January 23, 2010

うろうろすること

渦中だなと思う。

別に仕事とか人間関係とか権力抗争とかの何にも巻き込まれてはいないのでそういう意味の渦中ではなく(と断るのはおそらく、たくさんのいわゆる「渦中」(火中?)にある友人が思い浮かぶからだろう)、色々な考え方の中にぐるぐると巻き込まれている、しかも自ら、という感じである。物理的なものじゃなく、精神的な。


ともすれば私は堕落の方向へ行きがちであるし、堕落の方向とは逆へ逆へと進みたがってみたりもするし、堕落と名づけずにすっとそれて諦観した気になってみたり、堕落とは何ぞやとそもそも落ちるとか上るとかいう方向というのを疑ってみたり、こういう模索する姿勢に嫌気を覚えたり、もがくことの正当性を考えてみたりする。

自分の感じることに照らしてしっくりくるものに平安を覚えたりはする。それでもしっくりくるというのはいつでもそうとは限らなくて、ある時はそうだそうだと思ったのに次の日になるとなんだこれは愚にもつかぬ、と思うこともあるのであって。


なんだろうな、吟味ということは大事な所作であると思う。
ので改めてすることにしても、坂口安吾という人はかなりの程度正直者であると思う。正直であるということは、いい。特に作家などというものは、正直であればあるほどいいと思う。


内田樹がブログで、自己評価を急がないということについて書いていた。
彼の言ってることがいつもかなりの確度で的を射ている(一面的にしても)ので、とても参考になるのだが著作はまだ読んだことがない。
自己評価を急がない、つまりずっと自分に興味を持って模索し続けること、卒後教育について書いていたのだけれど、ああいう先生に大学でもし出会っていたら、今もう少し前に進んでいたかもなと思う。とはいえこうしてブログでその考え方に触れることができているのだから、いい時代になったものだ。

人生の終わりまで多分この模索は続くのだろうし、多分一生かけても終わらないほど、自分というテーマは大きい。コントロールできていそうでできておらず、仕組みをもわかっていなくて、時間的にも幅があって、今この瞬間も自分という容量が広がり続けている、gmail的な、いや宇宙的な、あれ、宇宙って一回膨張して今度は縮んでるんだっけ?まあいいや的な。

この調子では一生ブログなり何らかの形でいろいろやってしまいそうだ。

申しておきますが、思索などやるやつは、悪霊に引きまわされて枯野原のなかを、ぐるぐる空回りしている家畜みたいなもんです、その外側には立派な緑の牧場があるというのに。
ゲーテ「ファウスト」より


そんなことわかっていても、枯野原のなかをうろうろするのが好きな者もいるのだし、枯野原は意外と枯野原じゃなかったりするかもしれないのである。
ふむ。

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