November 30, 2010

to i

ゆらゆら帝国聴きながら、ゆらゆらしている夜1時。

ひとりぼっちの人工衛星、人工衛星つながりで相対性理論。やめちゃいな。チャイナ。
反応反射音速光速。ピンポン読みたいなー。
OTOGI NATIONからのSTROBOLIGHTS。2愛。
今、愛の灯のライト。It's all right.
Apple ate apple?
忘れられない一日になります。
ノルウェイの色はクリスマスの色。
Joy to the world.

インターネットは心の世界だ、本当だ。

結局そこにはiがあるわけで。

November 26, 2010

ファッション誌を買う

追記:2010.11.28 リンクしました広告など。

iPhoneから。3時だよ。

久々に雑誌を買った。最後に雑誌を買った記憶は「F1速報」だった。
その前は多分「週刊ダイヤモンド」とかじゃないかな。「日経トレンディ」かな。いやだな。

元々雑誌を定期的に買うというのが苦手な方だと思う。というか、定期的にっていうのが苦手なのかもしれない。ドラマも、だから1クール見通すなんて稀で、大河なんていふべきにもあらず。見通したドラマとか今まで生きてきた中であったかな。家族は意外とちゃんと観ていて、妹はこの前の「ゲゲゲの女房」ちゃんと観てたし、父もまた大河とかちゃんと観てる。

で、今日はファッション誌を買った。
ファッション誌は素敵だ。見てて楽しい。好きなモデルさんなんかいると、見とれることができるし、それでなくても女の子って楽しい!という気分になる。可愛いアクセサリー、可愛いモデルさん、可愛い服。
昔はEMIの細っこさとか、アリスのアンニュイな感じとか、SHIHOのあまりにバランスのとれたスタイルとか笑顔とか、に憧れたりした。アリスは好きだったな。
久々にアリス見たら「mini」買いたくなってきたよ。

今日は「SPUR」。
全然着れない服ばっかりだけど、そういう気分。ファッション誌を読むのは格好の参考にするためだけじゃないからな。私、テレ東系列のBSとかでやってる「ファッション通信」結構好きです。シャネルのコレクションとかめっちゃ可愛いです。
参考:2010 Fall-winter Haute Couture CHANEL-Look
同ページの「SHOW」ってので映像でショーが見れる。ライオンでかい。かっこいい。他のシーズンのコレクションも見れます。


そういう雑誌は、気分がリュクスな感じになるのです。
広告ですら格好いい。ちなみに今のルイヴィトンの広告好きです。
それにしてもスカーレットヨハンソンはなんであんないいんだ。D&Gの香水の広告とか。
シャネルの広告もアメリのひとだ!きれい。
編集もすごい。マークジェイコブスのリゾートコレクションなんて本当に絵本の中から 脱け出したみたい。
ジュエリーもすごい、なんだかんだシャネルは凄い。
クリスマス特集はすごく素敵。

映画とかは、ソフィアコッポラの「SOMEWHERE」とかクリントイーストウッドの「ヒア アフター」はマットデイモンでもあってみたい。
音楽はKIMONOS聴きたい。
artは森美術館でやる「小谷元彦展 幽体の知覚」、ていうかこのページのやつ全部行きたい。
人だけ並べると、大友良英、三宅一生、高木正勝、宮島達男。

立ち読みでもどぞ。

と、このようにアートごころが刺激されてたのしくなってくるのです。雑誌はお手軽アートなのです。
BGMは、相対性理論で「小学館」

November 19, 2010

結構年下の子に、「大人ですねー」って言われて、それはそうだね、年食ってるからね、って思いながら、「そうかなー」なんていうとき、自分が年っていうものを意外と気にしてるなとか思い、ふむと思う。

内田樹氏が「学年」というものについて本で語っていたなと思いだす。そういう「偏狭なコミュニティ」のこと。なぜかあるその連帯感や別に思う意識。一個違いだけと学年は一緒、っていう。
院など学年など一緒でも年はてんでバラバラで、でもおかしなことに学年を気にすることというのはあった。どういう意識なのでしょう。


