February 23, 2010

最短距離

ついったーでもつぶやいたけれど、司馬遼太郎の本にこんなことが書いてあった。

「『大学者であろうが田舎のじじいであろうが死ぬのは同じや。それとも聖人がお念仏のほかに何ぞ学問のある人間にしかわからんような特別ええ事をいわれたと思うているのか』」
(「司馬遼太郎が考えたこと1」より)

これは、戦前大学生であった彼が、戦地に赴く前に、どうしても「死」ということがわからず、どう受け止めていいかわからずに、天台宗だったかに熱心であった中学の恩師を訪ねて問うた時にこう言われたというもの。の抜粋。
お前には最初から信じようという気持ちが無い、と一喝された後の言葉。念仏をただ唱えてみろと先生は言う。


学べば、考えれば、何か新しいことが分かるのではないか、より一層理解できるのではないか、ということを私も常日頃から思っていたけれど。
そしてそれは、「自分には分かるのではないか、悟りの高みを理解できるのではないか」という高慢でもあり。そしてそれは経験的に成功体験として持っているつもりでいて。


学のある人だけが到達できる何かというのはもしかしたら無いなと思い始めている(仮説)。

それはあれやこれやと考えて結局到達したのが「人生は壮大な暇つぶしである」という仮説であり、それをもとにすると「好きなことやったらいい」と言う結論になったという自身のふがいないや。いや。的経験からである。

そんなの、本能的に知っている。というか、やっている。

最短距離で答えに行き着くのが最も優れた方法だとすれば、考えないことが一番優れているのかもしれないなと、ゲーテが言ってたこと(ぐるぐる枯野を引き回されている家畜の件)はほんとだなと、思う次第。

でも、考えないと納得できなかったのだ。でも、それって単に頭が悪いというか頑固というか、つまり要領が悪いってことなんじゃないか。

しかし「あれこれ考えずにすきなことやったらいい」とはいえ、考えるのが好きなことだとすると、どうなるのだ。あれこれ考えずに考えればいいのか。なるほどねー。

February 19, 2010

メモ―価値観の吟味・殺生・貧困

ひとつ。
憤りや怒りが生じたら、それが何故かを考えた方がいいということ。
いつまでも憤っていてはならない、と聖書に書いてある通り、憤りは一時的にはいいけれど継続する価値はない。それよりは憤りの原因を解決する努力をした方が憤りは解消されていい気分になれる。でも憤りが趣味な人は憤っているといいと思う(少なからずいるはずだ)。

で、人間関係での憤りや怒りは意外と自分由来だったりもする。自意識過剰だとか、過剰な期待だとか。誰かが何をしたとか、しないとかいうことに無性に腹が立つという類の。
憤りや怒りの結果、他者に何らかの作為か不作為を強要するという行動はとられがちだけれど、そういうのは対症療法的で、結局それに憤っているとそれと似た状況になる度に憤らなければならなくなる。そういう時効果的なのは「ゆるし」である。あ、また聖書だ。それか「諦め」である。そういう感情の起伏を楽しめるようにすらなるのもいいかもね。

何かを「おかしい」と指摘できる度胸は必要だけど、何かを「おかしい」と思う感覚を今一度疑ってみることは必要だと思う。もしかしたらそれは「そう教えられたから」「皆がそう言ってるから」おかしいと思っているのかもしれなくて、それは自分の意見でもなんでもないからだ。それで検討しても尚おかしいと思うのなら「おかしいだろ!」って言えばいいんじゃないかなー。


ひとつ。
特定の生き物に限って保護保護というのはどうなのかということ。
その一方で無益な殺生も無益よなと思うということ。

希少だと保護しなきゃいけないのか。個体数が多かったら保護しなくていいのか。
食用以外は殺しちゃいけないのか。食用であれば保護しなくていいのか。食用にしている地域とそうでない地域がある場合にはどうか。
質素ならよくて贅沢であればだめなのか。どこからが贅沢なのか。
必要ならよくて不要ならだめなのか。どこまで必要といえるのか。
動物はだめで植物はいいのか。昆虫はどうなのか。
愛らしかったらだめで醜かったらいいのか。
それとも全生物平等に扱えばいいのか。

