October 8, 2009

こびとさんのこと

前の前くらいの適当なエントリで、考えてることメモみたいのを書いたが、あれは考えてることではなくて、考えようかなと思いついたお題、だ。
ついったーでもつぶやいたけど(このフレーズ最近多いな。ついったログをブログのエントリにもできるけど、好みじゃないのでやらない)、何か書く時というのは、それを具体的にいくつか思いつく時で、かつ文字に起こそうというやる気がある時だ。書けない時はそのどちらかが欠けている時だ。どちらも欠けていることもある。
で、思いつくまではやったよ、というのがメモだ。
これをエントリにするかどうかというのは、やる気とかやる気とかやる気にかかっている。

で、こびとさんの話。
なんだよこびとって、というのは、これである。
内田樹の研究室:こびとさんをたいせつに

引用すると、

---------------------------------------

真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。
だから、自分でだって「ぎくり」とするはずなのである。
何でわかっちゃうんだろう。
そして、どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。

(中略)

知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
「自分にできること」はいつだってできる。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである。
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。

---------------------------------------


この、二重底というのは、わかる気がして。意識下というか。奥底にあるもの。コアのコア。

何かを考える時というのは、意識下のものを意識に持ち上げてくるような感覚がある。探るというか。
テーマが目の前に提示された瞬間は、考えというものはすぐ口に出せる状態ではない。自分がこう思っているとか、こう感じているとか、それが何故なのかとか。自分の考えは意識には上っていなくて、下の方に沈んでいるのを探し出すというか。探し探し話す。
引き出しと言ってもいいし、二重底と言ってもいいし、コアと言ってもいいし、こびとさんと言ってもいい。

あらかじめ答えを用意しているような、たとえばスピーチやプレゼンや面接とかのとき、これはあらかじめ意識に上らせているものを口から出しているだけである。
そうではなくて、議論とかもしくはこういうブログのエントリとか、何かしらを考えるときは、探す。それをなんとか形容して表面に出す。

そして、何か感じたことを表現するときには、こびとさん的なものに確認しているのかもしれないな、とか思った次第。いくつかの形容詞や比喩なんかを用いて、これくらいでまあいいか、とこびとさんが言うのを待つというか。

ちなみに、私のこびとさんは、私が言ったことが相手に誤って伝わっていたりすると、結構しつこく訂正したがる。私は大抵間に入って、完璧に理解されることはありえないわけですし、とか言ってみる。こびとさんは、自信があるときはよく働くが、落ち込むとなかなか大変であるので、私の仕事は彼の自信をなくさないようにすることである。
と、内田さんに倣って分析してみる。

No comments:

Post a Comment