March 16, 2010

幸せとか善悪とか価値観とか

バイトの面々がいい子たちで、バイト先の子どもたちがいい子達で、みんないい子じゃないの、って思うとき、年長であることに気づく。
そんな話は置いといて。

今幸せかなーと考えた。
答えはすぐに出た。幸せだ。満ち足りている。楽しいし疲れるし緊張するしのんびりもする。

そこで先日某ブログでの問いかけ。

いけいけどんどん:幸せは善であるか?


記事をお読みいただければわかるのだけれど、幸せを語るのはそう簡単ではない。
幸せの定義が多様すぎるのだし、彼の言うように「幸せは感情であって目的ではない」のだから何を以って幸せと感じるのかは個人の問題だ。
子どものかわいさに幸せを感じる者もあれば、馬が勝つことに幸せを感じる人もいるし、帰宅後のビールに幸せを感じる者もあれば、家庭の和やかさに幸せを感じる者も、誰かからのありがとうに幸せを感じることもあろう。
ああここでショートニングのあれ、114を載せたい。

幸せのトレードオフ性というのはだから成り立たないと思う。
幸せに決まった総量はない。感じ方次第で増えもするし減りもする。幸せは相対的ではなく個人の絶対的な問題だ。

トレードオフにはならないとした上で。
幸せは善か、という問い。
たとえば犯罪に手を染めることに幸せを感じるということが考えられるとして、それが善か、といえば悪なのだろう。
最大多数の最大幸福の話か。
ある一つの物事において幸福な人の数が最大であればそれは善とされ、とかいう話を前に書いた。これも暫定の私見で。自らがいいとか悪いとか思うわけではない。私は人にも自分にも甘いようにしている。

善悪は価値観の根幹であって人の行動規範であって、そのほとんどが教育によって教えられるものである。それゆえに最も疑ってかかる問題ではなかろうかと思っている。教育による価値観を私自身の価値観と離したい。
正義は両立するように善悪も両立する。
実際古くさい議論ではある。しかし塾の先生になったからには、何が良くて何がいけないことなのかを説明する術を持っていなければならんと思う。

本音と建前。常識的に振舞いながら、心の中では何にもいけないことなどないと思っている。価値観の再構築中。なう。
「法という企て」という本がある。タイトル勝ち。結構値が張るので逡巡し、結局「ロイヤーメンタリング」を買った。バイト代入ったら買う。

後者の本は、読中だが、ヴォルテールの言葉を思い出す。

私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命を賭けて守る。
"I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it."

刑事弁護士というのはこういうことなのだろうかと最近思う。そういう権利を究極的に守れるのは結局弁護士だけなのかもしれない。


※追記 2010.3.21
善悪じゃないよな、って後で思いました。
幸せが感情ならば、そう思ってしまうのは善悪の問題ではなくて。「嬉しい」とか「悲しい」とかがポジティブかネガティブかというのはあるかもしれないけど、善いか悪いかということではないよなと思い。大体、何なのポジティブとかネガティブとか。

多分、先の「幸せが善か」という問いは、幸せのトレードオフ性を前提している(多分)。幸せを求めることは誰かの幸せを奪うことになるけど、善って言えるの?っていう発問だと思う。
自分としては例えばトレードオフ性を持つとしても、善悪の問題じゃないと言うのだとは思うけど。

ほんとに、誰かが幸せになったときかわりに誰かが不幸せになっているのかしら。あれだな、宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」だな。余談だが、恋愛の歌って、恋愛してるときは痛いし、してないときは共感できないしでなんだか、とか言ってみる。「僕らの地面は乾かない」そうだ。マッチングが上手くいってない。

幸せってそんなに希少なものなのだろうか。
うまい醤油にそれを感じても、晴れた空にそれを感じても、いいじゃない、って思う。

しかし幸せを構成する何かしらを一つだけ見てみれば、それは大抵トレードオフになってるのだろう。うまい醤油にも限りがあるし、どこかが晴れてればどこかには雲がある。でもそれら全てが集中するってことは多分ない。

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