March 26, 2010

水という定点

いつだったか、永い人が
「水って何でも溶かすんですよ!実は恐ろしいものなんですよ!」
的なことを熱く語っていたのだけど。そして私は「またまたー」的な反応をしながら聞いていたのだけど(だから詳細は忘れた。ちゃんと聞いとけばよかった)。

昨日久々に島の水割りを飲んだ。
島というのは沖縄での泡盛の呼び名。脱線するけど飲み会事情を少し。
島はグラスが無くて一合とか一瓶とかで出しているので、一人では飲みにくい。頼むと、結構意外な顔をされる。でも安いから頼む。居酒屋のカクテルとかサワーに450円とか払う気が起こらず。オリジナルボトルとかいう多分余ったやつのブレンドなんかはボトルで1000円いかない。
こういう場ではロックはイレギュラーらしい。気が利く人とか年少者とかが水割りを当然のように作ってくれる。沖縄の飲み会では結構こういう上下関係とかきびしいらしい。一番下は年少の女性になる。私はこれ結構反発ある。飲みたい人が自分で作ればいいし、作ってあげたいって人がいれば作ればいいと思う。何男に作らせてんだ的なことを脇から言いたそうにしてる人いたけど。接待じゃないんだから。

で、話を戻すと。
水で割ると、飲みやすい。当たり前だけど、飲みやすい。それは酒が薄まるからだけど。
果たして薄まっているのか?という疑問。

酒要素は確かに拡散されるのだけど、その隙間に水が入り込んでいる。酒と水を同等に扱うとしたら(例えば焼酎と泡盛のように。例えば水とお湯のように。)薄まっているというか混ざっているだけだなと思い。
アルコールとかつまり飲みやすいという意味合いにおいて、薄まっているという考え方をするわけだけど。

それで、水は本当に飲みやすいのかしら、と思った。
水は味がしないものとして基本的には扱われている。でも味はあるのだと思う。いや味覚が反応しないというなら味は無いということになるのかもしれないけれど、潜在的にはあるというか。味はありうるというか。感覚の作り方次第というか。
で、もしや水をニュートラルなものとして扱うように幼い頃から慣らされているのではないかとか。もしコーラが何かのはずみで今の水的な位置にあったら(つまり雨として降ってきたりそこら中にあふれていたり)、コーラをニュートラルなものとしていたのかもしれないなと。

私は水割りを昔好んでいて、それはお酒の味がよくわかるからだった。ロックやストレートだと刺激が強すぎて微妙な味の違いがわかりにくいと思っていて。ロックに移行したのはコストパフォーマンスがいい(酔える)からだ。
これって水の味との対比でお酒の味がよくわかるということなのだなと。私の場合、水基準でその味の変化を測る方がよかったというだけで、もしかするとあるお酒基準で測る方がいい人もいるのかもしれない。そういう人は水割りじゃだめで、ストレートの方がわかりやすいのかもしれない。

定点がないと、今いる自分の位置を把握できないという話。
内田樹が学校や教師について「そこにいる」ことで定点になるということを重要な意義としてあげていたけれど。
多分私たちはいくつかの分野において、いくつかの定点を持っているのだなと思う。その一つが水であり、その一つが学校であると。

March 24, 2010

俄か教育論 序論

多少の毒気にあてられて疲弊した。
喧嘩したい。

金なんて儲けるもんじゃないなと思う。教育のきょの字も出てきやしない。
私はもはや彼ら(60を超えたおじさん達)をそのゆえに自分の上に位置づけることができない。
金儲けのために教育をビジネスにするなんて、経営のために教育の質を落としたり講師に無理を強いたりするなんて、犯罪に近い。子どもたちの顔を見てそれをしようとするなんて、何かに魂を縛られているに違いない。教育をすることというのは、儲けることより重大で価値のある行為だと思う。
金儲けの経験や贅沢の経験や地位を得る優越の経験がそれをさせているのなら、そんなの経験しない方がいい。ばかみたいだ。