生活してる中でどこかに線があるはずで。



ひとつ。
絶対的貧困と相対的貧困について。
内田樹の研究室:相対的貧困は解決できるか
以下引用。

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「貧困」とは、私の私的な定義によれば、「どのような個人的努力によっても社会的に向上できる可能性が閉ざされているような欠乏状態」のことである。
定期的な就業機会、教育授産機会を持たないことがその条件となる。
定期的に就業していれば、その人はなんらかの「考課」の対象となる。
考課とはプロモーション機会のことである。
教育授産機会があれば、自己教育によって有用な知識や技能を身につけることができる。
他者から考課される機会を持たす、自己教育の可能性もないような種類の欠乏を「絶対的貧困」と呼びたいと思う。
それに対して、「相対的貧困」とは私が「貧乏」と呼ぶものである。
それは数値的には表示できないし、何か決定的条件の欠如としても記述できない。
それは「隣の人はプール付き豪邸に住んでいるが、私は四畳半一間に住んでいる」「隣の人はベンツに乗っているが、私はカローラに乗っている」「隣の人はスコッチを飲んでいるが、私は焼酎を飲んでいる」「隣の人はパテック・フィリップをはめているが、私はカシオをはめている」というかたちで、どちらも同一カテゴリーの財を所有しているのだが、その格差を通じて欠落感を覚えるということである。
相対的貧困は、物資の絶対的な多寡とかかわりなく、隣人があるかぎり、つねに示差的に機能する。

(中略)

私の経験知は「相対的貧困には手を出すな」と教えている。
「そんなものを政策的に解決しようとしたら、身体を壊すよ」と私の身体がアナウンスしている。
「自分の身体を壊さない範囲で、出会う若い人たちにこまめにプロモーション機会を提供する」というのが、私が思いつく「落としどころ」である。
どのように幻想的なアイディアであっても、個人が固有名で請け負う事業にはおのずと身体的限界がある。
その「限界」が「正解」のもたらすリスクをコントロールしてくれる。
私はそういうふうに考えているけれど、この消息を経済学や社会政策の語法で語ることはきわめて困難なのである。

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以上引用。
先の客観的物資的に補完することと、主観的に補完することについて書いたエントリとリンクした。
dioramic:満足度
私は相対的貧困の方をどうにかすべき、という方に寄っていた気がする。厳密に言うと違うんだけど。
絶対的相対的の話はどちらも物質的なことで分けている、つまりとにかく食べるのに困るくらい貧しいということと誰かに比べて貧しいということ、なのだけどこれはどちらとも貧しいのは「経済的に」である。
私がいっていたのは、「主観的に」貧しい、欠落感のある人をなんとかすることに目を向けるべき、ということで。でもまあ内田氏の論によれば相対的貧困は脳の問題、とのことなので、かぶることになる。

手を出すな、かー。政策じゃなくてそれは文化なり任意のコミュニティでやることなのかもしれん。
経済的に云々というのはやっぱり賃金で家賃で物価で。とにかく地方に仕事がない。都市は家賃も物価も高い。農業の求人とかないのかな。
追記:農業求人ありました。

February 16, 2010

大人

下の2つのエントリは、先のながーいエントリを2分割して軽く手を加えたものです。しかしあんまり変わってなくて、だめだめ感満載。

大人になるってどういうことかなーと考えた。

いろんな意味で使うけど、「大人になろうよ」とか「大人な対応」というのは、我慢すること、な気がする。我慢すること、もしくは我慢するそのエネルギーを諦めに変えて放出すること。
で、最近友人に、結婚するよという報告をメールで受けたのだけど、その時に私は、「大人になったんだなー」って送った。これはなんというか、身を固めるなんて社会的だね、っていう意味だ。別の意味。社会的だね、はちょっとアバウトすぎるけれど、もう少しかみくだくと、なんだろう、社会的法的拘束に身を委ねるんだねというか。皮肉ではなくて、覚悟するところがえらいというか、覚悟するだけの相手を見つけられたことがすごいというか。

