July 7, 2011

書くということ

文章を書くということに飢えるという時期は確かにある。
その時はなにがなんでも書かなくては気がすまず、書くことがないときでさえ書くことがないということを書くのである。

その一方で、書くことに着地できない時というのもある。
そうだ、書くことはある意味着地なのだ。
でも、着地しないでいたい時もある。

書かなければ忘れてしまいそうなこと、しかし書いておき自分の軸に取り入れたいことを書き続けることによって、というかそういう行為それ自体を反復しているうちに、なんだかそういったことが身についてしまった。
身についたというのは、書いていることそのものというよりは書けなかったことも含め、行為とか時間とか思考することそれ自体とかが、血となり肉となったという感じ。だから、特に書かなくてもよくなってしまったのかもしれない。
同時に、あまり読まなくなった。読んでいるのは安吾の堕落論ばかり。

次のフェーズと言ってもいいのかもしれない。けれど、フェーズと言ってしまうことが今の自分にはしっくりこない。反発がある。反発があるようである。感情というより現象として。
名付けるということ、括るということ、軸で切るということ、それらが。今までそうやって世界をなんとかかんとか理解しようとしていたのに。発見をしては楽しくてそれを書きつけていたのに。

全てを放しておきたい、そうすることが自分を自由にするということな気がしている。

でも文章が好きなことに変わりはなくて。読んでいたいし書いていたい。それがアイデンティティのような気もしている。

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