。
ラーメン屋もあったが多分つぶれた。
住みやすくはあるが、多分上井草(かみいぐさ)とかの方がいい感じではある。
上石神井(かみしゃくじい)には銀だこあるしね。頑張れば石神井公園行けるし。あんまり手入れはされてないけど、柳が綺麗。

よし、そんな感じです。

July 24, 2010

かっこいいについて、二点ほど

・かっこいいの伝染
かっこいい、って、伝染するなーっていうこと。
例えば、F1でドライビングテクニックがかっこよくて、おおおかっこいいって思って、そしたらその人の顔も雰囲気も、特にかっこよくなくてもかっこよく見えてくる、ということがある(例:アロンソ)。
そうすると、ドライビングテクニック関係無しに、顔だけ似ている違う人もまたかっこよく見えて、もうそういう系統の顔はかっこいいっていうことに自分の中での価値観ができてしまう。(例:シャビ)
しかし、例えば顔がまずかっこよくて、その人のドライビングが微妙でも発言や言動が微妙でもかっこよく見えてくるかというとそれはなく、むしろその顔が微妙に思えてくる(例:バトン、ライコネン)。顔がいいと思って、なんて思ってしまう(いくらかっこよくても好きでそういう顔に生まれたのではないから、その人の責任ではない、勿論。所謂「かっこよく」生まれたくはなかったという人も沢山いると思う)。そっち方向の伝染は無いのだなと、思う。

で、シンデレラというコンビの畠山さんという芸人の人がとても好みのタイプなのだけど、その人の漫才を一度たりとも見たことはなく、その人が面白くないとか、言動が残念だとか、そういうのでかっこよく見えなくなってしまうことを恐れている(久々に見つけた逸材だから)。恐らく漫才ではあまり芽が出ないのだろう、幸いにしてテレビで放送されることはなく、今まで難を逃れている。というか、彼は漢字が得意ということを売りにしているので今のところ「Qさま!」と「平成教育学院」以外出演しないのである。ロザン宇治原とめっちゃ競合している。ところで宇治原が所属するところのロザンというコンビは、漫才は面白くないけれど勉強ができるので、「京大芸人」という本を出して売ったり、勉強のDVDを作ってある塾限定で見ることができるようにしているらしく、そのビジネスモデルは注目すべきところがある。
あ、脱線。


・かっこいいがかっこわるいを包む時
かっこわるい、というのの中にも、かっこいいかっこわるさ、というのがある気がする。
かっこいい負け方、とか、かっこわるいんだけどそれを敢えてやるところがかっこいい、とかそういう。
うわーかっこわるいなあ、けどそこがかっこいいなー。っていうことがあるじゃないですか。
何を見てそう思ったのか忘れてしまったのが悔しいけれど。演劇とかかな。
うちは三姉妹なのだけれど、姉妹にしてはあんまりキャピキャピしていない。余所のうちではもっとジャニーズの何とか君がどうのこうのとか、ポスターが貼られてるとか、あるらしい。で、うちはどうかというと、幸いポスターは貼られていなくて、下敷きやうちわもなくて、あるとすればmixiのtop写真がある時アロンソになっているとかそういうことくらいである。
で、ここ数年高校生の妹はラーメンズの小林賢太郎と野村萬斎が好きだったのだけれど、最近「戸次さんがかっこいい」と言い出した。戸次重幸さんという人らしい。誰?って思って、言われるままに写真を見たけれど、やはり知らない人だった。
で、その人の出ているドラマの予告編というか第0話というのを見せられたのだけど、とっても演劇人だった。この人はかっこわるい芝居をやるいわゆる三枚目で。
で、多分妹はこのかっこわるさに惹かれたのだろうなと思う。そんな感じ。劇団上がりの人にはなんだかそういうかっこよさがある。ちなみに妹は大森南朋も好きである。あの人はちょっとタイプが違うけど。あの人かっこいい役やりすぎである。


固有名詞が多めです。知らない人はスルーしてください。

July 22, 2010

やめるはひるのつき

沖縄は、先日スコールが続いたが、その後また炎天が続いている。
思わず「あお。」と言ってしまうほどの青さ。光が散乱。まぶしく光る強い青さ。
出勤は徒歩。

行く道では音楽を聴いている。blueばっかり聴いている。

蝉の鳴いている声や車の音、もしかすると肌のやける音が本来なら聞こえているのかもしれないけれど、それらがふっと遮断されて、ただただ静かな音楽が聴こえていて。
そうしてやけにその強く光る空とか、そこらに無造作に茂った雑草たちや、畑から飛び出している月桃の葉や、野生の薔薇、白く焼けたアスファルトの道路までもが、美しく見えて。
ふいに、音楽と景色が同期して、頭に流れ込んできて。映画のような。
いや、それよりも不思議な感覚。実際に腕に焼けるような熱さと汗と吹き抜ける風も同時に感じていて。脚は少しタイトなジーンズがしめつけるのを感じ、スニーカーの足の裏にも自分の体重を感じていて。
心がころころと音を立てるような。

音楽に本当に感謝するのはこういう時で。

本当に美しいものを感じたときは、人は泣きたくなるのだ。

ニシカワさんの最近のツイートに心打たれる。
「現実がつらい。というのも、3連休で完全に夢想現実に浸ってしまったから。仮想現実でも平行世界でもなく、夢想現実。たとえば音楽をききながら見る景色とか、たとえば写真を撮ろうとしてる時に見る風景とか。物理世界にいながら精神世界と同期している状態のことを、こういうのだ。いま決めた。」

物理世界にいながら精神世界と同期、だなんて。


話は変わって。

深夜にパソコンの前に座っていると、「いちめんのなのはな」という曲ばかりが頭の中をループする。有名な山村暮鳥の詩である。風景。純銀もざいく。思わず小6の子の教科書を見て「この詩いいよね!」とその子ばりのテンションで言ってしまった。
もはや良すぎて良さを説明する気になれない。感じてくれ。

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  風 景
     純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

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やめるはひるのつき。なのだけれど。
私は昼の月が好きで。夜の低い空で異様な赤みを帯びる化け物のような月も好きだし、高い空にひらめく細い下弦の月も好きだけれど、青い空に気づかれぬまま薄く白くただようような月も好きなのであり。
きっと昼の月に関する表現はいくらもあるのだろうけれど、この「やめるはひるのつき」はとても好きな表現。
尾崎放哉の「うそをついたやうな昼の月がある」という句もあって。
昼の月というのは、病んだり、うそをついたりしているようである。
まあ後者の場合「うそをついたやうな」は「月」にはかかっていないかもしれないけれど。でもまあそういう、うしろめたい気持ち。