で、年上でも年下でも、その人のせいじゃないもんな、と思う。若いのはその人のせいではないし、年取ってるのもその人のせいじゃない。その人にはどうしようもなくその年に生まれたのだから。
どうしようもない属性というのは結構多い。
性別、国籍、出身地、背の高い低い、重さの重い軽い。
そういうので差別してはいけない、って多分教えられるし、意識の中にもそういうのあるけど、年齢で差別しちゃいけないとは言われたことない。寧ろ年長者を敬えと教えられるのであり(儒教の影響アジア圏のためか)。
同じように年齢もまたその人が選べるものではないのよなあと、まあそれだけなんだけど。

ちなみに、祖母が85なのだが、病院なんかに行ったとき隣に座ったおばあさんと会話をしてて、1,2歳の差を気にしているので、すごいなと思う。

November 16, 2010

散策、でもいつもの

今日は、外出。

いつも、散策したい場所というのはあるのに、私の移動手段と体力が乏しいために、限定される。

那覇の街。
買い物がしたいんじゃなくて、いろいろなものに触れたいがために来るのだけれど、いや、でもひとりになりたいがために来るのだなと思う。結局のところ。

家族と住んでいると、ひとりで街を歩くという感覚に餓える。ひとりでコーヒーを飲むという感覚に餓える。ひとりの時間は大事。正確にいうと、ひとりだと実感できる時間が大事。
自分の輪郭を確認することができて、外側を外側として認識して、対象として認識するということ。そうして、自分の中で何かを自分に語りかけることができるということ。つまり、とりとめもないことを自分の中で何度も巡らせながら考えるのには、周りに人がいると文字通り気が散ってしまってできない。


観光で来た友人と一緒に歩く以外は足を踏み入れない市場の通りを、今日は一人で歩いてみたりした。
あの市場の通りは独特の匂いがする。パイナップルやマンゴー等の果実の匂い。衣料品の匂い。仏壇なんかに備えるお菓子の匂い。揚げられたサーターアンダギー。近くに公設市場があるから、生肉や魚の匂いも少し混じっている。混ぜこぜの生き物の匂い。
そういうのは、普段嗅ぐことのない匂いで。スーパーにだって同じようなものは置いているけど、そんな匂いはほとんどしない。
どこか懐かしいのは、おばあちゃん家の匂いに似てるからだな、と思い至る。

市場の奥の方にはなぜかカラフルな風船が下がっていた。

市場の店舗の二階には、県内の若手アーティストが借りたりしている古いぼろい部屋が並んでいたりして、そこで何かしらやっているかしらとのぞいたのだけど、一個奥の建物の方に入ってしまい、ほとんど廃墟でしたが、カラフルな風船を二階から見ることができて、少し楽しい。
あまり知られていないので、人は出入りしていない。でもなんだか文化祭のようで楽しい。





あと、タワレコ。
毎回言ってるけどあのヘッドフォンはずるいよ。超いい音で、CD、すごく欲しくなってしまうもの。
今日は試聴だけ。大貫妙子さんの声と、中田ヤスタカのサウンドと。迫力。
那覇店はそんなに大きくないので、エレクトロニカのコーナーはない。クラブミュージック内。あるいはポップス、ロックと同じように陳列。テルアビブはいない。この前高木正勝を買ったせいか、今度彼がライブで来るからか、彼のは一個増えてた。確かに聴く人はあまりいなさそうだものね。
最近は初回盤はDVD付って多い。それもまたくすぐる。

途中でスタバに入って、道路に面したガラスの方を向いて座ってたら、外の真ん前の席に多分地元のおじいちゃんが座って。
スタバの商品ではないよなーというカップのアイスかなんかを食べていた。
テーブルになにかピンクいものが置いてあったのでふと見たら、入れ歯でした。
ちゅーばーやっさー、と思いました。

