February 4, 2015

女のいない男たち

女のいない男たち/村上春樹 読了。

遅まきながら、村上春樹の久しぶりの短篇集を読んだ。私は割と村上春樹の短編は好きで、誰かも村上春樹の真骨頂は短編にあると述べていたのだけど。
かつて1Q84が話題になった時のような熱狂的待望や増刷が間に合わずに書店でも予約待ち、なんてことは起こらず、ひそやかに、ただとはいえ春樹の新刊だから、本屋のあちらこちらに平積みされていた。

基本的にどうしてもその本に飢えている時でなければハードカバーは買わないのだけど(持ち歩くのがしんどい)、飢えている時に買ったハードカバーは持ち歩く必要もない(すぐ読み終えるからだ)ことに気づいた。

この本は、6篇の、いわゆる「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」についての短編からなっている。アーネスト・ヘミングウェイの「Men Without Women」(女抜きの男たち)のようなニュアンスではなく。
 めずらしく著者による「まえがき」がついており、そこで若干「業務報告」的に、初出と収録時の作品の変えている部分について事情を説明している。ああ、村上春樹が所謂業務的な説明をするとこうなるのだなというところが、いささか興味深い。

私は割と初期の「風の歌を聴け」とか「カンガルー日和」とかを好んで何度も読んでいたから、今回の「女のいない男たち」は随分と大人な印象を受けた。勿論どこまでも彼は、というか「僕」は十四歳の少年じみているのだけど、多くの大人的事情や社会的事情を含んだような慎重さというかシリアスさを薄く何層も重ねたような風になったな、と思う。本質のところでは変わらないのかもしれないけれど、つまり希求しているものは同じなのかもしれないけれど。
いずれにしても春樹にしか書けない作品たちだったと思う。

「ある日突然、あなたは女のいない男たちになる。その日はほんの僅かな予告もヒントも与えられず、予感も虫の知らせもなく、ノックも咳払いも抜きで、出し抜けにあなたのもとを訪れる。」
「その世界では音の響き方が違う。喉の渇き方が違う。髭の伸び方も違う。スターバックスの店員の対応も違う。クリフォード・ブラウンのソロも違うものに聞こえる。地下鉄のドアの閉まり方も違う。表参道から青山一丁目まで歩く距離だって相当に違ってくる。」

たとえば女性作家の誰かがこのような作品を、つまり男性を失うことについてこんな風に繊細であたたかくかなしみに満ちてそれを否定もせずに受け入れて(息を引き取るまで留まるワインの染みのようなものとして)、書いているだろうかとかんがえる。まったく最近小説を読んでいないけれど、多分書いていないんじゃないかな、と思う。
女性はたぶん、彼の言うところの「豊富な家政学の知識」をもってその染みをきれいに落としてしまうのだと思う。もしかしたら、染みがもともとできないような素材でできているのかもしれない。まあ、人によるだろうけど。




優れてやさしい作家だと思う。私は好きです。