「蛇のように聡く、鳩のように素直でありなさい」聖書

私は、教育をする人の役割は、第一次的に、その子に学問の楽しさを伝えることにあると思う。その学問で自分の知性を育て、表現力を増し、思考力を高めることに喜びを覚える体験を提供することにあると思う。
学ぶことは一生人がすることであって、学ぶことは人格を形作る。人生を豊かにする。学ぶということを人生から取ってしまったら、楽しさ8割減だと思う。恋愛だって楽しさ8割減だと思う。人生がひまつぶしならなおさら損だ。

教育の質の低下は、こどもを勉強嫌いにさせ、その楽しみを子どもたちからいくらか奪うことになる。
一人の人間の人生の豊かさを、儲けを増やすために犠牲にする価値判断が私とものすごく相容れない。
勿論財政的にまわっていないと存続できないから、利益は当然追求すべきだと思う。でもそれは手段であって目的ではない。

というようなことを言いたいけど、通じるかな、あの人に。今度言ってみよ。

March 19, 2010

スキャニングとか超える超えないとか

内田樹の研究室:不安というセンサー

以下引用。
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今でも、暗殺の危機にある独裁者は出勤退勤のコースを変えない(複数のコースをランダムに変えるだけである)。
それは毎日同じコースをたどっていると「昨日はなかったもの」の存在と「昨日はあったもの」の不在が際立つからである。
危機はつねにそのどちらかの様態を取る。
そのことを高感度のセンサーを必要とするものは知っている。
イマヌエル・カントは異常にパンクチュアルな散歩者であり、ケーニヒスベルクの人々は彼の通るのを見て、家の時計の狂いを直したと伝説は伝えている。
けれども、これは哲学者としてはある意味当然のことだと私は思う。
毎日判で押したように同じ生活をしている人間の脳内では、暗殺者をスキャンするSPの場合と同じように「昨日はなかったものがある」ことと「昨日はあったものがない」ことが際立つからである。
哲学者の哲学者性とは、畢竟するところ、自己の脳内における無数の考想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰すのである(そういうことを言う人はあまりいないが、実はそうなのである)。
だから、「ルーティンを守る」というのは命を守る上でも、イノベーションを果たすためにも、実はとってもたいせつなことなのである。
ルーティンの最たるものは「儀礼」である。
つねづね申し上げているように、だから家庭は儀礼を基礎に構築されるべきなのである。
家庭を愛情や共感の上に築こうと願ってはならない。
愛情や共感は「儀礼」についている「グリコのおまけ」のようなものである。
あればうれしいが、なくてもどうってことないのである。

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以上引用。

哲学者のくだりは結構納得したのだけど、家庭のくだりがつながらない。家庭は「命を守る」「イノベーションを起こす」ためのものであって「愛情のつながり」のためのものではないってことなのだろうか。まあつまり、第一次的には。それはそれで一理ある。

ハピーゴーラキーの件はなんかまた今度書いてくれるらしいので待つことにする。
なんだかんだで彼の考え方結構好きだ。最初はなんだかはなもちならないかもって思っていたけれど。

自分がブログを書くときも、スキャニングしているなと思う。カントのような正確なルーティンを守っているわけではないけれど(そしてそんな判を押したような生活の中から異変なりトピックを見つけるような芸当はかなり研ぎ澄まされた人でないとできないと思うのだけど)。
そのあたりはさすがカントというべきなのか。つまり、精密なスキャニングのゆえに、そして自らを観察対象として最適な状況に保っておくために幾ばくかの楽しみを犠牲にしたであろう職人的姿勢ゆえに。

自分があまりにルーティンな生活をしていると、人間は変化を求めるものである。何かの刺激を受けて自分の中に波が立つのが楽しいのだし、それを察知して取り込んだり深掘りしたりするのが楽しい(私は。多分みんなも)。だから、人間は本質的には完全な安全を追求するような仕様ではないということだ。暗殺者に狙われつづけるというような異常事態(古代はどうだか知らないが今となっては異常事態)でなければ。嗚呼文化的文明的世界。
で、一番大きな波もしくは、興味深いと思えた波をピックアップして書いてみるのである。

