February 19, 2011

近況

まためもなど。

白州(日本のサントリーのウイスキー)は香り高く芯がしっかりしていて清冽で高貴。
酔っ払いになるつもりがすっとしてしまい、飲んでぐだぐだというような失態を許さないような気がするお酒だなーという主観。すっと胸の内に透きとほった琥珀の風が起こる。
日本のやつは竹鶴と山崎と余市くらいしか飲んだことないと思うのだけど、どれもそういう雰囲気。
アメリカのやつは、なんとなくだけど禁酒法時代の西部女になれる気がする。


坂本弘道というセロ弾きが気になる。前衛的なセロ弾きで「市電うどん」と検索すると某チューブで見れるし聴ける。moonというゲームで、「真夜中大学のテーマ」とか「月魚」を弾いていたのだ。とにかくあのゲームが私に与えた影響ははかりしれない。特に音楽。いろいろなものの入口になった。
※参考:月魚ドガ(「市電うどん」)
ノイジーなストリングスが結構好きで、先日バッハの無伴奏チェロのCDを買った。ついでにカラヤンがベルリン・フィルでピアノをくっている素晴らしいラフマニノフピアノコンチェルト二番も。カラヤンあの音の統一感。オーケストラが一体となるってそういうことなのかと思う。個人的には音がこぼれ落ちてくるような演奏も一方で好きだけれど。
N響オーチャード定期を狙いたいところだが果たして。


途中というものの美について。
たとえば美しい花が朽ちていく途中。人が干からびる途中。如来像より上人像。


「告白」は、私にはストライクゾーンど真ん中でした。
そもそも中島監督のは「嫌われ松子」も映像も内容も大好きで。これは独り家で号泣した。最初っからずっと泣いていた。iPodには「まげてのばして」が入っていて今でも聴く。
あの一コマ一コマが美しい絵になっている映像センス、世界が醜く、でもそれすら美しく描いていて。美しさって気持ち悪さと紙一重だ。耽美とかでもなく。ただ、淡々と。自然が時に醜く気持ち悪いように、それでもその中に美しさを見出すように。
この作品は映像が綺麗なだけなのではない。あの中学校の教室の、言葉の通じない世界の喧騒と彼らだけのルールやコミュニケーション、プールの雰囲気。それらを完璧にあくまでリアルとして構築し、原作自体をあんなにも活かし冴えわたらせる。あまりに美しい風景とそれらの残酷な行動はひとつで。レディオヘッドやら渋谷慶一郎やらの音楽、テーマの重さにも流されない一貫した冷静な目線。このひとはこんなにも世界を理解している、と思う。

この世界で起きている事象は同じ重さでただ起こり、流れているのだということ。殺人も報復も制裁も衝動も抑制も。
「『でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね』」
村上春樹「1973年のピンボール」より

そんなところで人間は生きている。よくない事象が起こり、感情がかき乱され、大きくうねり、その渦の色彩の中に光を見いだす。
松たか子の見た光。

あらゆる意味でものすごく今っぽい映画だ。

中学生の無邪気さ。悪意なのに単純な。


coedoビールの白飲みたいなあ。

February 14, 2011

1973年のピンボール

読了。以下メモ。


行き詰まり
変化
腐敗
崩壊の過程
ひとり
細かな粒子
変化
reset
現在
すり抜け


「ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。」

「一九七三年、そんな年が本当に存在するなんて考えたこともなかった。」

「誰もがめいっぱいのトラブルを抱え込んでいるようだった。トラブルは雨のように空から降ってきたし、僕たちは夢中になってそれらを拾い集めてポケットに詰め込んだりもしていた。何故そんなことをしたのか今でもわからない。何か別のものと間違えていたのだろう。」

「彼女はナイフとフォークで器用に海老の皮を剥きながらボソボソ言った。『誰も私のことなんて好きにならないわ。ロクでもないゴキブリ取りを組み立てたり、セーターを繕ったりして一生終わるのよ』・・・『君は可愛いし魅力的だし、足だって長いし頭だっていい。海老の皮だって上手く剥ける。きっとうまくいくさ』」

「『そしてこう思った。どんな進歩もどんな変化も結局は崩壊の過程にすぎないじゃないかってね。違うかい?』」

「わからない。良い質問だが答がない。良い質問にはいつも答がない。」

「僕たちがはっきりと知覚し得るものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとても僕たちの体をただすり抜けていくだけのことだ。」

「そして一日、窓の外を通りすぎていく十一月の日曜日を眺めた。」

February 12, 2011

告白

世界の
美しさ
人間
気持ち悪さ
物語
重さ
事象の等価性
沿う
液体
焼きつく
語る
シームレス
藪の中
ただそこにある光景
escape

February 1, 2011

部屋の中

昼間の部屋で、電気を消しているのが結構好きだ。
実家の窓は大きいので、昼間は自然光だけで十分生活できる。
でも夕方になっても、あんまり電気をつけたくない。
暗順応。

暗いところでは色味はほのかにしか存在せず。シルエットとか光の具合とかそれがきれい。なんとなく安心する。統一感の問題なのかもしれない。
江國香織の小説に、「くもりが好きなのは怠け者の証拠」という言説があってげにげにと思った覚え。
薄暗さの中で意識もたゆたう。

日本の、the蛍光灯!っていう照明が外国人からするとまじでいただけないというのはinoブログか何かで読んだのが頭の片隅に残っているのではあるが、ほんとそうだなあと思う。それはそれでいわゆる高度成長期、90年代的なダサさがよかったりはするのだけれど、夜になって部屋の電気をつけるときというのは、遊びを終わらせられたような子供の時のような興ざめた気分がするものである。急に蛍光灯の明かりに照らされて俗っぽさを取り戻した物物。それぞれが統一感など無視して自己を主張する騒々しさ。新宿みたい。ドンキ、ヨドバシ、アルタ、ルミネ、無印、伊勢丹!ごちゃごちゃ。

そんなこんなで風邪と付き合って早5日。