June 9, 2013

5月15日

母が、5月15日の未明に天国へ還っていった。

前に更新したのが5月12日だから、その3日後になる。永訣の朝の一節の通り、その頃母は氷を食べたがり、よく小さく砕いた氷をナースステーションに貰いに行っていた。その3週間前から、母は大学病院からホスピスに転院していた。

それまでもお昼前から夜まで家族交代で付き添っていたのだが、ホスピスに転院してからは、夜中も毎日交代で泊まり込み、水を飲ませたり、汗を拭いたり、氷枕を換えたりしていた。

更新をした次の日には40度以上の高熱が出て、いっこうに下がらず、話をすることはもちろん、水を飲んだり氷を食べたりすることもできなくなった。
呼吸は苦しそうになり、眠っているのか起きているのかわからず、40度以上の熱は下がらないのに手ばかり冷たかった。
14日の午後は祖母と母の兄妹、教会の牧師先生や親しかったお友達を呼んで会わせ、14日の晩は、家族全員で泊まることにした。

15日の、午前2時まで私が側にいて、汗を拭いたり加湿器の水を足したり、冷たい手を握ったりしていた。
父と交代して、部屋のソファで仮眠をとっていたときに、母が息をすることをやめた。
父に起こされ飛び起きて、別室の妹達を呼びに行った。
看護師さんを呼んだ。「まだ心臓は拍動しているから、声をかけてあげて」と言われた。
家族で泣きながら名前を呼んで、いろんな言葉でありがとうを伝えた。どうしても行かないでほしかった。でも、いままで本当に頑張ってそばに居てくれたのだと思うと、申し訳なくて、行かないでとは口にだせなかった。
結局、お母さんに何もしてあげられなかった、と思った。結果的に同じだったとしても、もっと何かできたはずだと思った。自らの怠慢と鈍感を許せない思いだった。

その後は本当に忙しくて、母の服を取りに家に戻り、看護師さんのサポートのもと、母に着替えと化粧をした。車の中でニシカワ君に連絡した。午後には来沖してくれて、すべてが終わるまで一緒にいてくれた。
ホスピスでお送りの式をやってもらい、葬儀場の安置室へ移動した。母はホスピスに転院する前から家に帰れていなかったから、家にも寄ってもらった。車の中から、家を見せるように車のドアを開けて、「家に帰ってきたよ」と話しかけた。


キリスト教式で、入棺式、前夜式、告別式、出棺式、火葬の前の式を行い、私はその式をひとつひとつ終えるごとに心が落ち着いていった。歌と祈りと牧師先生のメッセージ。聖書の言葉。慰められるというのはこういうことかと思った。
なんとなく、母は、私の怠慢を許してくれていると思った。
この世にいる間も、母は私や家族の気持ちのひとつひとつを全部わかっていた。いわんや天国においてをや。


忘れられない場面がたくさんある。

積極的治療ができないと告げられた時。少し震えながら気丈に先生に質問していた母。家族は先生が出て行ったあと皆泣いていたけれど、母だけが泣かなかった。

ホスピスに移る時。雨が降っていた。濡れたアスファルト。トヨタのバンの介護タクシーで車椅子ごと乗車した。付き添いの席には私が乗った。看護師さんたちが一緒に1階まで降りてきて見送っていた。

母の日をホスピスのベッドで祝った時。母のために前あきのワンピース型の寝間着を2着と、カーネーションの花束を買っていった。「今日なんの日かわかる?」という質問に、いぶかしげにしている母に、父が花束を見せたら、「ああ」と得心がいったような顔をしたから、みんな笑った。

金子みすずの詩集を読んであげた時。「やっぱりいいね」と母が言って、微笑んでいた。小学生が読むように、ゆっくり抑揚をつけて読んだ。自分がほめられたようで嬉しかった。



書いてるだけでかなしくて涙が出るけど、不思議と喪失感はない。ざわざわすることもない。ただ寂しい。
お母さんとのいろんな話を、表情を、情景を、ちゃんと覚えていたい。ちゃんと言葉にしていたい。
大丈夫。また会える。