そして内田樹氏の記事がいちいち興味深い波を自分に起こしたと思えてしまうという話。

前に、尊敬している人の話をふむふむと(多分目を輝かせて)聞いていたら、「でも君もそのうち僕の話なんか、はいはい、って思うようになるよ」というようなことを言われたのだけど、そしてそういうことが過去に実際あったことはあったのだけれど。
でも自分がなるほどと思った考えの人というのは、それを語った時点で既に次の、または次の次のステージとか、というかかなり先まで行ってしまっているので、私がその考えを噛み砕いている間に新しいもしくは更に練られた何かをまた獲得しているのである。追いつくことができない。年齢のせいにするのは容易いけれど(まあ年齢に依存する部分はあるけど)、もはや才能の域かなと思う。年下でもそういう人はいるし、年上でもそうでない人はいる。

10くらい年上の従兄弟がいつか(多分10年位前)、「親父が年齢がずっと上だってことがずるいよ。それは超えられないもん。」と言っていた。多分彼はいつも父親を超えたかったのだろうし、そしてそれがなかなか叶わないことにやきもきしていた(まあ今もそれはあんまり変わらないみたいだ。祖母の葬儀のときに久々に会った)。彼は彼の父親より難しい大学に行って医者になったし、彼の父親より稼ぐようになったのだけど。オイディプスというのは安易だな。まあ何かしらの何かがあるんだろう。

そういう何かしらがない私としては、超えられない人がずっといる方が全然いいと思う。ずっと学んでいられる。それにずっと尊敬していられる。
最近読んでいる「ロイヤーメンタリング」という本では、完璧な人間などいないから、ヒーローを絶対と思ってはいけないというようなことが書いてあったけれど、それでも失望がないうちは、もしくは失望を含めて、ヒーローはいた方がいい。ある程度の欠陥はあれどヒーローであり続けられる人というのはいるらしいし。

「スーパースターは待っている 芝生の向こうで呼んでいる 誰もがリフレインに涙する」
byくるり

忘れたくないな。

March 16, 2010

幸せとか善悪とか価値観とか

バイトの面々がいい子たちで、バイト先の子どもたちがいい子達で、みんないい子じゃないの、って思うとき、年長であることに気づく。
そんな話は置いといて。

今幸せかなーと考えた。
答えはすぐに出た。幸せだ。満ち足りている。楽しいし疲れるし緊張するしのんびりもする。

そこで先日某ブログでの問いかけ。

いけいけどんどん:幸せは善であるか?


記事をお読みいただければわかるのだけれど、幸せを語るのはそう簡単ではない。
幸せの定義が多様すぎるのだし、彼の言うように「幸せは感情であって目的ではない」のだから何を以って幸せと感じるのかは個人の問題だ。
子どものかわいさに幸せを感じる者もあれば、馬が勝つことに幸せを感じる人もいるし、帰宅後のビールに幸せを感じる者もあれば、家庭の和やかさに幸せを感じる者も、誰かからのありがとうに幸せを感じることもあろう。
ああここでショートニングのあれ、114を載せたい。

幸せのトレードオフ性というのはだから成り立たないと思う。
幸せに決まった総量はない。感じ方次第で増えもするし減りもする。幸せは相対的ではなく個人の絶対的な問題だ。

トレードオフにはならないとした上で。
幸せは善か、という問い。
たとえば犯罪に手を染めることに幸せを感じるということが考えられるとして、それが善か、といえば悪なのだろう。
最大多数の最大幸福の話か。
ある一つの物事において幸福な人の数が最大であればそれは善とされ、とかいう話を前に書いた。これも暫定の私見で。自らがいいとか悪いとか思うわけではない。私は人にも自分にも甘いようにしている。