November 15, 2010

yoru

iPhoneからの初post。
深夜のリビングにて。withビョークおばさん。ヴェスパタイン。

時は3時半。ねむくならない。朝刊の配達時刻の正確さ。
明日は明日で、元気なら予定がある。散策とカフェ。

朝のリレー、というのは谷川俊太郎の詩だけれど。世界規模でなくてもそれは起こっていて。
関東の人の送った写メの夜の暗さと、沖縄の空のうす明るさ。
我々は経度から経度へと夜を受け継ぐ。夜はやさしい。
夜の音楽に満ち、オリオン座がひかる。

ねむる者にやさしく、ねむらない者にもやさしい。

遠くの夜のことを思う。月はしずんだかしら。空気は澄んでいるかしら。もうねむっているかしら。

「月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?」

November 6, 2010

詩についての覚え書き

少し前に、
言葉は必ずしも伝達のためのツールではない
ってツイートした。

そして一瞬上げたのでご覧になった方もおられたとは思うのだけど、詩のことについて少し書いた。
それと関連しているのだけど。


今までこのブログでもどこでも、「言葉は伝達のためのツールだ」ということを前提に書いてきた気がする。
それは少なくとも自分が言葉をそのようなものとして扱っているからで。
そして言葉が生まれた経緯についても、言葉以前の人の思考をシミュレートするときに、自分の中でそういう絵が浮かぶからで、そういう思考の道筋をたどってしまうからであった。
つまり自分なら、言葉を使いたいと思うのは、誰かと何かを共有するためだと。
そして実際に言葉というのは、そういう風に使われているとも思ってきた。

そういう考えでいるとどうにも解せないというのが、詩だった。
詩にもよるけれども、凄いと世界の人々が認めるような詩人の詩は、あまりに抽象性が高くて、形式もまた説明に向くようには書けないようになっていて、そもそも伝達しようという意思がほとんど感じられない。わざとわからないように書いているのではないかと疑うほどである。難解であればあるだけそれは高尚なもののように見える。それを理解するにはたくさんの知識や高い人格が必要なように見える。
でも、私は伝達できなければどれだけの意味があるのだろうと思うタイプの人間で。
それで、詩を鑑賞するときには、語感として心地いいものや、美しいものや、わかりやすいものに限って、それを感じとり、傍に置いておくということにした。
たとえば短歌や俳句などはそういう味わい方をするものだと思う。ただ、詩の場合、それが十分でない鑑賞方法であるということを知りながら、しかしどうすることもできずに、もてあましていた。

しかし、詩というものはどうやら伝達を一次的な目的としているのではないようなのだ。
詩作というのはつまり、たくさんの人生経験のなかで、自分の獲得した「自分」の中での真理だとか本質だとかそういったものを苦しみぬいてつむぎだす行為、らしいということ。
その示唆をくれたのは母で、母はそういう風に詩を理解している。