昼の月っていうのは、夜にあるべきものが昼にあるということのかなしさ、みたいなものを象徴しているのかもしれない。
夜いきいきとするものたちに、昼のものたちは嫉妬するのかもしれない。夜はそれらは見えなくなってしまうから。そうして昼には昼の世界がある。

「昼の 部屋の中は ガラス窓の中に ゼリーのやうにかたまっている」

「これは カステーラのように明るい夜だ」

もしかして、ドイツ語などに男性名詞、女性名詞、中性名詞があるように、俳句に季語があるように、太宰が悲劇名詞と喜劇名詞を分ける遊びをしたように、昼名詞、夜名詞、暮名詞、明名詞などあるのかもしれぬ。
お弁当は朝か昼。ゼリーは昼。カステーラは昼下がり。グラスは夜。縁側は朝と昼。サッカーボールは夕方。とかそういう。

いつだったか、江國さんの文章に、朝用の音楽と昼用の音楽と夜用の音楽を厳密に分けている人がいるという話があって。自分で音楽を楽しむ分にはいいけれど、町に出ると混在しているから気持ちが悪いという話。

音楽は分けないけれど、でもどうしても記憶とひもづいている音楽は、そのシチュエーションに気分が持っていかれてしまう。

July 20, 2010

フェアネス

訳あって今日は夜中に国際通りを歩いたのだけれど。

東京のどの街より安心感があったのは、そこらを歩いている人々や路上に座り込んでいる人々がアウェイ感を持っていることが肌でわかり、そうして自分がそれほどのアウェイ感を持っていないこともわかったからで、そうしてアウェイでは人は滅多なことはしでかさないのかもしれないという一つの命題みたいなものが浮上してきたのだった。国際通りはぱっと見繁華街だけれど、その実はお土産品店通りなのである。今は。だからある一定の繁華街に見られるような犯罪の匂いがない。
座り込んでても少し心もとなげに道行く人を見る人たち。格好は派手だけれど、なんだか律儀というか。よそではよそ者のような顔をするなんて。

東京ではみんながある程度よそ者のような顔をしていて、ある程度自分の街みたいな顔をしていたような気がする。その雰囲気が私は確かに好きだった。排他的でない感じ。みんな同じ地平に立っている感じ。ルーツなんてどうでもよくて、集まってきたもの同士の同等な感じ。あなたがどこの出身であろうと、どういう地位にあろうと、どういう人生を送っていようと、関係ない、っていう。それはある意味でそれに関心を持たないという意味で冷たくも思えるが、それに干渉しない、それを理由に偏見を持たないという意味でフェアだと思う。私はフェアなことが好きだ。
東京出身の人も勿論いるけれど、そこは流石に品が良くて、「べらぼうめ、こちとら江戸っ子でい」とは言わない(少なくとも私の周りは)。


フェアであること、というのは私の中で結構重要なことである。
そういう価値観で育てられたということもあろうが、性格上そこに落ち着かないと決着がつかないように感じるので嫌、というのもある。
何がフェアで何がフェアでないのかは確かにわかりにくい。でも、ある場面場面で、この方法が一番フェアだと思う、というのがある。
先の東京の例で言えば、出身地がどこであろうと構わない、というのがフェアで。
今日の塾の小学生が二人、帰りにお菓子を選んだ時に、一つしかない飴を二人とも欲しがった際早い者勝ちというのは私の中でフェアではなくて(たまたま同じ飴を私が持っていたのでもう一人にあげた)。
有名な人が有名でない人に向かって威張るのもフェアではないし、学歴が高い人が低い人に威張るのもフェアではないし、地位が高い人が低い人に向かって威張るのもフェアではない。
もう少し進んで言えば、年上が年下に必要以上に威張るのもフェアではない。というか、年齢を理由に威張るのはフェアではない。

つまり何かを理由に優位に立ち、その優位を利用して、意思に反して他者を押さえつけたり利用したりすること、これらはみんなフェアではない。
その理由はほとんど全部が大したものではないからである。
出身地、有名無名、早い者勝ち、地位、年齢、それらはその人の人間性がいかに優れているかを示すものではありえないし、実際優れているかどうかというのは周りの人間が勝手に言うものであって、明日風が吹いたら変わるかもしれないような軽薄なものである。
そうして、そんなものの上に立って安心しちゃって他者に向かってアドバンテージを主張するようなことは、フェアじゃない上に滑稽である。

そうして、そういったものはほとんど、人間という存在のレベルではとるにたらないものだと思う。そんなもので人間が対等でなくなるのはそもそもおかしい、ということ。それぞれはそれぞれに人間なのであって、それぞれに同じだけの質量とか感情とか生命とかを持っている。そういうものを持った人間たちがそれぞれに自分の足で歩いている。話している。考えている。それだけである。


年齢だって、生まれる年を自分で選べるわけではないのだし、大正より明治に生まれた人の方が偉いなんてことは無いわけで。所与条件(最近好き)。

そういうことで、
「国というのは、生まれながらに付与されてしまう所与条件であり、そのような先天的な条件をベースに戦をするというのは、なんだかフェアではないような気がする。」
という原田和英氏の言葉にものすごい納得感を覚えるのである。
※参考:内在する戦争(いけいけどんどん)

経済再開しよ。

July 18, 2010

身長が高いということ

最近気づいたこと。

塾とかで誰かに
「高校生の○○君はかっこいいんですよ」
って説明したときはその後に
「(身長が)」
というのがついてる。

身長が高いと結構間違いないというか、一応かっこいいことが担保されるじゃないですか。多分。一般的に。コンセンサス得られるというか。3高っていうくらいだし。古い?普遍?