善悪は価値観の根幹であって人の行動規範であって、そのほとんどが教育によって教えられるものである。それゆえに最も疑ってかかる問題ではなかろうかと思っている。教育による価値観を私自身の価値観と離したい。
正義は両立するように善悪も両立する。
実際古くさい議論ではある。しかし塾の先生になったからには、何が良くて何がいけないことなのかを説明する術を持っていなければならんと思う。

本音と建前。常識的に振舞いながら、心の中では何にもいけないことなどないと思っている。価値観の再構築中。なう。
「法という企て」という本がある。タイトル勝ち。結構値が張るので逡巡し、結局「ロイヤーメンタリング」を買った。バイト代入ったら買う。

後者の本は、読中だが、ヴォルテールの言葉を思い出す。

私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命を賭けて守る。
"I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it."

刑事弁護士というのはこういうことなのだろうかと最近思う。そういう権利を究極的に守れるのは結局弁護士だけなのかもしれない。


※追記 2010.3.21
善悪じゃないよな、って後で思いました。
幸せが感情ならば、そう思ってしまうのは善悪の問題ではなくて。「嬉しい」とか「悲しい」とかがポジティブかネガティブかというのはあるかもしれないけど、善いか悪いかということではないよなと思い。大体、何なのポジティブとかネガティブとか。

多分、先の「幸せが善か」という問いは、幸せのトレードオフ性を前提している(多分)。幸せを求めることは誰かの幸せを奪うことになるけど、善って言えるの?っていう発問だと思う。
自分としては例えばトレードオフ性を持つとしても、善悪の問題じゃないと言うのだとは思うけど。

ほんとに、誰かが幸せになったときかわりに誰かが不幸せになっているのかしら。あれだな、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」だな。余談だが、恋愛の歌って、恋愛してるときは痛いし、してないときは共感できないしでなんだか、とか言ってみる。「僕らの地面は乾かない」そうだ。マッチングが上手くいってない。

幸せってそんなに希少なものなのだろうか。
うまい醤油にそれを感じても、晴れた空にそれを感じても、いいじゃない、って思う。

しかし幸せを構成する何かしらを一つだけ見てみれば、それは大抵トレードオフになってるのだろう。うまい醤油にも限りがあるし、どこかが晴れてればどこかには雲がある。でもそれら全てが集中するってことは多分ない。

March 13, 2010

ブログを書くということ

更新するときは結構な頻度で更新するくせに、更新しないときはさっぱりだ。

書くことが定まらないので、ブログのことでも。

何かを書いてそれをアップするというのを、大学一年の頃に始めた。2001年か。だからもう9年か。

少し前のブログまではかなりライフログ的な意味合いを持っていた。今日何があった、どう思った、というただの記録。今のブログはもう少し抽象度を増しているとは思う。もう少し一般的なもの、というか。
人が何かを考える時には、何か具体的な事象があってそれをきっかけに考えるのだと思うのだけど(少なくとも自分の身に引きつけて何かを考える時)、それを書かずにいきなり抽象論を書いてる気はする。「こころ」の先生の言うように、過去つまり具体的事実を暴すというのは気が進まないからだと思う。
でも結局のところ、相手に本当に何かを伝えようとするとき、具体的事実はほぼ必須だと思う。

私にとってブログを書くということがライフログから抽象論になっていったのは、多分具体的事実から何かを抽出することができるようになったというある意味成長なのだろうと思う。
で、抽出したものを一旦文章で固定すると、その次に足を掛けるのが容易だということに気づいた(やっと)。数学の問題を解く時に、式を書いていくのと同じで、ある考えに結論を出し、その結論に基づいてまた何かを考えていく、というような。
そういう作業をしないと、第一段階のふわっとした思いつきであとは忘却してしまうのである。そのふわっとしたものを拾ってくれる対話者がいて、それで発展していく場合もあるけれどそれはラッキーで、そうでなければ自分で対話的なものを想定するしかない。それで?とか、でもこうじゃない?とか、合いの手を入れてあげるというか。ふむ。
で、ブログを書くときというのは、そういうふわっとしたのを単語で記憶しといて、パソコンの前に立った時に呼び出してそれについて考えながら書く、みたいな感じが多い。

