March 31, 2011

近況

・沈黙することを許されていないこと
沈黙することを許されていないというのはすごくしんどいことだなあと思う。ほぼ日なんかを見てると本当にそう思う。もちろん糸井さん自らそういう風にしたのではあるけれど。
しゃべりたい時にしゃべれるのはいいし、それをたくさんの人に読んでもらって影響を与えることができるのは楽しいと思うけれど、沈黙していたい時だってあるに決まってる。悲しい時も苦しい時も言葉を紡ぎ続けていなければいけないなんて、それが仕事だとしても、大変なことだ。しかも見ている人達は必ずしもその紡いだ言葉を仕事でやっているのだとは見ずに、糸井さんという一人の人間から出てくる言葉だととらえるのだから。糸井さんの書くような文章というのは、そういう文章だ。

ある程度の高いレベルの言説を用いることが出来ないのならば、沈黙の方が有効であることは多い。話すことは隙を作ることで、反論の余地を与えるということである。話者というのはそれを承知でしゃべるのであると思うし、それを捌くのもあしらうのも無視するのも話者次第ではあれど、反論に晒されるストレス自体は覚悟するのである。
でも沈黙をしていれば、劣勢になることはあっても、足元をすくわれることはない。沈黙はいろいろな意味を含みうる。でも決定的な意味を本人が明かさない限りは明らかにされない。だからその沈黙は推測しかされない。

それに、攻撃されるされないにかかわらず、沈黙していたいときというのはある。


・震災後に制作されたACのCMは気持ち悪い
ポポポポーンはよくても、SMAPやトータス松本は見ていられないのである。
自分がこんなに全体主義的な雰囲気に反発を覚えるとは思っていなかった。気持ちはわかるんだけど、どうもだめだ。


・そういえば、また上京してます
水など気にならないことはないけれど。

March 22, 2011

こころよ

ほんとうに大切なことは、目に見えないんだ。


・・・


「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」マタイ6章3節


「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネによる福音書12章24節


「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」テサロニケ人への手紙5章16節~18節


「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。」
コリント人への手紙第1 13章8~13節


「むくいをのぞまで ひとにあたえよ、
こは主のかしこき みむねならずや。
水の上(え)に落ちて、流れし種も、
いずこの岸にか 生(お)いたつものを。

浅きこころもて ことをはからず、
みむねのまにまに ひたすらはげめ。
かぜに折られしと 見えし若木の、
思わぬ木陰に ひともや宿(やど)さん。」
讃美歌536番「むくいをのぞまで」(1954年版)

March 4, 2011

CMを見て人生を思い孤独に安心したりする日常風景

■最近好きなCM
UR賃貸:クラムボンmitoさんなど
養命酒:渋谷慶一郎を使うところが素晴らしい
三井不動産レジデンシャル:言わずと知れたAcross the Universe
エステー:センスが好き


■人生が崩壊の過程であるということ
ピンボールの「どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程にすぎない」という言説について。
「人はいつか死ぬ」「ネタばらしすんな!」というツイートがあったけれど、ほんとネタバレの今生を、終りが来ると知りながらそれでも明日は今日より素晴らしい、と前へ進んでいくわけで、でもそっちは前なのかも本当はわからないわけだけど(BY トモフスキー)、ただそんな風に言ってしまったら元も子もないのである。鼠よ。
そこまで見てしまった上で、それでも生きているのだから、生命のちからというのは本当に力強い。麗しい。
でも、みんなそれどうしてるんだろう、と思う。私も。見ないふりをしているのか、見てもどうにかなるものではないので気にかけないのか、特に気にならないのか。きっとそこで一度立ちすくんでしまうのが文学者であり、それでも生きながら我慢強く考えて表現して世界のコアをなんとか見通そうとするのが春樹であり漱石であるような気がするわけで。(それは文学者という人々が文章というものを使っているから特にそう見えるだけでもしかするともっと違う分野の人もそうなのかもしれない)
壮大な暇つぶしであれ、咲いて散る花のようであれ。「負け試合を意気揚々と」、だな。


■孤独という考え方について
私にとって孤独とは近しいもので、寂しいというよりは安心する考え方であるということに気付く。孤独であろうとするのはそっちの方が楽だからだ。孤独でない、または孤独であってはならないという考え方の脅迫。絶望感。でも、孤独というのは寂しくて、でもすっきりとしてて、そんな心もちすら楽なものなのだ。

私は、人間に必要なのは孤独を感じる時間と感性だと思う。
自分が一人の独立した人間で、時にはいろいろな人と関わったりコミュニティに参加したりするけれど、しかしそもそもはたった一つの生命体であり、人間であり、魂であると実感すること。そしてその魂を理解し護れるのは基本的に自分一人なのだということ。
そういうもともと別々の者同士が、ときたまわかりあえたりするのが感動したり嬉しかったりするのだということ。そう思ってればわかりあえなくても悲しくないし、別に腹も立たない。腹をたてる筋合いのものではない、そもそも。誰かの価値観や考えが優っているわけでも、誰かが誰かより価値があるわけでもない。価値というのはフィクションだからな。
しかし、みんな最後は死ぬって平等でいいシステムな気がする。
まあ人間とか生命って根っこのところでみんなつながってるような感覚はあるわけだけれど。
ただそれは意識上には上ってこない気がするんだ。無意識になったときに混ざったり溶け込んでるじゃないかな。