沖縄だからか、身長は高い方が良く見える(沖縄県民の平均身長は各都道府県中最も低い)。
※都道府県別平均身長一覧(17歳)
富山の171.8センチに比べ、沖縄は168.9センチ。しかしこれは平均なので、実際はたまに大きい人もいるが基本背は低めである、感覚では。
高校生の頃は、県内に身長が高い男子がいない、というのが周りの女子の嘆きであった。たまに、「私は自分より頭のいい人としか付き合いたくない、したがって県内にその相手はいない」という発言も聞いた(高校生というのはまったく)。まさに3高。


院の友人は、
「身長は、高ければ高いほどいい」
という名言を残している。この名言は、
「2メートルを超えても適用される」
らしい。
同意するかどうかは保留。


で、なぜ身長が高いとかっこいいとされるのだらう。と。
高収入、高学歴はわかる。つまり生活力。あとブランドか。
高身長はルックスということなのだと思うけれど。しかしルックスのよさというのは定性的というか個人により大分好みが偏る。ある一定の定量的な何か、として、身長というものを設定したのであろう。

で、なぜ身長が高いとかっこいいとされるのか。
「身長が高い=かっこいい」ということを所与のものとして考えるならば、「かっこいい」というのは、背が高いことで相手が得られる感覚、つまり尊敬とか、安心感がどうしても伴うものなのかもしれない。それで、身長が高いことがそれらにつながって、女性に好まれやすいとか。仮説。やはり目線がより上だと、より頼もしく思えるものかもしれない。目線が下だとどうしてもかわいく見えてしまう。
そうだとするならば、尊敬や安心感を身長以外の要素で高められる人は、別に高身長でなくても「かっこいい」とされると思う(実際身長が高くなくてもかっこいいとされてる人はたくさんいる)。し、逆もまた然り。


で、「自分より身長が高い女性が好み」という男性がたまにいるけれど、そういうことなのかしら、と思う。女性に尊敬や安心感を求めているのかしら、と。そんな気がする。
まあ一概には言えないけれど。そういう体型が単に好きというのもあるだろう。

で、糸満高校の宮国椋丞君が身長が高くてかっこよかったっていう話。

で、が多い。

伊坂幸太郎ファンって結構多いのだと思うのだけど、気を悪くしないでほしいというか気を悪くすると思うからごめんなさい。
「オー!ファーザー」読み始めてみた。妹が図書館で借りてくるから。
だめだ。無理。むーりー。

あの会話がだめだ。いらいらする。

で、他にも以前永い人に誰かの本を薦められたときに数ページ本を読んだんだけれど、男の子と女の子のからみで、幼馴染かなんかを起こしに行ったらその女の子が寝起きで抱きついてきて「・・・充電」とか言うので仕方なく僕はそのままになっていた、みたいな、みたいな。そういうシーンだったのだけど、というか多分ミステリだから後半もしかしたら面白いんだろうけど、でもそういうのこれから何回か出てくるんでしょ。ちりばめられてるんでしょ。

って思って、買わなかった(というか大概彼の薦めた本は買わなかった)。

伊坂氏の本は、結構勧められて読んだのだけれども。多分inoとかにも。
申し訳ないのだけれど、あんまり合わなかった。他の作品のなかでも会話が嫌いとかいうのではなくて。うーん。全体的な品というか、すごいでしょ的な雰囲気とか、気の利いた一言でしょ的な感じとか諸々。娯楽なんだからしょうがないけど、浅い。

同じ娯楽でも、私は横山秀夫とかの方が好きなのだ。そして多分東野圭吾とかの方が好きなのだ。村上春樹はもっと好きだ。だってあれば深いもの。まあ少し微妙な性描写あるけど。
で、いわゆる純文学ならばもっと好きだ。

森見登見彦もちょっとそういうとこがあって。
お友達パンチ、とか、もうこの要所要所でいらっとくる。

なんだろうなこのいらいらの正体。
軟派だから?ぶってるから?それが面白いと思ってるから?気が利いてると思ってるから?
いや気が利いてるのはいいんだよ。気が利いてないのに気が利いてると思い込んでるのがよくないんだ。
文学性がないから?人間考察が中途半端だから?物事を一面からしか捉えられてないから?
真面目じゃないから?

じゃあお前が書いてみろよって言うんでしょ。

July 16, 2010

詩へ

ジュンク堂に行ってきた。

今回は初めて詩の棚に行ってみたのだ。やはり初めて行く棚はよい。とても興味深い。
おそらくはNHKの先日の100年インタビューが影響しているのだろうけれど、谷川俊太郎がたくさんあったし、かつ「詩とは何か」的な本が結構あった。まあ谷川さんは今や一番知られた詩人だろうからそもそも多いとは思うのだけれど。
この人も詩を書いてるんだ、というのもあって。吉本隆明とか辻仁成なんかも詩集が出ていた。へええ。

そして、有名なものについては、初版本の装丁を再現した愛蔵版というのも出ていて。


「春と修羅」とか「二十億光年の孤独」とか「蛙」とか、普通にほしい。でも今フリーターだから買わない。
結局は岩波の草野新平詩集を買いました。元々草野新平を読みたいと思って詩の棚に行ったのだった。

実は谷川さんの詩を探していたときに見つけたブログがなんというか結構本格的詩ブログで、それまで詩のブログというと結構詩人さんのブログだったりしたのだけれど(なので詩的な文章とか詩それ自体が綴られている)、このブログは専ら解説に徹しているというか。しかもかなり長く続いているようで。
今まで詩というものをちゃんと説明されたことが無い(もしくは覚えてない)ものだから、この際ちゃんと読んでみようかしらなんて思ったのである。
詩についてある程度わかったら、味わい方も今みたいに雲をつかむような感じではなくなるのだろう。

でもな、なんだかんだで結局最初の端緒はNHK「にほんごであそぼ」な気がする。最初はなんて前衛的な番組だ、萬斎使うとかすごいな、と思っていたのだけど、あの、日本語を心に響かせる技術は素晴らしい。視覚にも、聴覚にも。いちめんのなのはな。
私は本で詩の勉強をする前に、早急に「にほんご」のDVDを買わなければならないのではないかとは思っている。

July 15, 2010

いいこと/現代文

何か些細なことで、いいことしたとき、あーいいことしたなあって気分になる自分の単純さが嫌いではないが、いいことした気になってる得意げな様子は気に入らぬ。それでなんだか複雑な気分になる。
いいことはいいことなのだけど、でも些細なことだけに、それって当たり前じゃない?っていうことでもあって、そんな些細なことを「いいこと」と認識している自分の甘さ、みたいな。
しかもそれが些細であることを認識しているだけに、誰かに「ねえねえこんなことがあったんだよ」って言えないから、内面でもやる。
でもね、単に自分という一人間が気分いいんだからよしとする。考えすぎはね、よくないよ、体に。

今日の現代文。(2回目くらい?)
今日は科学論2。科学論って言うか、まあ科学論のごく一部だ。問題なので2ページくらいしかない。
で、その文章の主題は、「科学者はあたまがよくなくてはならない。しかしその一方であたまがわるくなくてはならない。」。みたいな感じ。
科学者というのは理解できるとか、現象を整理して前に起こったことの情報を間違えないようにその後の情報を整理し結論を導き出すとかいう意味で、頭がよくなければならない。
しかし、その一方で、普通の頭の悪い人よりものわかりが良くないことが必要である。普通の人がとばしてしまうような点に疑問をもち、疑い、考えるような、物分りのよくない朴念仁(筆者はこの言葉を使っていた)でなければならない。