そのことをなるほどねと頭に置いていたら、いくつかリンクする読み物があって。



まず、以前にトライしてまだ最初の方しか読んでいない、吉本隆明の「詩について」の、

「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。」

という文章にも通底するところがあるように感じる。
「全世界を凍らせるかもしれない」ほどの「ほんとのこと」。こんなものが書けるのは、誰だ。



で、次。
先日読んだ現代文テキストの、リルケの「マルテの手記」から引用。

-----------------------
 僕は詩も幾つか書いた。しかし年少にして詩を書くほど、およそ無意味なことはない。詩はいつでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。
 詩はほんとうは経験なのだ。一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅。遠くから近づいて来るのが見える別離。──まだその意味がつかめずに残されている少年の日の思い出。喜びをわざわざもたらしてくれたのに、それがよくわからぬため、むごく心を悲しませてしまった両親のこと(ほかの子供だったら、きっと夢中にそれを喜んだに違いないのだ)。さまざまの深い重大な変化をもって不思議な発作を見せる少年時代の病気。静かなしんとした部屋で過した一日。海べりの朝。海そのものの姿。あすこの海、ここの海。空にきらめく星くずとともにはかなく消え去った旅寝の夜々。
それらに詩人は思いをめぐらすことができなければならぬ。いや、ただすべてを思い出すだけなら、実はまだなんでもないのだ。一夜一夜が、少しも前の夜に似ぬ夜ごとの閨の営み。産婦の叫び。白衣の中にぐったりと眠りに落ちて、ひたすら肉体の回復を待つ産後の女。詩人はそれを思い出に持たねばならぬ。死んでいく人々の枕もとに付いていなければならぬし、明け放した窓が風にかたことと鳴る部屋で死人のお通夜もしなければならぬ。
 しかも、こうした追憶を持つだけなら、一向なんの足しにもならぬのだ。追憶が多くなれば、次にはそれを忘却することができねばならぬだろう。そして、再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐がいるのだ。思い出だけならなんの足しにもなりはせぬ。追憶が僕らの血となり、目となり、表情となり、名まえのわからぬものとなり、もはや僕ら自身と区別することができなくなって、初めてふとした偶然に、一編の詩の最初の言葉は、それら思い出の真ん中に思い出の陰からぽっかり生れて来るのだ。
-----------------------


ふむふむと、思った。
そしたらたまたま、同じ日の授業の子のセンター過去問でまたもリルケの詩にめぐり会う。


95年度のセンター本試験の文章、饗庭孝男「想像力の考古学」にリルケの詩の抜粋。
-------------------------

ぼくはひとりだったためしはない。
ぼくより前に生きて、
ぼくより先に分かれてゆこうとした人々も、
ぼくという存在のなかに
生きていたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぼくには空間が必要なのだ、
一族全部が生きるに足るほどの空間が。

-------------------------「初期詩集」リルケ


この詩の前には、この詩をより理解可能にするための文章がくっついているが、なかなか観念的で、センターの評論の中では難解な方の文章である。
簡単に要約すると、

一人の「私」には、今までの歴史、生活が反映されている。その結果としての「私」である。言語もまたそうである。私たちは外国に行き、他言語に触れることによってそのことを深く思い知ることになる。
「私」は「私」以前に生きた無限に複数の「私」の集約であり、また同時に「私」と同時に生きている存在たちの集約なのである(前者を通時的な「私」、後者を共時的な「私」と呼んでいた)。

というようなことが書いてあった。
成程成程。



例えば、こういう風に説明を前につけていただけたらわかりやすいのである。評論の形で書けば、全てではないにしろ、詩よりは伝わるのである。
なぜ、詩なのか。
それは、言葉を伝達の手段として用いていないからだな、と思う。
沢山の経験と思索と感情からその心の中に醸成された、あるいは発現したあるものが言葉という形をとって、ふと書きつけられる、多分そういうものなのだと思う。もしかしたらそれは「叫び」かもしれないし、「呻き」かもしれないし、「つぶやき」かもしれない。ただそれは伝える以前に自然と出てきた言葉なのだろうということ。
そういう意味で、twitterの詩性とか。


そうして、私は「言葉は伝達のためのツールである」という認識でありながら、もしかすると伝達以前に書きたいから書いているのだよなと思い至る。伝達することはもちろん意識しているけれど、動機は伝達したいから、ではない。表現したいから、である。数ある表現方法の中で私のもっとも使いやすいと思った言葉で、私は表現をしているのだということ。
たとえばこのブログを意図的に検索にひっかからないようにしている閉鎖性とかは、伝達をむしろ拒んでいる方向性をもっている気すらする。


長くなったのでここらで終わるけれど、もう一つだけメモ。
タイムリー(まあ私にとって)なことに、内田樹がブログで「エクリチュールについて」という文章を書いていた。
高いリテラシーを要求するテクスト。
詩についての、覚え書き。