もう27なのに(最近愕然とした)、何を言っているんだか、て感じではある。
このままでは30になってしまう。止めようがないのはわかっているけど、30になっちゃったらどうしようと思ってしまう。
未だ大人の自覚があまりないためだろうと思う。

安吾が青春論というのをぶっているのだけど、青春がいつであったかなどわからん、おれはずっと青春だぜ的なことを書いてて、ほんとに真面目だなこの人はとか思った次第。
大人になるということと、青春を振り返ることはなんだか似ている。

江國香織曰く、大人は楽しい、そうだ。多分彼女の「大人」は、拘束から解き放たれたものなのだと思う。
子どもは確かに支配下に置かれている。きまりだから、というので押さえつけられる。


関連。
最近自分が小さいころから叩きこまれてきた価値観のことを思う。
わからんことはたくさんある。
時事ネタだけれど、スノボの国母選手の服装の話、マスコミが叩き、ホリエモンとか河野太郎とかがブログやらついったーで擁護している。
ホリエモンが服装原理主義というそれだけれど、服装原理主義者と、それ全く必要ないよむしろ服装の自由の侵害だろという彼自身の立場が多分対極で、多くはその中をとる感じになると思う。河野氏はルールと価値観で分けて考えようとしているが、個人的にはちょっと腹落ちするところまではいかない。ルールと価値観の狭間のようなケースだと思う。
なんというか、けしからんという人と、別にいいじゃんという人の両方の声が聞こえる世界が、健全な感じがする。

まあでも、拘束から解き放たれてかつまだ社会的に拘束されていない、モラトリアム的位置が一番自由だ。
自由に安住するのがよしかというとそれはあなたのフリーダム、である。

ちなみに東京事変の「大人」というアルバムのジャケットと香りはよかった。

満足度

最近、ちっとも結婚できる気配が無いなと思っていて。
結婚できないんじゃなくしないんだ、と思っても、その理由は「結婚とか興味ない」とか「結婚なんてそら恐ろしくていや」とか「相手を厳選しないと無理」とかなわけで、それってとても「結婚なんかできない」ってことじゃんと思った。
「したいけどできない」とは違って「したくないからできない」なんだけれど、こういう違いって例えば小学校の鉄棒のさかあがりなんかとかでは区別しないよなとか思う。さかあがりは「彼はできないんじゃなくてしないんだ」とかいう言い方はしなくて「彼はさかあがりができない」と言う。まあそれはいつか深掘るかもしれない。

で、関連で、最近NHKの「無縁社会」(全部は観てない)で、孤独死などが取り上げられていて。結婚せずに独身でいるとこうなるのか、とか思って我がことのように思っていた。
誰にも看取られないとか誰にも死んだことに気づいてもらえないとかいうことが結構悲劇的に描かれていて。部屋は荒れ放題、業者が入って遺品を片付ける。そういうのを観ると、確かにその人が死後「かわいそうに」とか「汚い部屋だ」とか思われるということはあんまり本人にもよくはないと思うけれど。
それより先日日経ビジネスWeb版で読んだ記事の方に共感できた。
日経ビジネス:「孤独死」はそんなに大きな問題か

誰にもその人の人生がある。誰かの人生を犠牲にして皆介護をさせるのが善か。という問いかけ。その人は介護で働けなくなるしその分生活もきつくなる。家でいつも看ていなければならない。
昔付き合っていた人は、それを普通に言っていた。結婚したら親の面倒を見てもらわなきゃ困る。今は女性が仕事を続けるのが認められてきたけど、昔は家にいるのが当たり前で、人間というのはそれが当たり前だと思っていれば何の不満もなく過ごせるものなんだ、と。だからそれが当たり前だと思えばいいじゃん、と。まあ私は私で自分の親もいるんだけど、と思っていて。