ほほーんと思いました。
このあとは科学者の資質につき、この「あたまがわるい」「あたまがいい」の軸でメリットデメリットいろいろ書いてあるのですけれど。

そこらへんが、頭がいい人の不幸とか、頭が悪い方が幸福、とか、頭がいいと思ってしまったばっかりに一つの答えを見つけるために苦労して思索することとか、的な話を前かいたと思うのですが、ゲーテを出してきて。
LINK!
よく覚えていないので、あと眠いので、また今度にします。


※追記
で、撮ってもらった写真は加工して粗くなったのでアイコンにしました。しかしこれも深夜の別人格がやったことかもしれず、昼間の人格に消される可能性十二分にあると思われます。すみません。夜中に自分でやっていることがよくわからないのです。

※追記2
やはり夜中はいけませんな。

July 13, 2010

出力と沈黙と

その時読んでいる本に文体が影響される、っていうのは結構ある。
あるよね。

今は太宰。
私はなぜだか、「グッドバイ」から先に読んでいた。
恥ずかしながら、私は読んだ本をあんまり覚えていない。覚えるようになったのは本当にここ数年、多分原田和英氏のブログに出会った頃なので2006年くらいだと思うのだが、その時期になってやっと、本を読んだら「おっ」っと思ったところをメモするとか、何度も読んでみるとか、それを素材に自分の考えたことを書くとか(つまりブログですね)、そういうことをするようになった。

先日、内田樹さんのブログでタイムリーにも池谷さんとの対談の話が書いてあったのだけれど(少し前のエントリで「海馬」が池谷さんと糸井さんの対談本で、という話を書いた)、関連する部分を引用する。

以下引用
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スワヒリ語の単語40語を学習して、それから覚えたかどうかテストする。
という単純な実験である。
ただし、4グループにわけて、それぞれ違うやり方をする。
第一グループはテストをして、一つでも間違いがあれば、また40単語全部を学習し、40単語全部についてテストをする。
それを全問正解するまで続ける。
いちばん「まじめ」なグループである。
第二グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、40単語全部についてテストをする。
第三グループは、間違いがあれば、40単語全部を学習し、間違った単語についてだけテストをする。
第四グループは、間違いがあれば、間違った単語だけ学習し、間違った単語についてだけテストをする。
これがいちばん「手抜き」なグループである。
全問正解に至るまでの時間はこの4グループに有意な差はなかった。
まじめにやっても、ずるこくやっても、どの勉強法をしても、結果は同じなのである。
ところが、それから数週間あいだを置いて、もう一度テストをしたら、劇的な差がついた。
「まじめ」グループの正解率は81%。「手抜き」グループの正解率は36%。
まあ、これは天網恢々粗にして漏らさずというやつである。
さて、問題は、第二グループと第三グループはどういうふうになったかである。
第二と第三はやったことがよく似ている。勉強に割いた時間も変わらない。にもかかわらず、大きな差がついた。
さて、どちらが正解率が高かったでしょう。
1分間考えてね。
第二グループの正解率は81%(「まじめ」グループと同率)。
第三グループの正解率は36%(「手抜き」グループと同率)。
これから何がわかるか。
「学習」は脳への入力である。
「テスト」は脳からの出力である。
つまり、脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化するのである。
-------------------------
以上引用

つまり、出力でパフォーマンスが決まるということ。
こうしてブログにただただ書いていることも無駄ではないとどこかで思っていたところはあったが(つまり自分に対して)、ほほう、と思うではないか。
ほほう、出力かね。
(ここの物言いは江國香織の影響だろう。)

で、これを塾でもやれるかなーなんて考えちゃうところがまた少しあれなわけだけど(この辺の物言いはinoに影響されている)。


もひとつ、面白かった内田節を。
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入力過剰で、出力過少の学者たちは、そのわずかばかりの出力を「私はいかに大量の入力をしたか」「自分がいかに賢いか」ということを誇示するためにほぼ排他的に用いる傾向にある。
せっかくの賢さを「私は賢い」ということを証明するために投じてしまうというのは、ずいぶん無駄なことのように思えるが、そのことに気づくほどには賢くないというのがおそらく出力過少の病態なのであろう。
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使え!というやつだな。手を動かせ!動け!
私、インドア派なんでちょっと。おしゃべりでもないですし。ちょっと。
じゃなくてね。


出力の大切さはわかった一方、沈黙の価値もまた糸井さんにより語られる。

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「沈黙」は、空っぽのことじゃない。
人が生きているかぎり、たえず生まれている感情や、
感覚や、発明や、発見や、思想や、
もっとわからないなにかの泉みたいなもの。

ことばの巧みな人間に、いかにも正当な取引として
なにかを迫られても、臆してはいけない。
誰もが「沈黙」をもって答えることができるからだ。
「断る理由を語ってください。そうでないとフェアでない」
と、ことばの巧みな人間は言うものですが、
あなたの沈黙こそが、答えなのだ。

どうすることもできなくなったときに、
「逃げる」という行為は、
「沈黙」の一種なのだろうか?
逃亡の末に、さらなる「沈黙」が生まれて、
やがてなにかが見えてくることもあるのだが。

「沈黙」は、実力行使と結びつくと暴力になる。
だから、「もの言う社会」で、
「沈黙」は危険視されやすいのではないか。

「黙っていたらわからない」と言われるたびに、
「黙っているじぶん」が否定されていく。
やがて、少しだけ「黙っていない」ようになって、
「沈黙」も大事にせず、「口下手」な人間ができあがる。

宇宙は「沈黙」している。
神も「沈黙」しているらしい。
「沈黙」は、沈黙以外を従えて、
無から無へと進んでいく。
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「闇は光の母」みたい。
「闇は 私達を 愛している」のだ。

それで、卑近だが子どもと接することを考える。子どもの沈黙。その沈黙を尊重したいという気持ち。沈黙してると話は進まないのである。それでも子どもの沈黙に付き合いたいなと思ってしまう。最近の子どもは忙しいのであんまり一人ひとりと話す時間がない。今話しておかないといけないんじゃないか、今聞いてあげないといけないんじゃないか、今沈黙に付き合ってあげなきゃいけないんじゃないか、雄弁でなくたって、本当はハグしてあげたりとか、頭をなでてあげるとかした方がいいんじゃないか。
子どもの不思議な活力。生かすも殺すも回りの大人たちで、そして私はもう大人なのである。

