July 8, 2009

読んでない

安達さんから、「1Q84読んだ?」というメールが来た。
結局まだ買っていない。

春樹ならまだ読んでいないものもたくさんあるし、咀嚼しきれてないしなあとか思っていたので、ねじまき鳥でも次は読まむ、と思っていたのだが、安達さん曰く、「とりあえず読んでみなよ。ベストセラーとか古典って読む前からいろんな人の評価が入ってきて変に先入観もっちゃうしさあ、そういうのって邪魔でしょう」だそうで、確かに、なんて思った。


で、結局「海辺のカフカ」の話をしたりして。なんというか、いろんな見方があって面白い。
春樹作品について人が語る時、その人の性質が出てくる気がする。どういう楽しみ方をしているのか(あるいはしていないのか)、何がどういいのか(あるいは悪いのか)、あの説明が不十分なままに置いて行かれるやり方をどう思うのか、みたいな。
どの作家の作品にせよ、まあそうなのだけど。

何かの文学作品を好きだというときというのは、何かの音楽が好きだとか、絵が好きだとか、場所が人が好きだとかいうよりも、気恥かしいような、さらけ出してしまうような、告白してしまうような、そんな感じがある。文学ってものが、内面のものだからだろう。それに肯定の評価を加えるにしろ否定の評価を加えるにしろ、とにかく浮き上がらせる。文章で露わにする。あられもない、と思う。


そして結局、安達さんとまともにできる話題は、本なんだなあと思う。でも今までそんな人はいなかった。話題が本だけなんて。
彼とは本のことでしかメールが続かないし、多分会話も続かない。で、共通話題が本だったとしても、楽しみ方というか、読み方が幾分違う気はしている。
私はなんというか、最近シリアスすぎるのだと思う。今までがあまりに軽かった分、これじゃあ作家に失礼だとか、勿体なかったとか、つまり反動。しばらくしたら落ち着くだろうけど、まあ、好みの問題だ。
安達さんは軽やかに、でも深いところを横目で見つつ、楽しんでいる感じがする。

人と仲良くなるときには、どうしても共通言語みたいなものが必要だと思う。わかり合う瞬間とか語り口だとかそういったもので合わせる、同じ波長で喋れるというか、会話の次元が同じというか、なんかそういうの。信頼のようなもの。そういうとき、言葉は自分の意図した意味で相手に届くし、逆もそうなる。
それを合わせるのに大変な人もいるし(もう全然合わなくてさじを投げることもよくあるし)、すぐに合う人もいる。
で、この人とは是非とも合わせたいと思う人もいるし、そうでもないって人もいる。前者に関してはほぼ直感で、この人と仲良くなりたい、会話をしてみたい、と思う。その時、なんでその人なのかはよくわからない。

話が結構それたな。
結局は、さっさと1Q84、ということかな。

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