私も、本人が本当に「それが当たり前」だと思っているのなら別にいいと思う。し、「そうしたい」と思ってそうしているのなら尚更いいと思う。その人が選んだ人生だからだ。
親をちゃんと介護したくてしている人だって多分沢山いる。最期までしっかり恩返しをしたいという気持ちだってあるだろう。
その一方で、介護される側にも多分そういう気持ちがあるはずで。「子供にも家族や仕事があるから仕方ない」とか「自分ひとりでいたい」とか「迷惑をかけたくない」とか。選んだ孤独死も、あると思う。
看取られるというのは介護を受ける者が皆そうというわけではない。タイミングの問題もある。祖母が先々月亡くなった。認知症と老衰で病院に入っていて、子供たちが皆いないときに、眠るようにして亡くなった。離島だから、子供たちが皆すぐに駆けつけることもできなかった。私たちが行ったときはもう通夜が終わって棺に寝かされていた。人形みたいだった。


大切なのは、多分、その人がその人生に満足していたか、だと思う。
それは本人以外にはちゃんとはわからないけれど。
どんな問題でも、それを物質的に補完するということが重要なんじゃなくて、その人の主観を補うことが必要なのだと思う。
もし無縁社会が問題なのなら、孤独死(一人で死ぬこと)が問題なのではなくて、孤独なのが問題なのだと思う。私たちは時間と費用をかけずにコミュニケートする手段をこんなに発明している。シンガポールだってニュージーランドだって瞬時につながる。いっぺんにたくさんの人に言葉を送れる。多分その意味で無縁社会(というか孤独)は改善される、と思う。
経済的な問題は経済的な問題としてやるとして。
でも、体が動かなくてごみだらけの部屋に住んでいるお年寄りというのは、見ている側としてなんとかしなきゃ的な光景ではある。うーん。どうなのだろう。実感として、働いている時はそういう隣近所とお付き合いできる時間と体力って無かった。いろいろ足りなくなっちゃったのはなんでだろう。
まあいいたいことは、主観的な満足度というのをもう少し重視したらどうだろうということ。


ちょっと違う話だけれど、基地の問題もそうだと思う。
これはもはやこじれてしまっているので難しいけれど、基地問題は基地があるということ以上に、沖縄県民の被差別感情が重要なのだと思う。防衛上の問題も、日米関係の問題も頭ではわかる。日本国民という立場レベルでは、どっかに置かなきゃ収拾がつかないというのも地の利的に沖縄がいいのもわかる。日米安保はもしかしたら軍事費的にも防衛的にも国益に資しているかもとも思う。多分そういう説得をしたって問題はなくならない。そこじゃない、と思う。

まあどの問題でも。物質的に補完するということは際限がない。カスタマーサティスファクション。結果より過程というか。
でも結局結論でないので、これは継続で。

February 13, 2010

人生はひまつぶし的な

とにかく人の役に立ちたいと思っていた先般の自分。
なぜなら、それが自分の価値だと思っていたからで、なぜ価値がなくてはならないのかというと、価値がなくては人に必要としてもらえない(つまり好かれたい)からであり価値を提供することが自分にとっても相手にとってもハッピーだから、であった。ハッピー=善というのは一応前提としておく。ハッピーの内容は措く。

そうして、価値とは何かを考えた末に、直近100年くらいのスパンで考えると、「問題解決に寄与すること」かなと思いついたわけで、そのメソッドを学びたいのもあってコンサルに志望した。

で、コンサルを辞めた今(今でもコンサルは楽しいと思うし、役に立つ職業であるとも思うし、思考の自由度とか、かつていた会社の取り扱う分野とかはわくわくするから好きだとも思う)、さて価値とは何ぞやとまた思い返す。

というよりは、価値ある生き方をするべきなのだろうか、ということ。いかに生きるべきかということ。これは言うまでもなく安吾の「堕落論」の影響である。

私には前にも書いたが恋を極力したくないという傾向があった。恋なるものを差し引いて考えたいと思っていた。それは事後的に消えてしまうものだから、先に消却しておきたかった。
でも安吾は恋こそ人生の花であって、これ以外に花は無いとまで言うのである。なんてことだ。じゃあ恋を自重するということは、私の人生から花を摘み取ってしまうということになろう。芝生と木々は目に優しく、花の散るのを悲しまずに心穏やかに変わり映えのしない生活をおくる。それはひとつの生き方だけれど、私は花が好きだし元来変化も好きだよそういえば。