うわ出力してたらこんな時間!もう力出ない。力石のように。まっしろにおやすみあれ。

July 12, 2010

週末

無人島って行った瞬間に無人島じゃなくなるなあ、と思って。

無って言った瞬間に無じゃなくなるのかしら、とも思って。
でもちょっと違うか。む。


そんなことしか考えなかった週末。
ただただ物言わず海を見ていた。

接待終わり。離島の海超きれいなのな。

July 10, 2010

読む速さと理解する速さ

小説というのは、読むスピードと頭で理解するスピードが丁度同じくらいになるように、設計されているのだなと実感するの巻。

まあ小説に限らず。どんな文章でもそうすると読みやすい。
今読んでいるのはまた太宰で。新潮文庫の「ヴィヨンの妻」を読んでいる。「トカトントン」を読み終わったところである。「トカトントン」あなおそろし。(先日手紙をくれた友人の分析によれば、私の送った手紙の語尾は、標準語80%、うちなーぐち12%、関西弁2%、中国語2%、土佐弁1%、古語3%、ちなみに体言止めは5%、だそうである。)

太宰はとてもとても読みやすい。おそらく意図して。ひっかかりがない。勿論少し昔だから、いったいなんだろうこの言葉は、っていうのが無きにしも非ずではあるけれど、まあでも全然ひっかからない。会話が多いし、語りかける文体が多いからか。
で、久々に糸井さんと池谷さんの対談の本「海馬」を読み返したのだけど、読みにくい。というか、読む速さと理解する速さが違うので、もたつく。
この本は、結構前、多分10年とか前に脳科学者の池谷さんと糸井さんが脳について対談していくという企画本で、割に面白かったりもする(読んだ時にコンサル辞めたばっかりだったのであんまり素直に面白がれなかったけど)。
対談なので読みやすい。話し言葉だから。で、会話としてすーっと入ってくるのに、その内容が急にちゃんと読まないとわからない話になったりする。畑の違う脳科学の話なのだから当然なのだけど。そうすると、読むスピードは速いのに、理解するスピードが急に減速したりして、目だけが字面を追って頭がついていかないということがまま起きる。その場合は目をたしなめて、戻るよ、と言い聞かせて戻り、字面をゆっくり追いながら理解が追いつくまで待たなきゃいけない。

で、「海馬」と「ヴィヨンの妻」を比べてみて、ああ小説ってそういう風にできてるんだなあと思った。

小説だって、わかりやすいものばかりではない。中島敦なんて最高にわかりにくい(私見)。けど、あれは読みやすくもない。だから、読むのも理解するのも大体同じスピードなのだ。もたもたするけれど、実感としてはじっくり読んでいる気になる。


結構ハウツー系の本とか、ビジネス書とかにもこの傾向がある、つまり、急に理解のスピードが減速して目だけ先走る。わかりやすく書こうとしてくれているから尚更、そうなるのだと思う。

そういう意味で、なんというか、法律書なんかは(他の学術書もそうだと思うけど)落ち着いてゆっくり読める。こちらとしても心構えがあるし、普通に読みにくいので。

永い人が速読法をやってたと聞いて、話を振ってみたことがあるのだけど(彼は勉強法の勉強に熱心なのだ)、法律書を読む時はじっくり読んで理解しなきゃいけないから使えないんですよ、と言っていた(確か。私は彼の発言をいつもちゃんと覚えられないのである)。
だよねーと思って速読法を取り入れるのはやめにした。つまんないし(まあ、しかし、速読というのはつまんない本を速く読んでしまうための術なのだと理解はしている)。

あ、そういえば永いさんでおもいだしたけど、彼玉泉洞という琉球観光スポットで大蛇に舐められまして。
説明すると、マングースとハブの(正確にはうみへび。「エラブー」という)水泳大会イベントの後に、大蛇と記念撮影していいですよーという時間があって、3mくらいあるでかいニシキヘビを肩からまわして手で持ってにっこりする、ということをしようと永い人にしきりに誘われ、怖がっていると思われるのも癪なので並んでやったのだけど、私が頭の方を持っていてにっこり写真に写ろうとしたら、蛇が何を思ったかこちらへ顔を向けてきて、永い人の手をチロチロと長い舌で舐めたらしい。それにびびってる瞬間が見事に収められていて、いい写真が撮れたので近々mixiにUPしよっかなーって思っている。ふふ。

しかし楽しかったなー。
二人で琉装までしちゃったので、撮った後、結納式か、とつっこんでおいた。でも初めて着たのでうれしくて帰って家族に見せたら、「父さんは許さんぞ!」と父が面白かったので「なんで?顔が大きいから!?顔の大きさで差別するの?!」と一緒にのっておいた。

今週末も実は別件で観光地めぐりをすることになっている。モテモテ王国。ゆらゆら帝国。ということにしておこう。実際お決まりのコースだ。

July 9, 2010

とっさのひとこと

昨日の文章はまったくわけわかめですな。
引用できればベストなんですが。

今日は7歳くらい年下の平成生まれの子に、「mogさんって何聴くんですか?」と聞かれて、えーとえーとなんだっけ何聞いてたっけ、相対性理論って言っちゃまずいか、くるり?くるりが無難?と思い、「くるりとかですかね」と言うと「あ、わかんない」と言われた。
「英語の人とか聴きますか」
「あ、聴きますね」
「誰ですか」
「うーん誰っていうか、Brian Enoとか?でも英語っていっても歌とか入ってないですよ」
「え、そうなんですか、楽器とか?」
「いや楽器っていうか、打ち込みというか電子音?」
「あ、そっち方面なんですねー」
「いやいろいろ聴くことは聴くんですけど」
「じゃあその誰でしたっけ、youtubeで聴いてみたいですー」
「いや多分つまんないですよ、仕事してた時疲れてて聴いてたんで」
的なしどろもどろで、最適解は何だったのかを今、考える。

一応無難なジュディマリとか浮かんだのだけど、解散してるし、この子20歳だから多分あんまり知らないだろうし、オザケンとか椎名林檎とか言ってもへえってなるだろうし、くるりだめだったし、そしたら多分アジカンとかACIDMANとかもだめでしょ、何、サカナクション?今風なのって誰?いきものがかりとか?AKB?しかし聴いたことないしな。嘘はいけん。
ジャズとかクラシックって言えばよかったのか?でも距離を感じそう。そもそも私のイメージが、ワインとか飲んでそう、らしい。飲んでない。けどむしろウイスキーですとも言えない。


でね、iPodの中身とかを覗いてみると、微妙で。微妙で雑多で、この人のは確実に追っかけてますというのがない。くるりとJUDY AND MARYと林檎さんくらいか。買い続けるモチベーションって私にとっては相当なのである、多分。

ああそういえば、タワレコ那覇店にくるり一味の手書きポップがあったので、つい「僕の住んでいた街」買ってしまった。くるり詩集も。ついでにクラムボンの「2010」。やくしまるえつこは悩んでやめた。今フリーターだし。しかし岸田繁は字が汚いよ。私の好きな人はなぜ字が汚いのかしら。私は字がきれいな方が好きだ。しかし好きになる人は字が汚い。いや、きれいな人もいたな一人。でも一人だけ。ていうか、男の人ってデフォルト字が汚いのか?

