April 7, 2010

生きている言葉

最近ついったーでは内田樹氏のブログを毎日ツイートしてしまっていて。
まあいいや。ブログでも書こ。


以下引用。
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なぜ、「生け花」と「プラスチックの造花」のあいだに美的価値の違いがあるかということを前に論じたことがある。
もしも、造型的にも、香りも、触感も、まったく同じであったとしたら、「生きた花」と「死んだ花」の本質的な差はどこにあるか。
差は一つしかない。
「生きている花」はこれから死ぬことができるが、「死んだ花」はもう死ぬことができないということだけである。
美的価値とは、畢竟するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。
私たちが死ぬのを嫌がるのは、生きることが楽しいからではない。
一度死ぬと、もう死ねないからである。
すべての人間的価値を本質的なところで構成するのは「死」である。
「仮死性」というものがあらゆる人間的価値の中心にある。

昨日書いたように、私たちが定型的なことばを嫌うのは、それが「生きていない」からではない。
それが「死なない」からである。
個人の身体が担保したものだけが「死ぬ」ことができる。
「世論」は死なない。
個人としての誰が死んでも、「世論」は死なない。
それは「プラスチックの造花」と本質的には変わらない。
だから、世論は私たちに深く、響くようには届かない。
深く、骨の中にまで沁み込むように残るのは「死ぬ言葉」だけである。

(中略)

「『思想は富貴の身分から生まれるものではない。』
このような断定は万巻の書を読破し、手に入る限りの史料を渉猟すれば口にすることが許されるという種類のものではない。
このような言葉は発話者がその身体を賭して『債務保証』する以外に維持することのできぬものである。
私は白川先生がどのような前半生を過ごされたのか、略歴によってしか知らない。けれども、それが『富貴』とほど遠いものであったことは知っている。さしあたり『思想は富貴の身分から生まれるものではない』という命題の真正性を担保するのは、一老学究の生身の肉体と、彼が固有名において生きた時間だけである。この命題はそれ自体が一般的に真であるのではなく、白川静が語った場合に限って真なのである。世の中にはそのような種類の命題が存在する。そのことを私は先生から教えて頂いた。」(「白川先生から学んだ二三のことがら」)
その人ではない人間が「同じ言明」を語っても真としては通用しないような言葉は、その人ともに「死ぬ」。

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以上引用。
内田樹の研究室:死ぬ言葉 より

前のhappy go luckyの話とかしてくれてないのだけど。


前半の、造花と生花の違いの話。
やはりそうなのだろうと思う。死ぬことができるかできないか。
造花は枯れてなくなるということがない。古くなったり熱で溶けたりはするかもしれないが、少なくとも数日内にどうしても枯れなくてはならない運命である生花とは違う。
数日内に枯れるとわかっているからこそ愛でるというのも現金な感じはしないでもないのだけど、しかしそういうものなのだから仕方ない。無くなるから愛おしいのである。惜しむのである。

かたちあるもの全ては壊れるというけれど。
その儚さには程度があって。
切り花などはその最たるものであって。
そしてもしかしたら今過ごしているあなたとの時間、とか、今感じている音楽への情熱、とか、そういったかたちなきものの方が儚かったりもして。

先日、歯医者の診察台で30分くらい待たされてる間に、ちらりと眼に入ったのが、魚で。
なんで診察室に魚がいるんだよと思うけど(そして私は何度もその席に座っているのにはじめて気づいたんだけど)。花瓶みたいな小さい水槽にただひらひら泳ぐ魚がいた。たまに雑貨屋なんかでみかけるやつだ。
かわいそうに思った。これからの一生をこんなところで過ごすなんて。つまり、そう遠くない時期に死ぬのだろうに、ここで閉じ込められているなんて。
それは死ぬことを前提にしているから思うのだ。多分。意識があるかないかでも違うのかしら。
まあ、前半部分についてはそうよなあと思いました。良かれ悪しかれ。


で、後半の言明についての部分。
これは厳しい言葉だよなとも思いつつ、でも当然のことだなとも思い。
というかストイックに考えていけば、体験からしか言葉は発し得ない、ということになる。そう考えていた時期もあったし、そう振舞っていた(つまり体験していない、または体験したという確信が持てない事項については態度を保留し言葉を発することを控えていたということ)。
体験していないことについて語るのはただの想像だ。その通り。それを裏付けられない。責任も持てない。保証できない。

でも、だから語るなということはできない、と思う。

私も新聞の定型文にはうんざりする。こういう風にまとめとけばいいや、で書いた文章はぜんぜん面白くない。言葉に本心が入ってないからだ。私達はそういうのが読みたいんじゃない。生きた人間の声が読みたいのだ。新聞社というところの激務の最中に心を込めて文章を書けというのは酷なのかもしれない。でもそれがやりたくて新聞って書いてるんじゃなかったろうか。何か伝えたくて出してるんじゃなかったか。難しいのはわかってるけど。

で、だ。
この若造がなんにもわかってないくせに語るんじゃない、というやつ。そういう叩きとか諭しがあっていいけど、若造が大いに語るのはいい気がする。それは若造なりの表現で。何にもできないなりの言明で。

Web本の通信社:「お前は何様だ!」と怒鳴られた就活生~『勉強会に1万円払うなら、上司と3回飲みなさい 』

これもかなり納得はいくんだけど。というか普通に考えて、そうだろうなと思う。組織の何たるかとか仕組みとか知らずにできることではないし。

こういう内田樹からのびしっとした一言とか、上の「お前は何様だ!」とか、一喝されつつ、腹の底で「今に見てやがれ」と思うってのは、いい。好きだね。
でも言ってみないことには一喝も落ちてこないからな。言ってみていいんじゃないかな。例のKY曲線も相俟って奏功することもあるかもしれぬ。

自分生意気だからな。院というか前の職場でも今のバイト先でも生意気だ。まじお前が言うなって感じだ。けど言っちゃう。仕方ない。
最近、入学当時ローの諸先輩方がいかに寛大であったか(当時21歳)、というのを友人が書いていたけど、私もそう思う。というか多分未だに寛大であり続けているんだろうと思う。そして今後も。私が今の21歳の人々と職場で接してみて、ああこういうことだったんだなと思う(最年長)。若いのとか平成生まれでびびる。いきものがかりとか言ってる。サークルのコールの話とかしてる。まあそれはいいや。


つまり、生きている(死を予定している)って尊いなと思ったということ。

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