July 22, 2009

無の無。

無色透明っていうのだけども、透明というのは見たことはない。そもそも見えないものが透明だからな。
透明なものがあったとして、それが透明であるということが分かるのは、その向こうにある何かが見えるからで、その何かを見ることによってその何かと自分との間にあるものが透明だということを知るのである。

だから、完全な透明だけ、というものはイメージが出来ない。向こうに物が見える、というのはイメージが出来るけど。
イメージというのはあくまで何か目に見えるものだからだ。

同じように、というか、更にイメージできないものが、無だなあと思う。
無、といわれて私がイメージするのは、真っ暗な空間だったり真っ白な空間だったりするのだけど、それすらも空間が存在しているので、無ではない。なんにも無い、ということは絶対イメージできないし、イメージできたらそれは無ではないということになる、と思う。たぶん。

そして、イメージできないものを、言葉にして定義したということがかなりすごいね、と思った。みたいな話。

まあ多分、そもそも「無」っていう言葉は何かに限定して使われて出てきた言葉なのかもしれないけど。例えば、椅子が無い、とか。テーブルとか部屋とかコーヒーカップとかはあるんだけれども、椅子に限った話では、無い、という使い方。そこにあるのは椅子が無いという状態で、それは全然イメージできるから、あんまりすごくない。
すごいなと思うのは、なんにも無い、って意味の「無」だ。
でも多分これも、その部屋からどんどん物を無くしていったらたどり着けるような気もしないでもない。椅子を無くし、テーブルを、コーヒーカップを、部屋それ自体を、無くしていったら、と考えると、究極的にはまあ「無」にたどり着く。
すると、あんまりすごくないな、という話になる。む。すごいと思ったんだけどな。

空の空。すべては空。
って言葉があるけれども、そして私は結構この言葉が好きなのだが、空と無だったらやっぱり無の方が究極的なんだろうなあと思う。空っぽ、ということと、なんにも無い、ということは、ある状況では同じことを意味するのかもしれないけれど、厳密な意味においては、空の方は空間を残している気がするのに対して、無はそれすらも残さない、と思う。

話はそれるけど。
言葉というのは、あらゆる物事に名前をつけたものなんだなと思う。
言葉に「言葉」という名前をつけ、口から言葉を出す行為に「言う」という名前をつけ、口に出さずに考える行為に「考える」「思う」なんかの名前をつけて、そうやって網羅的に人の行動や物に名前をつけていって、それをみんなの中で共通させて、伝達するのに使うということ。
ものすごく壮大なプロジェクトだったな、と思う。大抵の物事や事象に名前がついていることに結構驚愕する。身の回りのものを見渡しても、名前がついていないものはそうそう無い。
そしてそれが何百年、もしかすると何千年前から、ある程度完成していて、いろいろな人々の手によって半ば無意識的に更新され続けているというのは、ものすごく興味深い営みだと思う。

言葉の中には、息の長い言葉、半永久的な普遍的な言葉と、旬のある言葉というのがあるな、とも思って。「無」なんか前者の最たるものだと思う。「生」とか「死」とか「愛」とか「憎」とか、そういうシリアスめいた言葉というのは大抵そうで、それがシリアスなのは全員の根幹に共通する性質であるからで、そういう根幹の部分の言葉というのは何故か敬遠される。それが生命にとってナイーブな部分、ある意味でのウィークポイントであるから本能的に避けるのかもしれぬ。
そしてそういう話題がのぼるとき、皆神妙な顔つきになって、自分を相手を傷つけないように慎重になるのかもしれない。
でも、無はそんなでもないな。まあいいや。


で、どうしても無がイメージできないなあと思ったということ。

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