ああ、でも結構自分の頭の中で解までの道筋は立っていて、それを記録しているだけ、ということもある。その場合、大抵言葉足らずで意味分からんエントリになる。言葉が追いつかないというか。そういうときは一気に考えているので脳が興奮状態になってることが多い。で、ちゃんとできない。仕方ない、そういう仕様。

そういうことが頻繁に起こればブログの更新頻度は上がるし、起こらない時期は下がる。経験上、その多寡は交互に来る。ゆるやかな波のようになっている。

どちらにしても、文章を書きたい、表現したいという欲望で。明らかな義務感から書いたことは無い、と思う。そういう意味で、それらはどれも私自身だ。


前にご近所のブログで、
「全然手を付けないくせに、実は自分の根幹を支え、自分のアイデンティティを一番大きく握っているのが、このサイトなんです」
と述べられていたのだが、よくわかる。ちなみに私はこの方の感性と表現をほとんど尊敬している。
自分の考えを、妨げられることなく、無理なリアクションを周りに強いることもなく、ただ書いていられる場所。自分の考えが、感性が、存分に表現された場所。顔も知らない誰かがそれに触れてくれているかもしれないというかすかなあたたかみ。
Webは、誰もが行き来できて流動的で刹那的で淡白にすら見えるのに、居場所があるという安心感がある。なぜか安定する。そこに自分の場所があって、それが黙示に認められているということ。そしてそこが変わらず、誰にも盗られず、いつでもそこにあるということ。卒業もなく、退職もなく。


院の気風のいい同期がtwitterでこう書いていた。
「表現は欲望なんだ。いいか悪いかとは関係ないんだ。好きにつぶやく場が、人には必要なんだ。おまえらみたいにすき放題くだらねぇことをつぶやく特権を、何の審査もなく享受してる奴らには、その切実さがわからねぇんだ。黙ってろ、読売。」
けだし名言。読売の記事全体がどうかは取ったことないから知らないが、twitterについての上から目線の社説には私もほぼ同感した。


話が逸れかけたが、ブログを書くということは私にとってそういうことだ。自分の根幹を支える居場所であり、考えを発展させることができ、たまには手を振ったり口論できる場所。
mixiでは違った、多分twitterとも少し違う自由さとかフラット感とか。

ブログに書くことでバックアップを取っておけるという意味で便利、というのと、バージョンアップできるということと、精神的な拠り所としての意味と。

結局そういう浮かんだことを書かないとどうなるかというと、消化不良な気分になるのだ。積み残しがあったのにあちこちに置いてきてしまった感じ。そしてそのツケをいつか払わなければならないのではないかという感じ。
江國香織のように、「けりをつける」というのが私もしたいのだと思う。
で、一旦けりをつけても、十分でなければまた蒸し返せばいいのであって。検索で一発だ。便利。
で、まだ当分続きます。御付き合いの程なにとぞ。

March 3, 2010

近況100303

最近書いてないなとは思っていました。
あんまりものを考えていなくて、アウトプットできないというのが正解で。
箇条書きで近況を。

・歯痛により減った体重が更に胃腸の調子が悪くて減った。

・体重計に乗ったら中学生以来の数字でびっくりした。

・化粧をすると元気になることに気づいた。

・塾でバイトをはじめた。

・子どもに飛びかかられた。

・自分の体だけで精一杯なのに、小学一年生に抱っこやおんぶを要求され、仕方なく応じたら、結構持てた。

・これ塾講師っていうか保母じゃね、って思った。

・子どもはなんだかんだで大きくなっても(中高生でも)かわいい。

・でも自分の子はしつける。

・家に帰ったら妹がものすごくいい子に見えた。