そういえば、「パンドラの匣」で「かるみ」ということについて書いてあった部分があって。かるみというのはとてもよいもので、芭蕉も晩年その境地に至ったのだとか。
そして授業で漢字ドリルをさせていて「軽妙」が出てきたところでほほーんとリンクしたわけである。いいね。

くるりにはね、これがある。全ての曲が「軽妙」というほど洗練されきっているわけじゃないけれど、それに近い。むしろ洗練されきってないところが良い。少しくぼんやりした不安げなところがありつつ、しかし風に吹かれて舞い上がるかろやかさ、空もある。わすれっちまうこともある。

だんだん聴きたくなってきたので終わり。
今度聞かれたら、LAVAとオスカー・ピーターソンとビル・エヴァンスとくるりとレイハラカミあたりをごちゃりと言おう。

July 8, 2010

二元論の功罪

人間が最初、喃語(乳児が発する「あーあー」などの声)とともに、手足をつかって言葉を表現するのに、言葉を習得した途端にそれが身体的特性を離れて、もっぱら理知的なものとして扱われるのは奇妙なことだ、という文章があった(前に何かのエントリで書いた)。

あれがどうしてかというと、というところで何が書いてあったか忘れてたのだが、今日授業があったので確認したところ、言葉というものが書いたとたんにテキストとして一人歩きを始めるというところにあるのではないか、というようなことが書いてあった。
つまり、遺産としてテキストを残せるというところに、人の身体を離れて言葉を遺せるというところにその理由がある、と。むしろそれで人間は言葉により他の動物より優位に立てたのだと。言葉が身体を離れてしまうと。

言葉が身体を離れてしまう、このことが、人間が発明した言葉というものなんだと。あるいは文字か。いわゆるテキスト。
この前の「世論とはそれを最終的に引き受ける人がいない意見のことである」という内田樹氏の言葉とリンクする。

この文章はこのあと、キリストの「聖書」がキリストという生身の人間を離れてそのテキストとしてひとり歩きし、そして古くなってしまったそのテキストを解釈するということがまず言葉を学習するということの手順になった、みたいな話になっていったような気がするのだけど、この辺で「パンドラの匣」を読んだので混ざっているかも知れぬ。
「パンドラの匣」では、キリストこそ最初の自由主義者であったのではなかろうか、という話が越後獅子によって嵐の夜に件の「健康道場」なる結核療養施設で行われるのだが、そこら辺もちょっと整理しておかねばならん。自由主義の下りは結構感心した気がする。


言葉がもっぱら理知的な、身体をおろそかにし、しかも身体を離れて一人歩きさせるということを、私は無責任なのかしら、と思ったりもする。

例えばブログの匿名性。
これなんかは自分の文章を誰のものとリンクできないように(しかし仮の名はあるわけだが)して、文章だけをひとり歩きさせている。むしろ文章ありきで、文章を読んでその書いた人を想像する、もしくはそれすらもしない。そこにはそういう文章を書くような人、という情報しか与えられていない(私はまあ名前自体は本名ついったーで出しているし早稲田だの沖縄だの院だの素性が知られる情報自体は読んでくれてる人ならわかるとは思うのだけど)。つまり、私は文責を負わない。

で、ついったーのbot。私はkotobanobotというbotを作ってつぶやかせているわけだけど、これらに収録された言葉達はもはやこの人にすら呟かれておらず、私という一個人の独断と偏見によりついったー上で紹介されているわけである。しかも140字というぶつ切りにされて。もはやひとり歩きというかなんというか。
わたしとしてはあまりにartなので紹介したくて紹介してるのだけれど、ぶつ切りにされた文章の本当の話者からはよくは思われておらぬかも知れぬ。文脈っていうのはあるし、それは文章全体を読まないと意図がわからないなんてことはたくさんある。で、だからこそ、私は切ってしまうのだろうと思う。そこだけを読むことが、想像力をかき立てるから。そこだけを読んでもわからないから抽象的になって、そのレベルでああそうか、ってことが起こるから。詩的なものを目指しているのかもしれない。

しかしついったーというもののRT。ひとり歩きも甚だしい。聞き手すら特定されていない。つまりそういうものなのだ、ついったーっていうのは。

でだ。ついったーは措いといて。
もう一個文章があって、デカルトの二元論の功罪を説いていた。つまりデカルトは身体的物質的世界と精神的霊魂的世界を分けてしまった。しかしそれはこの後の科学が発展する際に大きな功績があった。一方で、デカルトはそれらがまったく連動しないものであるという暗黙の了解を与えた。実際にはそれは違っていた。身体は精神に影響する、というか、精神の作用は身体の作用である。

この二元論の立場をだね、先の話に当てはめてみるとするならば、言葉が理知的な(精神的な)ものであって、身体的な世界とは別の世界にある、という考え方が出てくるわけだけど。
どうだろうか。実際そうなんだろうか。
理知的な言葉、口先だけを動かして話すこと、頭を使って言葉を駆使すること。
腹から声を出すこと。表情でも語りかけること。ハグをすること。
多分、言葉が上手になればなるほどなかなか触れ合わないんじゃないか。身体的とか精神的とかそんなん一緒くたにコミュニケーションとしていい気もする。

分けるとか無理無理思想があちらこちらで花開いている感じがする。無理だよ。
私はモラリストにもなりたくはない。

July 7, 2010

I was born.