そんなことで、もう少し考えてみようと思うに至った。
私という人間が生きてていいことってなんも無いんじゃないのと、思うのは人の常。誰しも誰しも、芥川や太宰もそうやって文学やってたんだろう。改めて河童を読んで、娑婆を逃れる河童を描いた芥川を思うのである。
安吾は、生きろ、という。いや、俺は生きる、だな。もはや本能のままにというか、恋に落ちてしまうもんは仕方ないだろと言う(私にしてみると安吾は色恋にウェイト置きすぎな気もする)。


私のロジックは、「恋はいずれ終わる→だからしても仕方ない」であった。

それがダウナーな気分になると、「人はいずれ死ぬ→だから誰かの命を救ったり自分や家族を一生懸命養っても仕方ない」となる。
「私はいずれ死ぬし周りの人も死ぬ→だから誰かの役に立とうと頑張っても仕方ない」
「人類は滅びる→だから何をしても仕方ない」
的な方向へ行くので(いや本気で)、自分が生きるモチベーションがどんどん下がってゆくのである。ここまで来ると、100年のスパンとかじゃなくもっと長いスパンで、ということになるのだけど、そこまで飛びすぎても別にいい。
で、この健康な体とありあまった時間をもてあましている気分になっていくのである。もしかして暇?とか思っちゃうのである。
ほんとに人生って意味とか無くて、壮大な暇つぶしなのか?そういう言い回しきいたことあるけど、自分の結論としてそれが出てしまっていいのか?
そういうときに、くるりの「陽気なピーナッツ」が流れてきて、「そうだろ 僕の人生は 結局 暇つぶしみたいだから」とかいってるもんだから、岸田さんがそういうこと言うならほんとかもとか思ってしまう。


で、「人の役に立つため」というのを人生の理由というか言い訳にできない(無くなってしまうから役に立つ意味が無い)となったとき、結局人生の目的は設定できないことになる。
というか、誰にとって意味があればいいのか、ということで、つまり自分でも他人でもだめで(いずれ無くなるから)、永久に、物質的に、世界として何かが変わるのでなければ意味がないと考えているのか。私は何を求めているのかしら。

自分で設定すればいいんだけど、これがまだ私にはできない。クリスチャンはこういう迷いとかが無くなるからいいのだけれど、私にはまだ懐疑心があって純粋にそれを設定することができない。
そうなると、have fanということになる。何をなすべきか、の答えは、やりたいことをするべきだ、になる。

結局それかい、となったわけだけど、人生が壮大なひまつぶしであると仮定できたので結構すっきりした。
答えがあると思っていたし、それを探さなきゃならない、それが見つからないのは私の不勉強のせいであり不徳のせいである、と思っていたのに、元々ありませんでした、というオチがありうるというのは、なーんだ、って感じで楽になる。
会社とかで、「あの紙どこだっけ」「え(やばいシュレッダーしたかも)」とかいって探してて、「あーそういえばあれ先方にあげちゃったわ」とか言われて「(なーんだ)」ってなるみたいな感じ。


結論としては、自分がより楽しくなるのがベスト、ということになった。
つまり、世界視点でなく、単に自分という人間の満足度をとにかく上げればいいのではないかなということ。というか、自分にとっての世界なんて自分自身なわけで。

それで、自分自身の満足度というものを各人が高めていけばよいのではないだろうか。客観的に「きっと満足していないだろう」という場合でも本人は満足している場合があって、それはそれでいいのではなかろうかということ。

そんな結論を抱えて、次。

February 5, 2010

負け試合を意気揚々と

今も歯痛による虚弱と睡眠導入剤(今ホットな)の影響でフツカヨイ的文章になることがほぼ確定的だけれど、読んでくださるのならこれ幸いである。

よく読ませていただいてるブログ「椿ひらいて墓がある」に、「負け試合を意気揚々と。」っていう言葉が冠してあって。

この言葉をこの方が冠している意味とは違うのかもしれないのだけど。
最近マクロにみると人生自体が誰でも負け試合で、それを意気揚々としているのって安吾スタイル?と思いついて。
恋は敗れる。人は死ぬ。地球は滅びる。まあそこまでいわなくても、いずれ死ぬのだから人生は負け試合ともとれる。負け試合を知っていながら意気揚々と。恋を人生の花として彩として。さてモチベーションはどこから?
負け組勝ち組の別は嫌うところなので、そこと区別した上で。
人間生きとし生けるもの皆死ぬなれば、勝つのはいったい誰なのだ。でもなあ、この世で勝ちたくはないよな。


