September 24, 2010

即興ということ

即興で音楽を奏でたり、即興で何かを喋ったり、即興で歌を詠んだり、即興で踊りを踊ったり、するということが、結構評価をされると思うのだけど。

確かに即興でできる、というのはすごいことなんだと思う。何にも準備なしに、急にさあ見せてごらんなさいと言われて、ぱっとできるというのはそれだけの知識なり経験なりをその人の中に蓄積しているということだし、かつその蓄積をその場で再構築できるということだから。

でも、即興の作品が美しいのかというと、それはわからない。即興であるということを差し引いて考えれば、なるほどよいものだ、ということになるのであろうけれど、単に作品として見たときに、それが入念に準備して工夫を凝らされ何度も修正されたものと、即興のものであれば歴然とした差がつくと思うのだ。
当たり前なんだけど。

なんでそんな当たり前なのに、即興でわざわざパフォーマンスをしたりするんだろう。って、最近のジャズトリオのCDを聴いてて思う。ものすごくハイテンポのピアノジャズで。鮮やかだけれど乗りきれず、情緒を感じることもそんなにない(しかも、彼らの曲が即興であるかどうかというのは未確認である。大体ジャズなんだから即興性は程度の問題だろうと。違ったらすいません)。

で、多分。即興を好むというのは、その鮮やかさということが理由なのだろうなと思う。
その場でしか生まれえない、一瞬の閃きのようなものがある。
その場で生まれてきた音、和音、テンポ、メロディ。その閃く姿が鮮やかに見え、斬新に見え、さらにその一回性、限定性に酔うのかもしれん。
多くの人はそういうのに弱い、私もだけれど。でも一回しかないことなんてあふれている、ほんとは。

でも、私は即興作品でいいなあと思うことはあまりなく、かつ即興であるということによってそんなに感動もしない。
とそのピアノジャズを聴いていてそう思う。
で、あんまり即興っていいもんじゃないなあ、という感想を抱いていて。


で、さっきイチローが10年連続200本安打ってニュースが入ってきたんだけど(すごいね)、彼らのやってる野球とかというものは、全部即興だなと思って。
毎日何時間もその試合の4打席かそこらのために、バッティングやら走り込みやらをするのである。下準備は欠かしていない。でもその試合のその一瞬には即興である。
野球が即興で音楽を演奏することとどこが違うのかというと、その主体が自己に限られているかそうでないか、ということだと思う。自己だと狭すぎるな。自己を含めコントローラブルな人々に限られているかそうでないか、か。
野球は敵味方混ざって審判や観衆や天候などの各プレイヤーが、即興で試合を作ってゆく。その場の判断で走ったり、スライディングしたり、バットを振り下ろしたり、球種を選択したり、石井がピッチャー返しを素手でつかもうとして指を痛めたり、野手のエラーがあったり、応援の声をふりしぼったり、野次を飛ばしたり、雨が降ったり、風が吹いたり、するのである。それは誰かのコントロール下にはない(ルールはもちろんあるけど)。即興でしかつくれないのである。
かつ。
甲子園などは、トーナメント制なのでその試合に負ければこれ以上その大会で試合をすることはできない。3年生なら卒業してしまうため、ここに高校球児として戻ってくることはできないのである。この、一回性。限定性。悔し涙と見ている方の切なさの理由。
そう考えると、私即興性、好きじゃん。と思った。

そんな日。

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