今日高校国語の教科書で読んだ文章。
有名なのかもしれないけれど、授業中に漢文解かせてる間に初めて読んだ。

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I was born

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。
僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。 僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。つめたい 光りの粒々だったね。私が友人の方を振り向いて〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。

----------------------------------吉野弘「消息」(昭和32)所収


河童を思い出した。生まれてくる意志が生まれてくる子にある生物の話。
そして、I was born.ということがあるのと同時に I gave birth.があったのだということ。

生まれること、生きること、死ぬこと。それら一生命固体が負う宿命。それらの固体にとどまらず、連綿と続く種。生命。
「目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。」

卵は生命のかなしみのメタファーである。
健気な、しかししぶとい、線と線とをつないでいくような使命感。ああ。そうか。

というメモ。

July 6, 2010

観光客について

昨日は大蛇に巻かれたり(ニシキヘビとの記念撮影)、躍動する若者に感銘を受けたり(エイサー演舞)、花笠持って顔の大きさを比べられたり(琉装で記念撮影)、所謂ココナッツジュースを実から飲んだり、これでもかというほど観光客然とした一日を満喫した。

私は一応沖縄出身なのだけど、いわゆる観光地にはあまり行かないし、詳しくもない。高校生までしかいなかった上に今も車の免許を持っていないので、生活圏内も狭い。だから、結構観光地なんかに行くと、へえーそうなんだーっていうことが沢山あるし、それはそれで感動する。

で、永い人なんかと一緒にいると、標準語なので私も観光客と思われいろいろ説明される。沖縄では紅型という染物があって、とか。そうですか、と言いながら小学校のとき図工でやったなあと思い出す。母の友人は紅型作家でよく作品もいただいているのだけれど。私は言葉も服も結構東京ナイズされているし、顔も沖縄っぽくない、と思う。

でも最初、観光客と思われることがどうも嫌だった。大学生の頃はさらなり。
私は地元の人間で、他所の人とは違うのだ、何にも知らなくてただ遊びに来ているわけじゃないのだ、沖縄県民として嫌な思いも味わったし戦争体験なんかをずっと語られて育ってきたのだ、という気持ちがあったのだろうと思う。ただ沖縄にリゾートしに来る人たちが阿呆らしく見えたし、客だからといって観光地で働く地元の人たちに偉そうにするのもやたら傲慢に見えたのかもしれない。

ただ、今は少しそういう感情が薄れてきている。
程度の差こそあれ、私も観光客だろうと思ったからだ。
座間味島にいったとき、それを思った。座間味とかそういう離島の人は、私達が沖縄の人と県外の人を分けているのと同じように、さらに本島の人とその島の人を分けている。本島から来た人間は、本土の人より近いけれど、結局観光客なのである。島のことを何も知らない。数日だけ辺鄙な離島の自然を楽しんで、便利な都会へ帰っていく。
こうなってくると、もう観光客というのがどこからなのかは程度問題になってくる。その土地に生まれれば現地の人なのか、育っていればいいのか、何年以上住めばいいのか、言葉が訛っていればいいのか、顔見知りならいいのか。

もうひとつ。
私は観光客という響きが否定的ニュアンスを含んでいることを知っていたし、自分の感情とそれを同化させていた。観光客というのは都合のいい人々であり、お金を出してその地域のいいところだけを体験し、わかったような気になってあちこちで吹聴してまわり、みんながみんな揃って同じような場所へ行き体験をし同じようなお土産を買っている、傍から見るとばかみたいだ、という。まあいつもそう思っていたわけじゃないけれど、極端に言えば。
誰かにそうやって表明したことは一度も無いけれど、言葉にするとするならこういうことになるのだろう。
そして自分も違う地方へ旅行して観光客になった場合には同じことが言えて、でも地元の人にそう思われることは恐れていた。ばかな一観光客にはあまりなりたくなかった。

でも、最近観光客として沖縄を歩いてわかるのだけど、観光客の人々は意外といい人たちなのである。ちゃんと挨拶をするし、ありがとう、というし、沖縄を純粋に楽しんでいるし、勉強熱心だ。私なんかよりずっと。ガイドブックを何冊も読み込んでいたり、琉球の歴史についてよく聴き入っていたり、目の前に現れた珍しいものを記憶に焼き付けようと食い入るように見たり写真を撮ったりしている。暑さすら楽しんでいる。沖縄っていいなあ、なんて言う。
それで、都会では日々忙殺されていたりするのだ。

それで私は、最近観光客に思われても、観光客然として楽しむようにしている。だって私だって何も知らない。一生懸命説明してくれる、接客してくれる人に、「私地元です」なんていってがっかりされたくもない。
それで、観光客です、みたいな顔をして歩いていく。来週も接待。

July 2, 2010

谷川俊太郎 100年インタビュー

谷川俊太郎の100年インタビューを見た、再放送で。
前半は結構見逃している。で、後半。一応ちょっと面白そうなことを言ってたので、メモる。ああ、ちゃんと見たらよかった。

一つは、宇宙的自己と社会的自己がいる、ということ。
この宇宙的自己というのはいかにも谷川さんらしいと思うのだけれど、つまり自然的自己とでもいうべきもの。おそらくは、物質的な意味での、動物的な意味での、生命体的な意味での、自己。
で、後者の社会的自己というのは、あくまで人間同士の社会、関係性の中でのみの自己。
この二つがいつもあって、それを意識している、とのこと。
彼の場合、結構宇宙好きっていうか、20億光年の孤独のときから宇宙詩人なわけで、そして今でも宇宙詩人(多分ね)なわけだけれど(インタビューの時も宇宙のっていうか惑星のイラストのTシャツにジーンズという格好であった)。

それにしても宇宙的自己かぁ、と私なんかは思う。私なら自然的自己と言う。それは、「宇宙」という言葉がもしかすると全てを包含していないかもしれないと思っているからである。宇宙の外があったらそこも含めたいのである。いや、宇宙の外のことにまで思いを馳せているというのではなくて、「宇宙」と言うことによって今そこにある身近にある、むしろ自分自身であるこの場を離れてしまうような気がするのだ。つまり、「宇宙」というと、まあここも含まれてはいるけれど、少し疎外されたような感じがする。向こうのほう、という感じ。逆に「自然」と言うと、この身近なところに軸足を置きつつ、この世界全体、人知の及ばないところまで全て「在る」もの、という感じがする。まあ言葉の感覚が違うという話なのだろうけど。
もしかすると、私の場合、宇宙<自然、だけど、彼の場合は、自然<宇宙、なのかもしれない。

余談。
昨日書こうと思ったはなし(現代文の問題文章)の一つには、この「言葉を定義すること」というのがあって、「科学的」というものをどれだけ厳密に設定することが出来るだろうかという話であった。言葉を定義したところで変遷するのだ、というような話。嗚呼、本当にそうだろうか。
私はおそらくは、ある言葉について定義をすることはできると思う。ただ、その定義の中身の定量的な部分が変化するのだと思う。まあ「科学的」という言葉については定義するのが難しいだろうということは思う(そもそも定義してfixしてしまおうという意志がないのだし)。そうそう、定義は固定なのだ、あるいは枠組みの固定なのだと思う。