生きるというのは受け入れるということだ。
先天的所与条件である才能や身体的特徴を、後天的環境を、物質的肉体への時間経過による変化を、時代を、社会を、受け入れながら生命を維持していくことである。

そういうことをいくつかの経験からわかるようになったとき、人は、それでも意気揚々と生命に忠実であろうとする者と、負ける試合には出ない、降りる、という者があろうと思う。また、負ける試合なら手を抜いて、というスタンスもあろう。

私が坂口安吾を真面目だといったのは、この点でチャレンジングだからだ。彼が生きることを愛し、恋という花を愛し、文学者であるが故の自己虐めに虚弱になりつつも負けじと太宰や芥川のような不良少年を横目に見ながら天命を全うしたというある意味でのがむしゃらさ。


生まれた時は一人で、死ぬ時も一人で、だけど生きている間は誰かと一緒、的な文をどこかで見た(どこかは忘れた)が、孤独は人のふるさととはよく言ったもので、この文だけ読めば、生きてる間は誰かと一緒にいるというのがもしかすると生きている意味なのかもしれない。意味というのは漠然としているな。生きている間のなすべきこと、タスクなのかもしれない。
好きな人たちに会うことというのは実際私にとっては一番の喜びと言ってもいい。
ある友人は、弁護士になった今でも、仕事は単なるタスクで、友達に会うとか旅行するとかが生きがい(とまでは言ってないけどそういう)らしい。だから院のときと全く変わらないのだと。
一度、会社での送別会を銀座で終えてから、早稲田に住む別の友人をもう夜の1時は回っていたけれど馬場に呼び出して、花束を投げ出して共にボウモアを飲んだとき、その友人には「送別会の日くらい大人しくしんみりして家に帰るもんなんだよ」と怒られた。その時「私は、会いたいときに、会いたい人に、会うよ」と言い返したのだけど、後で考えたら結構いい口説き文句だったなと思う。でもそうありたい。実際彼しかその時会いたい人は浮かばなかったのだし、会えてよかったとも思う。


真面目さは強さだ。虚弱は真面目に生きることの邪魔をする。虚弱など、ひとつもいいことない。
探し回らなければならない。魯山人が、この世の美しいものを見るために生まれてきたのだというような天啓にも似た確信を得たように。
Have a nice life.負け試合でもナイスに。

近況と携帯版など

最近抜歯して体調が優れず、かつ抜糸がまだなため食に不自由している。3キロくらい落ちてしまった。せっかくコツコツ蓄えていた筋肉も落ちる。筋トレというのは続けないと意味が無い。

じっさい、歯を抜くというのをなめていた。
いや、なめてたわけではなかったんだけど、前二回そんなに大変じゃなかったので、やはりなめてた。
そんなわけで二日酔の文章を先日上げてしまった次第です。失礼、失礼。


先日歯とは関係なく病院へ行き、老人の多さに気づき、自分が老人のように覇気がないことに気づき、ぢっと手を見る。なぜかしら、比較的元気な時でも病院という場所は人の覇気を奪う。覇気を必要としないから自然と省エネモードになるというのが正解か。元々覇気はあんまり持ち合わせていないのだ。
あの人たちはもう80年とか生きているのだと思うと、人生というものが完成しかかっているのだろうなと思い、こんな中途半端な気持ちではないのだろうとも思い、少し羨ましく。やはり罰当たりである。

とにかく、抜歯跡が痛くて飯が食えなくて弱気になるなど軟弱の極み。というか、飯を食わないなど軟弱。まじけしからん。


あ、携帯版を一応ブログタイトルの下につけております。