February 25, 2012

海の

今住んでいる場所は、風向きによって海の匂いがする日がある。
海が近いのだった。
その一点だけでも、私はこの場所が好きだと思う。(まだいろいろ好きな理由はあるのだ、徒歩5分圏内にスーパーが3つもあるとか、街灯が高速道路みたいでオレンジの水滴のようだとか、クリニックや薬局も至近だとか、バレンタインなんかに全然浮かれていないところとか。)

たとえば有楽町は、あんなに都会なのに、The GINZA!なのに海の匂いがすることがある。
全然海は見えないけれど、ここも海が近いのだなあと思っていた。
そのとき私は有楽町で乗り換えて通勤していた。ガード下の立ち飲み屋を横目に羨みながら電気の消えたヨドバシカメラの前を通って。電気の消えた本当は賑やかな場所を通るのはさびしいのと特別な感じと両方するけど、どちらにしても疲弊していて、海の匂いはとても物質的で本質的で地に足がついていて、虚業を忘れるのにとてもよかった。

海のあの有機的な匂いがすると、なぜだか、ああこれに飢えていた、という気がする。
沖縄にいたときに海の側に住んでいたわけでもないし、沖縄の海の匂いとはちょっと違っているのに。

有機的としかいいようのない、生き物の混在した匂い。そこに私たちのようにいきづくものものがいるという認識。私たちには侵食しえない別の世界。
土地がないからといって埋め立てはしても、水の中に住もうとはしなかったのだなと、人間の貪欲さからするとなんとなく不思議にも思う。

私の理解では、海は完全なるアウェーである。だからシュノーケリングもダイビングも、私はしかねる。あの中では何をされても文句は言えない。完全に違うルールで構築されている世界である。私は結構自然を畏怖しているな、そう考えると。だいたい、洗面器の水の量でも溺死できるという脆弱な人間ごときがさ。
でもその世界を眺めるのはとても好きだ。神は天の上にある水と下にある水とを分けられた。
全然中はフラットじゃないのにフラットみたいに見える水面。

週に一度、横浜地裁へおつかいにいくのだけれど、その度に海の方へ歩き出したい衝動をおさえる。横浜地裁から5分と歩かずに海があるのだ。もちろん海の匂いもする。曇りの日は冴え冴えする。
その気持ちは、前の会社で働いていた時にいつも有楽町で乗り換えるときに見える皇居の緑へ、地下鉄のボロくて狭い階段なんか降りずにずんずん歩いてしまいたい気持ちと似ている。

明日も海の匂いがしたら、会社帰りに寄ろうかな。

February 19, 2012

まる

ちょっと前に、院の面々の集まる新年会に顔を出し、そこである人の言った「一周回ってる」という概念を結構気に入ってしまっている。なんだか言い得て妙な感じがして。
曰く、人間にはいろんなタイプがいて、ある種の人々は、「回る」という部類に属するとのこと。お遍路のように。そうして、私やその他友人の一人は1周もう回っているとのこと。俺はまだ序盤とのこと。一周まわってるやつはなんかすげえとのこと。コンテンポラリーとモダンをひたすら間違えながらお話しになる。

そういう抽象レベルのイメージベースの話し方って結構好きだなあと思う。
誰々は~的だ、という文脈の中で、ある人は終末的だと評され、かつ宇宙飛行士だと評される、そのことがなんとなく共通認識として納得感ある、っていうのは面白いことだと思う。

例えば自分の今の状態を、そういうふうに、絵にできたら、問題の大半は片付いているのだろうと思う。何が問題なのかを説明できた時点でその問題はほぼ解決しているとの先達の言の如く。
でも実は問題を明らかにした所でどうしようもないこともたくさんある。



Then,don't worry about it.Life goes on.である。兎にも角にも知に働けば角が立ち、その角が削るのは自身であったり。
でも誰が何を言っても、隣に緑の草原が見えていても、枯野を引き回される牛の如く、枯野の中にひたすらほおずきの実を探す秋もある。


あたらしい二人があたらしい場所にあたたかな心であたたかな場所をつくれますように。