で、インタビュー。
もう一つは、詩の力について。

詩というものについては二つの意味があって、ひとつは詩作品という形式のことを指している場合、もうひとつは詩情ということを指している場合。前者の意味での詩形式というものでの表現は、力として衰えているとは思う、しかし後者の意味での詩情というものは、もしかするといろいろなものに含まれていて、それはずっと存在し続けるのだろうと思う。という話。

私も、そうだろうなと思う。今どき詩作品というのはなかなか目にしない。あったとしてもベストセラーにはなかなかならなくて、小説なんかのほうがやはり娯楽としては満足を得やすいのだろうと思う。理解もしやすいし。
その一方で、詩情(彼は言い換えて、英吾で言うpoetryですが、と言った)については、いろいろなものに含まれていると思う。同意である。しかし詩情という言葉の曖昧さもまたある。詩情というのは、いわゆる詩的な情感ということであろう。詩的とは何ぞや。これもまた、詩を読むことにおいてしか理解できないものであろう。なんとなく言い得ている、なんとなく浪漫がある、なんとなく表現として暗喩的である、そういったもの。
そういう意味で村上春樹は小説家であると同時に詩人でもあると、私は思う。

詩のことをえらそうに書いたけれど、私はそんなに詩を読む方ではない。谷川さんの詩も、ちゃんと読んではいない。いくつか知っているのがあるというだけのことである。
他に読んだものといえば、宮沢賢治と尾形亀之助と草野心平と中原中也と、まあそのくらいである。
わけのわからない詩はわけのわからない小説よりも読むのが苦痛であるゆえ。


谷川さんは今回もいくつか詩を朗読していた。彼の特有の口調で。全く軽やかで素朴な読み方で。軽やかっていうのはとてもいいことだ。
彼の詩って結構突飛な感じもするのだけど、割と「ああ」っていう感じがする。納得感がある。おそらく、詩の面白みというものはこの納得感にあるのではないかしら、と思う。詩というものが元来わかりにくくできているために殊更。彼の詩はとても原始的というか根源的というか、ある意味あまり詩的でないというか。
私なんかは「朝のリレー」でふうんと思い、「20億光年の孤独」にぐっときたタイプである。今日朗読していた「私」という詩集の「さようなら」もよかった。
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もう私は私に未練がないから
迷わずに私を忘れて
泥にとけよう空に消えよう
言葉なきものたちの仲間になろう
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一部抜粋。

彼はもう83歳らしいのだが、上手く年をとりきれていないということを言っていた。昔の年寄りってもっと落ち着いていたし、構えがあったのだけど、自分は全然そうでない、と。それを良くないと思っている、と。
そうして、死というもの自体をあまり怖いと思っていない、と。例えば小さい時は母が死ぬのが怖かったし、そのあとは恋人、妻が死ぬのが怖い、というように、自分の愛する者が死ぬのが怖かったけれど、しかし自分が死ぬのは自分がいなくなってしまうということだから、あんまり怖くはないのだと。それに、向こう側に行ったらどうなるんだろうという興味もあるし、とのこと。まあその前に苦しかったり痛かったりするんだろうからそれは嫌なんだろうけど、と。今健康だから言える贅沢なことですね、と仰った。

ああ、そうだなあと思う。至極真っ当というか、正直だ。
私は私の愛する人が死ぬのが怖い。離れるのが怖い。自分が先に死ぬならそれは味わわないからいい。でもそれってかなり自分勝手なのだ。家族は悲しむのだから。

泥にとける、空に消えるのは、でもよかった。戻っていける。永遠に銀河の風に吹かれるわけだ。

July 1, 2010

面談週間

今週は面談週間で、毎日出勤している。で、保護者の方々とお話している。授業の様子とか進路とかあと夏期講習とか。で、帰宅が23時とか24時とかそんな感じ。リハビリのつもりが普通に8時間労働してたや。

その場には子どももいて、初めて会う保護者の方とかもいて、結構面白い。
この子のお母さんってこういう人なんだ、とか。子どもは大人しいけど親ははきはきしているとか、子どもは落ち着いているけど親が若い(きゃぴきゃぴしている)とか、結構意外な感じである。全体的にお母さんが来る。まあそうか。

で、なんというか、まあそういうもんなのかもしれないけれど、親御さんって人前では結構「うちの子はだめで」って言う。うちでは全然勉強してなくて、とか、最近言葉遣いが悪くて、とか、意識が低くて、とか。しかも結構できる子の場合でも言う。

で、うちはそれ無かったなあと思い。
親に人前でけなされたことってほぼ無い。積極的にけなすこともないし、先生に褒められても、そうなんですか、としか言わなかった。というか寧ろ、妹が家庭訪問で先生に「いい子すぎてちょっと浮いてしまう」みたいなことを言われたことがあって、「は?」ってなって、先生が帰ってから結構「意味わからん」みたいなことを両親そろって言っていた。うちの家族はいつだって家族の味方である。親バカとか姉バカとも言う。

でも、結構そういうのって、人格形成上かなり作用してるんじゃないかしらと思う。私にあんまり敵対心とか猜疑心とかがないのはそのせいじゃないかと思う。誰かに否定されて、誰かを否定してやるみたいなことがない。まあ母がクリスチャンで、全てにおいて相手自身を否定することが無かったからというのもあるかもしれない。相手の行為を否定することはあれど。詳しいことはわからない。ただ、結構それだとやわくはなる。


それにしても、生徒を手放すのが惜しい。高校生を一人違う講師に譲らねばならん。悲しい。
この子がまた、文句ばっか言うのに実はかなり素直で、しかも頑張り屋で、実は優しい。文句言ったり一回「なんでよ」「めんどくさい」って拒否するのはポーズで、しかもかなりすぐ言うこと聞く。直後にとりかかる。なにそれ超かわいい。むしろ一回拒否された方が一手間かかる分かわいい。何だったのその拒否、っていう。
結構つっぱってる子っていってもこういう子が多くて、なんかこれ所謂ツンデレじゃん、と気づく。萌えの対象である。これか、これが萌えか!


本当は、今日現代文でやった「言葉」についての文章を引用してなにやら思ったことを書こうと思ったんだけど内容忘れて書けなかった。確か、言葉の身体性を離れたところが不可思議でその理由が何とか書いてたんだけどその理由に感心した気がしたんだけどそこを忘れた。
あと、今「パンドラの匣」読んでいます。太宰の。あの人お道化のふりをして頭いい実は。まあそのうち。